第8話 終幕
星澪からの突然な問いかけに、翠花は目を見開いたまま首を傾げた。
晴天の霹靂である。洛央の都の空は、今日も青く晴れているが、雷が落ちるのは困る。
「あの……、――どういうことでしょうか?」
星澪の意図がわからずに、翠花は首を傾げる。
私、やっぱり先日の後宮でとんでもない失敗をやらかしてしまったのだろうか?
実は皇帝のご不興を買って、お店が取り潰しになってしまうとかだろうか?
ころころ変わる翠花のそんな表情を見て、静雅は可笑しそうに口を袖で覆った。
戸惑う翠花に、真顔の星澪が続ける。
「――実は、皇帝陛下が、お前のことをいたく気に入られてな。お前を後宮で雇わないかという話になっている」
「――冗談……ですよね?」
「いや、本気だ」
星澪の真剣な目。どうやら本気らしい。「
「……えっと、後宮に上がるって、……妃でではないですよね?」
「あたりまえだ。さすがに皇帝陛下もそこまで物好きではない」
全否定。いや、それはないと思ってはいたが、一瞬抱いた乙女の妄想を全否定するのは、あまりに空気が読めなすぎるのではないかと、翠花は思う。だけど星澪が空気を読めないのは以前から分かっていたことだし、そもそもこの男が空気が読めないからこそ全てが始まったのだ。というわけで平常運転である。
「……では、女官として? 静雅みたいな?」
「うーん、それも違うな。そもそも女官とはそれなりの家柄の娘がなることが多い。その前に礼儀作法などの教育もいるしな。お前がなるのは、難しいのではないか?」
容赦ない追い打ち。翠花は少しばかり傷つきながら、どうして自分はこんな言われようをせねばならないのだろう、と思ったりもした。まぁ、全部、知っていたことなので、あらためて考えると「そりゃそうだ」以外の感想がないのだが。
「――では、どのような形で雇っていただくのでしょうか?」
翠花は尋ねる。星澪は一つ頷いてから、目を細めた。
「翠花。貴女を後宮専属の『心理士』として任用したい」
「――心理士!?」
「そうだ。もしお前がこの任を受けるならば、君はこの紫銀国始まって以来初めての心理士ということになる。――お前の言う『心の理』がどれだけ天下のために役にたつか、それを試してみる気はないか?」
晴天の霹靂。でも其の雷は、これまでの天を割って、新しい光を差し込む閃光であるようだ。もしここに師匠が居れば、どんな顔をしただろうか? どんな風に助言を与えてくれただろうか?
「――でも、そんな前例のないこと、……大丈夫なのでしょうか?」
「大丈夫だ。皇帝陛下ご自身が裁可される。問題などあろうはずがない」
それはそうなのだろうけれど。だけど宮廷の中にも、後宮の中にも、様々な人がいる。その心の一つ一つは皇帝陛下が右と言ったから右、左と言ったから左となるわけではないのだ。そういう人の心の理を、この男は分かっていないのだろうか?
翠花が星澪の顔を覗き込むと、その美しい顔の上にある碧色の瞳は、無邪気に澄んで輝いていた。そうだった。この男は空気が読めない残念
ふと静雅の方に視線を動かすと、ちょっと心配気味な表情を作っていた。やっぱり、いろいろ後宮内にはまだまだ難しいことがあるのかもしれない。
「しかし、やはり、私には酒場の仕事もございますし、家族の生活を支えなくてはいけませんので」
自分がいなくても、もう酒場は
「そこは問題なかろう。酒場の売上に相当する金額を保証しよう」
豪勢な提案に、翠花は思わず顔を上げる。「
ちなみに男は言っていうのだ「売上」を保証すると。「利益」ではなくて。
通常、売上額から仕入額などの費用を引いたものが利益である。翠花にとってのいわゆる収入は「利益」の方なのだ。つまり売上分をそのままの金額でもらえるのなら、仕入額に相当する金額が丸儲けになるのだ。思わず、翠花は生唾を飲み込んだ。
「えーっと、星澪さま。うちの月間の売上がいくらかご存知でしょうか?」
「知らん。幾らなのだ?」
「――これだけでございます」
おずおずと翠花は指で数字を示して見せる。それを見て星澪は首を縦に振った。
「いいだろう。満額だそう」
「――
思わず机に両手を突いて、翠花は腰を上げてしまった。
彼女の顔を見上げて、星澪は表情を変えずに「うむ」と頷く。
視線を動かすと、その先で静雅は「そのとおりよ」と言うように柔らかく笑んだ。
椅子の上に腰を下ろした、翠花は軒の向こうに広がる空を見上げる。
(――心理士かぁ……)
一度、目を閉じる。翠花の瞼の裏に、随分と前に別れた師匠の笑顔が浮かんだ。
師匠は遠い遠い異国で、そんな感じの仕事をしていたと言っていた。
いつか丘の上から遠くを眺めて「この世界でも、そんな仕事が出来たら良いんだけどね」と師匠は言っていた。本当はそんな師匠に相談したい。でも、今、この都にいない相手に相談することはできない。
だったら自分の心に問うしかない。心は天と繋がっていて、いつも正しい答えをくれる。心の声に従おう。好奇心に従おう。自分が知りたいこと、感じたいこと、触れあいたい人。
私は人が好きだ。人の心を感じることが好きだ。
だから酒場が好きだった。でも、もしかしたら私は、次の世界へと踏み出す時なのかもしれない。
自分にとってはまったく未知の世界だけど、そこで私の知識が役に立つなら。
そしてそのついでに好きなものをいっぱい買えるお金を貰えるならば!
ふと背後に気配を感じる。振り返り見上げると幼馴染みの飛龍が立っていた。
「ねえ、飛龍。――私が後宮に働きに出ても大丈夫? 酒場は回せる?」
「なんだよそれ。俺だっていつまでも子供じゃねぇんだ。日頃の店くらい、翠花がいなくても回してみせるさ」
「お爺の面倒も?」
「……そこは、他の子にも手伝ってもらいながら」
翠花は思案するように顎に手を当てる。
「俺たちのことは難しく考えなくてもいいよ。翠花のやりたいことをやればいい」
「――飛龍」
「翠花は随分と長い間、俺たちに気を使って、この酒場を切り盛りしてきてくれただろ? だからそろそろ好きなことをすればいいさ。――それでお金も儲かるなら一石二鳥じゃね?」
「でも、酒場を放り出していくなんて……」
飛龍は、左手に持ったお盆で、翠花の頭をぽんっと叩いた。
「翠花。いつも言ってるじゃん、好奇心に従うのが大事だって。心に従うのが大事なんだって。――翠花はどうしたいんだよ? ――翠花の心はなんて言っているんだよ?」
「私は――私の心は……」
そっと目を閉じる。
そこに浮かんだのはまず酒場の人たちの笑顔だった。
そしてそれに混じって、自分と飛龍に挟まれて、笑っていた師匠の姿。
やがて情景は移りゆく。瞼の裏に写ったのは桜の花だった。
紫銀国の王宮で咲く満開の桜の花だった。
宮廷の笑顔が、後宮の笑顔が、紫銀国隅々に広がり、そして人の心に花が咲く。
やがて自分が立つその主楼の縁側に、遠方からの旅人が訪れる。
それは師匠だった。ずっと会いたかった、たった一人の師匠だった。
そのイメージは鮮烈で、翠花の心を染め上げた。
まるで天からの心に与えられた啓示みたいに。
「――で、どうする? 翠花」
あの日、軒下で声を荒らげた、長髪色白美男子が、目を細めた。
その横で、静雅が穏やかな笑顔を浮かべる。
翠花は心を決めた。手元の茉莉花茶を飲み干すと、大きく息を吸った。
そして目を開いた。その瞳にはほんのりと翡翠の色が差している。
「やります! 私、心理士やります! 紫銀国の後宮で心理士になります!」
両手を机に突くと、翠花は立ち上がった。
そして二人の顔を交互に見ると、「よろしくお願いします」と頭を下げた。
星澪と静雅は、顔を見合わすと、満足気に笑顔を交わした。
その時、行商人が露店での販売開始を知らせる法螺貝の音が、街路に響いた。
まるでそれは翠花の決心を祝福する、祝砲のようだった。
翠花はまっすぐに星澪のことを見る。全ての始まりになった残念美丈夫のことを。
美しい碧い瞳は、翠花のことを見上げていた。しばし二人の視線がぶつかり合う。
やがて、彼の目が悪戯っぽく細められた。
「――では早速だけれど、今から急ぎで、後宮に来てもらえないだろうか?」
「え? 今日ですか?」
「ああ、ちょっと後宮で、面倒な事件が起きていてなぁ……」
なんだか星澪が、わざとらしく視線を横に逸した。
隣を見ると、静雅が「ごめんね」というように両手を合わせている。
翠花は思う。
もしかして自分はとんでもない勇み足を踏んでしまったのではないだろうかと。
法螺貝の音がもう一度響いた。
顔を上げる。向こう側で
*
ここは大陸中央に位置する
この物語は、後宮における女の争い、宮廷における男の争いに巻き込まれながらも、人々を導き、皇帝や若き皇子と共に、紫銀国の栄華の時代を作っていく一人の女性の物語である。
紫銀国の後宮に伝説として残る役人として、そして一人の女性として駆け抜けた存在。歴史上初めての心理士「翠花」。彼女の立身出世と恋の物語は、何の変哲もない少し賑やかな街角の酒場から始まったのであった。
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紫銀国後宮伝 〜心理士翠花、桜の宮廷で輝く〜 成井露丸 @tsuyumaru_n
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