第17話 邂逅
路地の奥へと向かったソルの耳には、言い争う声がはっきりと聞こえるようになってきた。
予想通り、女性一人が男数人に囲まれている状況であったが、差し迫った危険はなさそうだ。少なくとも暴力沙汰にはなっていない。
そこまで確認したソルは、一つ小さく安堵の息を吐いた。
「痴話喧嘩か何かであってくれ――」
ルナに見つかってしまった以上、見過ごすことはきまりが悪い。揉め事が起きているなら、何らかの解決をしなくてはならない。
世の平和を祈りながら、目立たぬようにゆっくりと、ソルは集団の方へと近づいていく。
「くそっ」
小さな声でソルは口走った。
集団は路地の奥へ奥へと入っていく。繁華街から離れ、入り組んでいる方向だ。
女性の方も、逃げるならもっと明るい方へと逃げてくれればと思うが、男たちに囲まれていて、こちら側には突っ切れないのだろうか。
しかし状況も、両者の言い分も分かっていない以上、介入するにはまだ早い。
迂闊な行動は出来る限り避けたかった。
「へへ。いいじゃねえか、ちょっとくらいよぉ」
さらに近づき、聞こえてきた第一声にソルは思わず天を仰いだ。
願いが通じないのは世の常だが、期待していた状況とは真逆。いや、ある意味であまりにも期待通りの状況に、鼻で笑ってしまう。
分かりやすいと言えば分かりやすいが、どうするべきか。
「そうだぜ。別に何もしねえって」
険しい表情のソルはしばらく無言で考え込んだあと、ほらな、と自分に言い聞かせた。
何もしない、と彼らは言っている。それならばここは、もう少し様子を見るべきなのだろう。
言い方は少々低劣だが、声をかける権利くらい誰にだってある。おそらくは女を一人、真面目に口説いているだけなのだ。
複数人で女一人を囲んでいるのは非常にみっともないが、彼らの流儀に他者が口を出すわけにはいかない。
「こんな時間に一人で出歩いてよう。誘われたかったんだろ?」
「違う。しつこい」
「まあ、そう言うなって。俺たち顔はよかねえけど、女一人を楽しませることくらいできっからさ」
男たちは、女をもてなすために必死に声をかけている。
自分たちを卑下してでも伝えたいのは、きっと中央島の素晴らしさ。
夜でも明るく騒がしい、陽気な街の雰囲気を、味わってもらいたいという親切心からの行動だ。
しつこさは、異性を口説くうえで大切なことだと、誰かが言っていた。だから君に付きまとうのだと。
「……ん?」
様子を窺っている限り、実害はまだ出ていない。
無理やり男たちを擁護していると、ソルは何かを思い出しかけた。
柑橘系の甘酸っぱい香りが鼻をくすぐり、心臓がじんと脈動する。それはどこか、郷愁を感じさせる記憶。
「き、消えろって言ってるだろ!」
迫る男たちから逃げようと、女はじりじりと後退していき、背中が壁にぶつかった。
「この、下種ども! くたばれ! 僕に近づくな!」
そろそろ動くべきだと分かっているのに、女の声が記憶を刺激する。
そうだ。あいつも確か口が悪く、自分のことを僕だなんだと言っていた。だから最初の頃は男だと勘違いしていたのだ。
青い空と、大きな雲。広がる風景の中には、幼いルナともう一人。今より暖かい季節に吹いた風が、汗ばむ頬を撫でたのを覚えている。
不意に、あいつのことを思い出したのはなぜだろう。
「くっ。僕に、触れるな! もし触れたら――」
決して善良とは言えない笑みを浮かべながら、男たちは女を囲むように距離を詰めていく。
焦ったように見えた彼女の表情だったが、その焦りはどこか今の状況とは別種のようにも思えた。
なぜそんな風に思ったのかは分からない。何となく違和感を覚えた、と言えばそれまでだろう。
ただその違和感の原因を探る前に、一人の男が彼女の腕を掴んだのを見て、ソルの体は反射的に動いていた。
「――すぞ」
物騒な声が、耳元で聞こえたような気がした。
「おらぁ!」
その声が聞こえたと同時に、女の腕を掴んだ男を殴り飛ばし、男はそのまま勢いよく壁にぶつかった。
大きな衝撃音と、体のどこかがひしゃげる音。
その少々迫力のある光景に、誰一人口を開く者はおらず、男が壁からずり落ちるのを静かに見ていた。
「おーい。こ、ここで何をやっているぅ!」
静まり返った路地で、第一声を放ったのはソルだった。
一筋の冷や汗が、頬を伝って落ちていく。
元々こんな風に乱入するつもりはなく、もっと穏やかに解決する心積もりだったのだ。
しかし、耳元で聞こえてきた物騒な言葉に怯みかけたソルは、加減を間違えてしまった。
唖然と固まっていた男たちは、少し間をおいてようやく口を動かし始めた。
「何をやってる……というか」
「あんた。あんたこそ、何してんだよ?」
「なにって――」
ゆっくりと、騒ぎ出した男たち。
殴り飛ばされ気絶する男と、騒ぐ男たちを交互に見たソルは、小さく微笑みながら言った。
「治安維持……かな」
「治安……維持…………?」
疑問を浮かべる男に合わせ、こくりと頷いておく。
「どこからどう見ても、そうだろ」
言葉にすれば自信がつく。
嫌がる女の手を、彼らが強引に掴んだことは間違いない。先に手を出したのは彼らだ。
正当性を自分の中で完結させたソルは、抗議をしてくる男たちに一人ずつ丁寧に応じていった。
「あんた、さっきはちょっと、自信なさそうにしてなかった?」
「聞き間違いだろ。俺は今、とても誇らしい」
「おいおい。
「飲み過ぎだ、馬鹿ども」
「やりすぎじゃない?」
「素人には、そう見えるらしいな」
「誰が見ても分かるっていうか、俺たち殴られるようなことはしてねえだろ!」
「いーや、してたね。これ以上騒ぐようなら、お前のそのうるさい口も塞ぐぞ」
「警告する前に殴ってきただろうが!」
「緊急性のある事案だと判断した」
緊急性が本当にあったかはともかく、あの場で何か違和感を覚えたのも確かであり、先に手を出したのは彼らである。
ソルは頭の中で再確認をした。
「ふざけんなよ!」
「いきなり現れて、何なんだてめえ! よくもやってくれたな!」
事態を収拾するために現れたはずだったが、さらに熱くなっていく男たち。
丁寧に応じた結果がこれか、とソルは溜息を吐いた。
「いつだってそうだ。いつだって、真面目に生きた者が損をする。真面目に生きる者たちの、足を引っ張るお前らのような存在を、俺は許さない」
「なに言ってるか分かんねーよ!」
「俺もだ。ところで、今日が何の日か知ってるか?」
「あ? いきなり何を……」
「妹の誕生日だ」
「そんなの、俺たちが知るわけないだろ!」
「そういうわけで、治安を維持させてもらおう」
「どういうわけだ!?」
男たちが身構え始めたのを見て、不敵に笑ったソルは一歩前に踏み出した。
ソルは天才だと言われてきた。
あらゆる分野を卒なくこなし、元々優秀な人材が集まる機関の中でも上澄みの類。
ただ地上の怪物に対抗するための核とも言える、オーラウェポンに関しての才能がなかっただけだ。
「あれ……おい」
「もしかしてお前」
真っ当な戦闘訓練もしていないチンピラには、素の殴り合いでも負ける気はしなかった。
そして地上探査から三年が経ち、ソルはアッシュにも言っていない一つの力を身に着けていた。
渦巻くオーラがソルの周囲に漂い、形を為していく。
それは誰もが見間違うことのない、使えるはずのなかった、力の形。
「まさか……」
「オーラウェポン!?」
「こいつ、機関の人間か! ちょっと待っ――」
雲に覆われていた月が現われ、月明かりが路地を照らした。
騒がしい男たちが、一人残らず地面に伏しているのを見て、ソルは小さく息を吐いた。
「もっと早く気づけよ、と思ったがそうか」
今日は機関本部に行く用事があったため、機関で支給された上着だけは羽織っていた。
大体の揉め事はその威光だけで片が付くはずなのに、と少し疑問に思っていたが、路地が暗くて気付かなかったのだと今更になって気付いた。
単純にあいつらが、酔っぱらっていただけかもしれないが。
「それよりも」
振り返れば、ちょっかいをかけられていた女が一人、掴まれた腕を摩りながら、じっとソルの方を見ていた。
外套を着用した彼女は、フードを頭からすっぽりと被っており、顔の上半分が隠れている。
何を話そうかと悩んでいると、彼女が先に口を開いた。
「ありがと。助かったよ」
「……ああ」
「あの、君は――」
女が何かを話そうとした時、路地の外から誰かが駆け寄ってくる足音が聞こえてきた。
口を噤んだしまった彼女を一瞥してから、ソルは足音の方へと顔を向けた。
「おーい、兄さーん! 終わったぁ?」
「すげえ音してたけど、大丈夫か」
「おーう。こっちだ、こっち」
足音の正体はルナとアッシュだった。
争う音が止んだため、近くまで様子を見に来たのだろう。
ソルは路地の外の二人に向かって呼びかけ、場所を伝える。
「もしかして、君は……」
「ん?」
助けた女が独り言のように呟いた。
再び振り返ったソルと目が合った彼女は、何かを焦った様子で口早に言った。
「あ、いや。君は機関に所属しているの?」
「そうだが」
「助けてくれた君に、一つ忠告。しばらくの間、機関の施設には近づかない方がいいよ」
「どういうことだ?」
ソルの問いかけに、女は一度口を開け、静かに閉じた。
それは説明する言葉を選んでいるというよりは、何か言いたいことがあって自制したようにも見えて。
「ごめん。急いでるから、僕はこれで」
「え? おい」
結局気になることを言うだけ言って、女は勢いよく走り出し、そのまま姿をくらましてしまった。
「なんなんだよ」
あの時と同じ。
柑橘類のような残り香が周囲を漂い、ソルの鼻先を掠めた。
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