3話 エビングハウスの忘却曲線
反復は記憶定着に有効的だ。
人間の脳は1度学習したことを1時間後には56%忘れてしまう。
1日経てば74%、1週間経てば77%、1ヶ月後には79%忘れるという調査結果が発表されている。
憶えておきたいことを復習して憶えるのは、教育現場でも常識と理解されているだろう。
学ぶこととは、努力の繰り返しと言える。
逆に、意識的に物事を忘れるにはどうすればいいか。
あるいは、思い出しかけている『何か』を思い出さないためにはどうすればいいか。
気にしない。
それが出来ればどんなに楽なことだろう。
努力の繰り返しにより憶えることができるのがこの世のスタンダードであるが、憶えないために出来ることは少ない。
心の問題とは厄介なもので、一度気になればその気付きが心に巣食い、決して離れない不安の種になりかねない。
敏感な人間は、常にそのリスクを背負って生きている。
花田が安心感を求めていつもと同じ怠惰な日常を繰り返そうとしているのは、ただ単に新しいことをするのが億劫なだけか、それとも本能的にそのリスクを回避しているのか。
「まーたお前は唐揚げ定食食ってんのか。前はあんまり好きじゃないって言ってなかったっけ?」
「ほっとけ。」
学食で唐揚げ定食を食べているところをまた智広に見つかり、小言を言われる。
最近の花田は極力固定化された1日を過ごそうと躍起になっているきらいがある。
朝起きたら身支度をしつつ、ラジオ感覚にテレビのニュースを垂れ流す。
あまり注視することはなく、あくまでBGMとして点けておく程度になる。
それが済んだら登校し、講義を受ける。
とはいっても真面目に内容を聞くかといえば必ずしもそうではなく、単位取得のために出席しているようなものなので、時折居眠りしたりスマホで暇つぶししたりと過ごし方は様々だ。
特に課外活動を行なっていない花田は、全ての講義を受け終わると帰宅するか、バイトが入っている日はそのままバイト先へ直行する。
夕食はいつも最寄りの弁当屋で購入している。
1日の最後は、眠りにつくまでだらたらとYouTubeを見て過ごす。
新着動画を見ることももちろんあるが、最近はお気に入りの動画をリピート再生することが増えていた。
反復学習の賜物で、動画内容どころかどのタイミングで広告が流れてくるかさえ完璧に憶えてしまっていた。
しかし残念なことにこの記憶が有意義なものとして役に立つことはないだろう。
ただ一重に、花田に安心感を与えることに一役買っている。
「なんか最近病的な感じするぞ。『いつものメニュー』を選びがちになっちゃうのはまあ、なんとなく分かるんだけどさ。」
「そりゃ、おれだって別に好きで好きでどうしようもなくて、これ食べてるわけじゃないけど・・・。他のメニューとか他の場所で昼飯食うのが、なんか違和感あって・・・。」
「ルーティンがあるのはいいことだと思うけど内容にも寄ると思うぞ。お前の場合、よく分からないけど不健康なルーティンな気がする。毎日を変なところで固定化してても楽しくないだろ?」
「・・・。」
「そこで、だ。佑一郎、この前も話したけどやっぱ今夜の飲み会参加してくれないか?多少の刺激はどうしても必要だと思うんだよ。」
智広の言う飲み会とは、インカレのオールラウンドサークルによる交流会のことであった。
大学の枠を越えた交友関係を作れる場として、智広をはじめとする幾人かの活発的な中心人物たちにより結成されたなんでもやるサークルだ。
正直言って、花田はこの類の組織があまり好きではない。
誰かれ構わず交友関係を広げるのが苦手なのは、最近になっての傾向ではなく昔からそうだった。
「最近またちょっと幅を広げてさ、若めの社会人の人たちにも声かけて参加人数増やしたんだ。」
「おいおい、もはやインカレって感じでもなくなってきてない?」
「まあそこらへんの定義はこの際どうでもいいじゃんか。頼むよ、実は一人急に来れなくなったやつがいてさ。席あいちゃったんだ。」
「わかったわかった、行くよ。」
新しい刺激こそをなんとなく恐れていた花田であったが、このままこの状態が続いていいものかと、その点にも不安を感じていたのは事実だった。
少しずつ慣らしていく必要がある。
そう思い智広からの誘いに乗った。
「助かる!詳細はまた連絡するから。」
こうして花田はルーティンから外れる。
『なにか』が始まったあのとき以来、ずっと同じところを足踏みしていた。
予感がある。
変化が訪れると。
それが良いことなのか悪いことなのかこのときの花田には判別できなかったが、全てが終わったあとに聞いても明確な答えは出ないのかもしれない。
ともかくこの後、ようやく花田はスタート地点から動き出す。
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