第5話 森の奥
「どうした!」
隊長が呼び声を上げた隊員の方へ駆け寄っていくのを見て、ソルとエマも後を追う。
「複数の、獣の足跡を見つけました。何かを追うように続いています」
「方向は?」
「あっちです」
隊員が指を指した方向を見て、ソルは地図を開いた。
それはこの隊の進行予定方向だった。
「接敵するかもしれないな。気を引き締めろ!」
隊長の檄が飛び、今までにない緊張感が隊を襲った。
ほんの先ほどまでは、あれほど呑気な会話をしていたというのに。
落差による反動なのか、それとも初めての状況に戸惑っているのか。
自分の心拍数が急激に上がっているのを自覚する。
「ソル、隊の中央後方まで下がれ。エマはソルについてろ」
隊長の言葉に二人同時に頷いた。
珍しく静かなエマは、目だけでソルに合図を送ると先導して歩き出した。
「獣の足跡だって、言ってたが」
「そうね。ただ、それくらいはいつものことなんだけど」
「慌ててたように見えたな」
「ソル君のオーラウェポンは――」
「ない。未完成だとか強弱ではなく、使えない」
「私から離れないでね」
頷いて、また静かに移動する。
割り切ったつもりだった。納得もしていたはずだった。しかし。
悪い考えを振り払うようにソルは前を見据え、唇を噛んだ。
「どうしたんだろう」
「何かがいたというよりは、何かを見つけたって感じね」
小さな声でソルとエマは話す。
獣の足跡を発見してから三十分ほど経った頃だろうか。前を進んでいた隊員たちが、一か所に立ち止まっているのが見えた。
荒事は起こっていないものと判断した二人も、その集団に合流した。
「これは……」
思わず出てしまったソルの声。隣にいたエマはきゅっと唇を結んでいた。
木々が少なく、少し拓けた場所だった。
そこにあったのは凄惨な光景。
おびただしい数の獣の死体と、交戦したような跡。
何があったかなどと論ずるまでもなかった。
集団で何かを狩ろうとして、返り討ちにあったのだ。
「ソル君、あれ」
酸鼻を極めた光景に目を離せなかったソルが、エマの言葉に視線を移す。
エマが見ている方向、木々の向こう。薄暗い森の中に光が指していた。
目を凝らしてその先を見る。壁だ。壁があった。
首を少々傾けるくらいではその頂が見えないほどの高い岩壁が、眼前に拡がっている。
森の終わりに辿り着いたのだと、ソルは直感的に理解した。
「このルートにも壁。外れか?」
「まあ、私たちの隊としては、それが分かっただけでも――」
ソルが外れだと言ったのは、過去の調査記録からだった。
この広大な森を囲むようにして、大きな岩壁がそそりたっているという話がある。
まだまだ歴史の浅い地上探査だが、森を抜けた隊は一つではない。そしてその調査記録の全てで、森の先には壁があり、とても登れるような高さではなかったと記されているのだ。
では次に取りうる手段として、どうにかして壁を登るか、壁伝いに調査するかという話になりそうなものだが、ソルが所属する隊の装備と能力では難しい。
獣の大量死も含めて、一度戻って報告するという判断になるだろうとソルが考えていると。
「ソル君」
エマが一点を見つめ、動かない。
よく見れば他の隊員も、エマと同じ方向を見ていることに気が付いた。
慌ててソルも同じ方向に視線を移動させる。
すぐにあれか、と理解した。
岩壁に小さな――岩壁の高さを考えればそれなりに大きな――裂け目が入っていた。
「裂け目?」
「しっ。静かに」
ソルが話し始めようとするのを遮り、エマが唇の前に人差し指をたてた。
同じタイミングで他の隊員たちも、一様に静かになっていた。
所々で聞こえていた小声での雑談がぴたりと止み、風が木々を揺らす音が耳に残る。
一度視線を預けてからは、目を逸らすことができなかった。
得体の知れない何かがそこにいると、肌身で感じ始めていたからだ。
静謐とも言える森の雰囲気が、今はひどく不気味に感じた。
そして、張り詰めたような空気の中で、隊のほぼ全ての視線が裂け目に注目していた。
その瞬間、裂け目の中から、のそりと何かが現われた。
「……かっ」
喉がかすれたような呻き声を、誰かが漏らした。
裂け目の中から現れたのは『怪物』だった。
距離こそあるが、見間違いようのない黒い異形のそれは、間違いなく怪物と呼ばれるもの。
人類の敵。地上探査における最大の障害。アレがいるせいで、人類はまともな地上探査に踏み切れずにいると言っても過言ではない。
怪物は、大型の獣を二匹ずつの計四匹、両肩に担いでいた。話には聞いていたがものすごい膂力である。
いや、そんな情報よりも、重要なことが二つある。
あの裂け目はもしかしたら岩壁の外に繋がっているかもしれないということ。それか、まだほとんど生態の判明していない怪物の住処に類するものではないかということ。
皆が皆、言葉を失っていた。きっとそれが、静かにすべき状況ではなかったとしてもだ。
「……迅速に、この場を離れる」
最初は静かに、ゆっくりとした声で誰かがそう言った。
おそらく隊長の声だったとは思うが自信はない。
全員が一斉に動き出した。
後退る靴音と、自分の心音だけが嫌に大きく聞こえた気がした。
もどかしく、そして逸る気持ちを抑え込むように、落ち着け落ち着け、と何度も言い聞かせた。
まるで夢の中のように、足が自由に動いてはくれない。
「こっちを見てる……」
エマの呟きに応じようとして、口が渇き切っていたことに気付き、唾を飲み込んだ。
「見てる、よね?」
鈍間な体の動作とは対照的に、頭は瞬時に察していた。
怪物の食性どころか、食べるという行為すらもあるのか分からないが、運んでいる以上、獣を狩ったのはおそらくあそこにいる奴で間違いない。
そしてソル達の近くには、その怪物が狩ったと思しき新鮮な獲物が散らばっているのだ。
「全員退却!」
大声につられてその方向を見た。
何で大声を、と無責任にも憤りを覚えた。
声を上げたのが隊長だと分かった瞬間、その憤りは焦りへと変化した。
隊長が大声を上げたと同時に、こちらをじっと見ていたはずの怪物の姿がぶれた。
「力いっぱい走れぇ!」
心臓の鼓動が大きく高鳴った。
体の内側まで震えるような大声を皮切りに、全員が勢いよく地を蹴った。
怪物は一匹。距離はある。隊の皆は、自分よりも怪物に近い。それなのに。
実際は何ともなっていないというのに、足がぐにゃぐにゃに絡まり、もつれているような感覚に陥った。
それでも懸命に足を動かそうとした。おそらく動いてはいる。額の汗が目に染みて、じんわりと熱くなった。
「大丈夫」
すぐ近くから女性の声がした。
優しく肩に乗せられた小さな手の重みで、ようやくソルは地に足が着いたような感覚を得た。
声の主はエマだった。
服の袖を使って、雑に顔の汗を拭い取る。
互いに目が合った二人は頷くと、また前を見て走り出した。
「怪物一体と交戦! 我らは隊長を援護します!」
心強い声が聞こえ、二人の隊員が逆走していくのを見送った。
やっとのこと、心に余裕が生まれ始めたソルの耳に届いたのは剣戟を振るう音。
隊長の援護だと彼らは言っていた。おそらく隊長はその場に残り、戦っているのだ。
そう思うと体の内側に希望の光が灯ったような気がした。じんわりと喜びの感情がせせり上がってくる。
そうだ、と思った。エマが言っていたではないか。アレとやり合えるのは隊長くらいだと。
つまり隊長であれば勝てる。援護もあるならなおさらだ。
勝てるのであれば、こんなにも必死になって逃げる必要もなくなるのだ。
「ち、違うっ」
援護に向かった頼もしい先輩隊員たちの背を、目で追ったソルだったが、聞こえてきたのは隊長の焦ったような声だった。
目と耳を疑った。
疑ったのは隊長が焦ったような声を上げたこと。そして、戦っている隊長と逃げだした自分達の間に、まだはっきりと声を聞きとれるだけの距離しかなかったこと。
「全員だ! 全員、退却だ! こいつら一体じゃ――」
隊長が言い切るその前に、近くの木々の葉っぱが激しく揺れた。
何かが、交戦する隊長たちの方へと走り寄った。
「くそおおお!」
ソルの目に映ったのは、どこからともなく素早く飛び出してきた二体の黒い化け物。
隊長の援護に向かったはずの隊員二人は、横入りしてきた新たな怪物どもによって、瞬時に首を落とされた。
隊長が足止めしている大きな個体が一体に、新たに現れた少し小さいのが二体の計三体。
小さな個体同士は顔を見合わせたあと、一体は隊長の方へ。そしてもう一体は逃げるソルたちの方へと向かってきた。
「とにかく逃げろ! 俺が時間を稼ぐ! 誰か一人でも生き残れ! 生きて、情報を伝えるんだ!」
耳に残った隊長の、頼もしくも悲痛な声。
「こっちだ、新人ども! 先に行け!」
退路を守ってくれたのは先輩隊員たちだった。
全員と話したわけではなかったが、皆きさくで良い人たちだった。
こんなところでくたばるような人たちではない。きっと後から追い付いてくれると信じて走った。
信じて走っているうち、いつの間にか足音は二人分だけになっていた。
「あーあ……」
背後から小さな呟きを耳が拾った。
その声が聞こえたかと思うと、二人分の足音が一つになる。
「追い付かれちゃったか」
立ち止まり、反転していた震える小さな背中。
その光景を見たソルは歯を食いしばり、本能に逆らった。
走り続ける体をようやく止めて、体を振り向かせる。
止まったのはエマだ。
エマの肩越しに見える遠くの木が、めきめきと折れていった。
次いで、この世の者とは思えない咆哮が周囲に響いた。
「あらら。じゃあ、先輩たちは……」
悲しそうに呟いたエマが、一度深呼吸をする。
そして前を見据えながら言った。
「ソル君。行って」
エマの後姿を見た時から分かっていた。
彼女がどうしようとしているかなど。
ソルは拳を握り、口を開く。
「おい、戻れエマ! 戻れ! 一緒に逃げ――」
顔だけを振り向かせたエマは、唇に人差し指を当てていた。
いつか見た光景だった。
違う。今日だ、と思い直す。
エマと出会ったのが今日だなんて。全てが、今日一日で起こったなどととても信じられない。
「戦えない天才君は、黙って走るしかないんだよ。私は、私の仕事をしないとね。早く行って」
エマがそう言うと、突然ソルとの間に火柱が上がった。
火柱は二人を分断するように、左右に長く続いている。
「なんでだよ……」
ソルの体が脱力した。気を張っていないと、緊張と疲れからそのまま倒れこんでしまいそうだった。
「あ、ねえ。ソル君!」
ソルが走り出す寸前、エマが呼び止めた。
「初めて……名前を呼んでくれたね?」
状況に似付かわしくない明るい笑顔が、頭からこびりついて離れなかった。
「嬉しいな」
それからは、もうあまり覚えていない。
どこをどう走ったのか、方向さえも曖昧で。
途中、怪物が一匹地面に倒れ伏していたのを見たため、真っすぐ走り抜けたわけではないことは確かだった。
倒れ伏していた怪物に対して特別何かをした記憶もない。その周囲にはすでに誰もいなかったからだ。
ただ少し誇らしい気持ちになり、すぐに移動した。
「助けて。助けて……くれ。誰か」
気付けば森はしんと静まり返っていた。
ソルは周囲をゆっくりと見渡した。木々がなく少し拓けた場所だった。
火の手が遠くの方で上がっているのが見えたが、自分の他には誰もいない。
しばらくそのまま立ちすくみ、火の手が上がっている方を睨んでいたが、追って来る者は誰一人して現れなかった。
皆も、そして奴らも。
「隊長が、エマが、皆が。頼む。誰か、誰か……」
体力と精神の限界を迎えたソルは、糸が切れたようにその場に倒れこんでしまった。
視界が暗転する。
何者かの足音が聞こえた気がした。
ふと手に何かが当たり、最後の力で握りしめた。
握りしめた何かの感触だけが、ソルに残された最後の感覚だった。
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