第7話 書物の遊戯

 後宮奥の大広間。四つの宮の妃と女官たちが集まった華やかな世界。

 手探り気味に始まったその遊戯は、始まって半刻も経たぬ間に広間の中に一体感を生み出して、和気藹々としたその場の雰囲気は軌道に乗った。


 一番手になったのは、翡翠宮の貴妃、美翠であった。教養が最も深いであろう筆頭格の妃が紹介したのは紫銀国しぎんこくの歴史に関わる書籍だった。紫銀国の歴史に関しては、女官たちも基本的な知識は持っているものの、ちゃんとした書籍を読んで学んだものは多くはなかった。だからか、興味深そうに聞いていた。


「ねえ、昔の皇帝陛下の中で美翠さまが特に素晴らしいと思われたのは誰?」


 質問の時間。そんなぎょっとする質問をしたのは紅玉宮の雪梅妃だった。


「そうですね、私は――」


 美翠妃が答えたのは、人民の農業生産改善のために大規模な治水工事を行った百年ほど昔の皇帝陛下の名前だった。

 

 書評の遊戯はわいわいと賑やかに進んでいく。二番目に皆の前で語りだしたのは、先程質問をした紅玉宮の淑妃、雪梅。紹介したのは花の本。雪梅妃はその言葉遣いの粗さなどから、どこかがさつさが心配されていた妃であったが、その紹介する本が花の美しさを愛でた本だということで、他宮の多くの女官たちがなんだか意表を突かれたように驚きながら、その紹介に聞き入っていた。その発表は雪梅妃がいかに綺麗で可愛いお花が好きか、彼女自身のことが伝わってくるものだった。翠花も思わず頬を緩めた。


 次に皆の前で語ったのは、藍玉宮の賢妃、玄青。紹介したのは西方の国から伝わった詩集であった。それはかなり希少な本であることは明らかであり、特に詩歌に造形の深い女官たちは体を前のめりにして耳を傾けた。実は玄青妃には西方民族の血が流れているのだと言う。だから苦労したことも昔にはあったと、語る彼女の言葉に、共感するように頷く女官たちもいた。きっと似た境遇にいるものもあるのだろう。


 最後に発表したのは、琥珀宮の徳妃、嫣紅だ。子供っぽくて、どちらかと言えば教養が薄いと思われがちな妃であり、今回も「本の紹介」であれば勝ち目などないと多くの女官たちが思っていた。そんな彼女が取り出したのは架空の物語だった。南の国の水龍を倒す少年と、その少年と恋に落ちる娘の話。物語の後半で実はその少年が皇帝の隠し子であったことが明らかになり、少女は皇太子のたった一人の妃となるのである。あまりに単純で子供向けなお話ではあったけれど、皇帝からのご寵愛を受けることを夢見る女官たちには刺さりまくったみたいで、女官たちは興奮気味に聞いていただった。


 四人ともの発表が終わって、投票の時間になった。改めて翠花が投票の決まりを説明する。公平を期すために、全員に目を閉じてもらって、順番に挙手してもらうことにした。

 すべての書物についての投票が終わり、その集計が終わった。その結果を見て、翠花と星澪は思わず顔を見合わせた。


「では、皆さま、目を開けてください。集計が終わりました」


 星澪の美しくてよく通る声が大広間に響く。


「それでは、講師の心理士、翠花から結果をお知らせしたいと思います」


 目配せされて、翠花が一歩前にで出る。

 ぐるりと広間を見回すと、彼女は一度目を閉じて、投票の結果を伝えた。


「本日の勝者チャンプ本は、――琥珀宮の嫣紅妃の紹介された『南方水龍討伐記』になりました。おめでとうございます!」


 翠花が結果を伝えると、黄色い一群から歓声があがった。嫣紅妃は無邪気にその本を掲げて喜んでいる。そして広間の全員に向かって「ありがとう! 読んでねー! いつでも借りに来てねー!」と、ちょっと興奮気味に声を出していた。他の宮の女官の中にも、読みたそうに首を伸ばしている者が何人もいた。


 その様子を眺めながら、翠花は、なんとなく思う。本を貸したり、借りたり、読んだり、語ったり。そんなことをきっかけにして、四つの宮の間で少しは人が行き交うようになるのかもしれないな、と。


 広間を拍手が包む。勝者チャンプ本に選ばれなかった宮のものも皆、どこか楽しげであった。やがて遊戯が終わり、翠花が促すと、女官たちはそれぞれの興味がある本を持つ四妃の近くに寄って行って、紹介された本についての会話に花を咲かせ始めた。誰が誰の女官であるかなど、関係なく。

 大きな広間の中で、四つの色が混じり合う。

 翠花はその様子を眺めながら、安堵感と満足感で頬を緩めるのだった。

 人の心は理に従う。だからその場にきちんとした機序を与えれば、人と人との関係はちょっとずつ良くしていくことができるのだ。まるでそれは病に侵された身体に、適切な薬を与えるようなものなのだ。

 

 隣に立つ星澪と目が合った。澄んだ碧い瞳は彼女を見つめていた。

 どこか驚いたように。

 その瞳を見つめ返して、翠花は小さく肩を竦めた。



 *



 今日も洛央の街はよく晴れている。茶褐色の街路を馬に引かれた荷車が走り抜ける。王城の方へと荷物を運んでいく荷馬車だ。軒下の四人がけ机の座る翠花たちのまわりに砂埃が舞った。

 桜の季節が過ぎ去り、紫銀国の都、洛央の気温も随分と温かくなってきた。

 翠花は机の上を拭くために倒していた上体を起こしてから、伸びをする。店の軒下に並んだ机の間から、宮廷の方角を見ると、十字路の角に花水木ハナミズキの木が体いっぱいに白い花を咲かせているのが見えた。


「おーい、翠花。お客さんだぜ〜! なんかお金持ってそうな〜!」


 背中から飛龍の声がして、翠花は「はーい」と声を返して振り返った。

 両手を腰に掛けた手ぬぐいで拭くと、店の入口へと向かう。


「星澪さま。静雅さま」


 そこには街中ではなかなか見ない、簡素ではあるものの上等な織物で出来た着物を身に着けた、一組の男女が立っていた。


「久しぶりだな、心理士よ」

「お久しぶりです。翠花さま」


 長髪の美男は少年のように破顔し右手を上げる。穏やかな女官は小さく頭を下げた。

 後宮で初めての書評合戦が開催されてから、もう三週間が過ぎていた。


 突然、店に訪れた星澪と静雅を、翠花は店の奥の席へと案内しようとしたが、星澪が「この前と同じ席が良い」と我儘を言うので、仕方なく一ヶ月前と同じ席へと案内した。一度、相手が貴人と分かってしまえば、その言葉に抵抗できないのは庶民の辛いところである。


 三人がその席に座ると飛龍フェイロンが茶碗を三つ運んできてくれた。中には温かい茉莉花ジャスミン茶が注がれている。その香りを楽しみ、一口含むと、静雅は翠花の方に視線を送った。その瞳から彼女の言いたいことを受け取って、翠花は一つ頷く。以前、静雅の部屋で飲ませてもらった茉莉花ジャスミン茶に似た茶葉を使ってみたのだ。あれから翠花は馴染みの商人に頼んで、そのお茶を仕入れることが出来た。そこそこの金額を求められたが、先日、後宮から支払われた大金あぶく銭が大層役に立った。 


「――あれから、後宮の方はいかがですか? 星澪さま」


 物珍しそうに周囲をきょろきょろ見回している青年に、翠花からそれとなく促した。本題に移るように。わざわざ後宮の管理人と女官がこんな街中までやってきて、用がないわけがないのだ。


「ああ、そうだな。あの後のことは知らないのだものな。うん、――随分と変わったよ。もちろん問題が全部解決したわけじゃないけれど、なんとなく四人の妃の間の疎遠すぎる空気はなくなったし、あれから何度か違う組み合わせでの宮同士のお茶会なんかも開かれているそうだ」

「――それは良かったです」


 さすがに銀貨二十五枚をせしめておいて、何も無かったでは、ちょっと申し訳ない。何も無くても、お金は返さないのだけれども。

 後宮で書評合戦を開催した日、実際の後宮における問題が癒やされるかどうかはまだわからないにも関わらず、翠花は成功報酬の銀貨二十枚を星澪から受け取った。

 なにやら皇帝陛下が大層ご満足なさっていたのだとか。


 尋ねると、どうやら皇帝陛下は、四妃たちが演じる書評合戦を御簾の向こう側からこっそりと覗いておられたそうだ。――覗き見とはまた趣味がお悪い。


「本当よ、翠花さま。後宮の風通しはあの一日だけでも随分と良くなったわ。それに私、他の四妃の方々はもとより、自分自身がお仕えする美玲さまがあのようなことを考えておられたなんて、知らなかったもの。なんだかぐっと四妃の皆様が身近な存在になったと、他の女官も言っておりましたわ」


 静雅は、興奮気味に言う。彼女にそう言われるとさすがに照れくさくて、翠花は首を竦めた。


「うむ。そうだな。改めて礼を言うぞ、翠花」

「あ、いえいえ。私は、ただ自分にできること、自分がやってみたいことをやっただけですから。気にしないでください。ほんと、沢山の報奨金も頂いておりますし」


 正直、本心だ。

 遠い異国からやってきた師匠に教えられた心の理の知識の数々、そして心の理から起きる問題を解決するために教えられた手法の数々。それをいつもの酒場以外で試してみたいという気持ちはずっとあった。だから先日の出来事は、やってみたいことを好奇心の赴くままにやってみた、という気持ちが強かった。

 そういう意味でも、あの一日で、銀貨二十五枚は美味しすぎた。いろいろ緊張もしたし、めちゃくちゃ疲れもしたのだけれど。

 後宮からの帰り道には、思わずいつもは手がでない花々や、お店の食器類を、買いこんでしまったくらいだ。

 咲き誇る花水木ハナミズキの向こう側の王宮を、あらためて見やる。


「――それに、私にとってやっぱり後宮は遠い世界ですし、あの日のことは夢だったくらいに思っていますから。今日もどういうご要件かはわかりませんけれども、またよろしければこの酒場をご贔屓にしていただければ幸いでございます」


 頭を小さく下げながら翠花が微笑みを浮かべると、並んで座る男女はお互いの顔を見合わせた。

 どこか困ったように。何から話そうかと思案するように。

 やがて星澪が真面目な顔をして、翠花の方へと顔を向けた。


「そのことなのだがな、翠花。――この酒場の仕事を辞めるということは可能か?」

「――へ?」


 突然の長髪美男子からの言葉に、翠花はその目を見開いた。

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