第27話 ルナ
兄が、いなくなった。その事実を、ルナは未だに受け止めきれないでいた。
至って何でもない日だった。前触れもなければ、虫の知らせなどと言ったオカルト染みた予感を得ることもなかった、ごく普通の日。
「早く帰ってきてね」
日常的に交わしていた挨拶。そう言っておかなければ、ソルの帰りが遅くなることをルナは知っていた。
言っておいても遅くなる日はあったが、言わないよりは比較的早かった。だらしない一面はあるものの、一度交わした約束は必ず守ろうとしてくれる兄だった。
行ってくる――そう言っていつも通りに出かけていった兄が、いつも通り帰ってくることを疑いはしなかった。
部屋の窓から通りを眺めた。
可愛いらしい双子が纏わりついていくのを見て、少しの嫉妬を覚えた。でも誇らしい気持ちの方が強かった。
妹という何物にも代えがたい立ち位置を譲る気なんてない。しかし兄を頼ってしまう気持ちは大いに理解できた。
口も態度も悪いのに、彼の隣はどこか居心地が良かった。それは多分、身贔屓がなくてもだ。
午前は少し勉強して、午後になったら運動がてら街をぶらぶらと歩いて。
軽い地響きはあったものの、すぐに収まったので特に気にすることはなかった。
そして今日はどのお店で夕食をとろうか、などど考えながら宿泊先へと戻ったルナを待っていたのは、神妙な顔をする機関の人間だった。
「ソルさんですが――」
「え?」
ルナは声にならない叫び声を上げて、その場に泣き崩れた。
来る日も来る日も、泣き疲れては寝て起きて、ふらふらとした足取りで兄が使っていたベッドに向かってしまう。
きっと全てが嘘で、悪い夢を見ていただけで。そんなこと、昔から何度でもあったのだ。
怖い夢を見た時は、兄の部屋へ行って一緒に寝る。
寝ぼけていても抱き寄せてくれた。
その兄の腕の中で身を縮めて、兄の暖かさと匂いを感じながら眠った。そうすると、もう怖い夢は見なかった。
ルナにとって兄というのは特別な存在だった。
兄でありながら父のような包容力を持ち、また兄でありながら母のような役割も担ってくれた。
友人や知り合いには、仲が良いねと揶揄い気味に言われることもあったが、余計なお世話だった。
たった一人の肉親だ。依存しすぎだ何だと言われようが、仕方のないことだと気にも留めなかった。
「崩落した建物の落下地点では、見つからなかったらしい」
帰省先から急いで戻ってきた兄の友人が、逐一情報を届けてくれるようになった。
感謝しなければいけないと分かっているのに、ルナにそんな余裕はなかった。
聞きたくもない悪い情報しか、入ってこなかったから。
こんなにも悪夢が続いたのは初めてだった。
なんで。どうして。ルナの頭の中で、取り留めのない考えがぐるぐると回った。
「あの日から……」
ふとベッドから体を起こして、ルナは呟いた。
思い出したのは、兄が崩落に巻き込まれた日ではなく、もっと前。
日常が狂い始めたのは、もしかしたらあの時からだったかもしれない。
第七島にある機関支部。地上探査から一人生き残った兄を、ルナは迎えに行ったことがあった。
「兄さ――」
運よく建物の外に出てきた兄を見つけ、声をかけようとするも咄嗟に黙り込んでしまった。
手を振ろうと上げていた腕は下がっていき、そのまま胸のあたりをぎゅっと押さえた。
兄は、静かに涙を流していた。
嬉し涙ならどれほどよかったか。兄の表情から、そんなことはあり得ないとすぐに分かった。
「兄さん!」
「ああ、ルナか。どうしたんだ?」
「今日は早く帰れたから……迎えに」
「俺は子供かよ。もう保護者は必要ないんだが?」
たまらず駆け付けた時には、すでにいつも通りの兄に戻っていた。
心臓がきゅうと小さくなったような感覚。悲しみや苦しみの前に、焦りと不安がルナの心を覆ったのを覚えている。
今思えば、あの日を境に兄は、さらに研究にうちこむようになったのではなかったか。
買ってもらったばかりの翡翠色のイヤリングを手に取った。昔はこういったものを買う余裕すらなかった。
兄の努力が結ばれた証であり、頑張りすぎる兄を止められなかった負の証でもある。
ルナの目からはまた涙が零れた。
元々兄が、生活のため仕事のためにと、自分の身を削って奔走しているのは分かっていた。きっとそれはルナのため。
分かっていたからこそ、親愛の情はより膨らみ、兄から離れられなくなった。
事あるごとに自立を促してきた兄からすれば厄介なことに、ある意味そのせいで、妹は兄から離れられなくなったのだ。
将来について、兄に聞かれた時もそうだ。
難色を示されていることは分かっていたが、それがルナの自分で決めた選択だった。どんな環境だったとしても兄の側にいるのが一番の幸せなのだから。
楽しいことがあれば、一緒に喜んでくれた兄。
悲しいことがあれば、寄り添い慰めてくれた兄。
何があっても絶対に側にいてくれた。
何があっても、兄さえいればなんとかしてくれる。そんな万能感のようなものさえ感じていた。
兄がいないと、こんなにも心細いのだと気づいた。
守られていたのだ。生まれた時からずっと。
強かった。肉体面も精神面も。
そんな兄が静かに泣いていたのを見た時に、ルナは一人誓った。
出来る限り傍にいる。もうあの日のような涙は流させない。
そして――
「アッシュさん。私を機関に入れてもらえるよう、誰かに頼むことは出来ますか」
今日もまた、心配して様子を見に来てくれたアッシュにルナの方から声をかける。
「ん? 突然、どうしたんだい?」
「私が」
そして、兄に出来ないことは妹がする。
「私が、怪物を殺します」
誰よりも強く、誰よりも賢かった兄に、出来ないことはないとルナは信じている。
その信頼している兄から言われた言葉は疑わない。
その信頼している兄に手放しで褒められた力が、通用しないはずはないのだ。
「ル、ルナちゃん! 口外するなと言われているが、教えておく! 怪物は、実は地上で生き残ってきた人間だっていう話で――」
「関係あるんですか?」
「え?」
無表情で言ったルナの言葉に、アッシュは凍り付いた。
「関係ありません。あいつらは、私から兄さんを奪った元凶です。私が、全ての
ルナがそう言った瞬間、翡翠色のオーラが全身を覆った。
ゆったりとした純白の生地。天使を彷彿とさせるような衣装へと、いつの間にか変貌する。
オーラウェポンの覚醒。
この日ルナは、現代に存在を確認された五人目の覚醒者となった。
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