第一章 地上探査
第1話 新入り
「今日は運が良い」
陽の光がほとんど入ってこないような深い森を進む中、髪を短く切りそろえた大男が、隣に並び話しかけてきた。
「そうなのですか?」
少し荒くなっていた息を整えながら、ソルは話に応じる。
「出発してからまだ一時間くらいですが」
何の運が良いのか、とは問い返さなかった。
聞かずともそれが現在行っている地上探査のことだと判断するのは、想像に難くなかったからだ。
否定的な反応がないところを見るに、間違ってはいないのだろう。
「もう一時間、と言うべきだな」
ソルの認識を正すような口調で男は言った。
特段叱られているような雰囲気でもなかったため、黙って話の続きを待つ。
「いつもなら、一時間も歩けばもう少し……何かある」
「何か――」
含みのある男の言い方に、漫然と頭をよぎるものがあった。
地上探査において最大の障害であり、誰もが一番に想像する存在。
資料でしかその姿を見たことはないソルだったが、幼少の頃より恐怖の象徴として叩き込まれてきたその生物を、思い浮かべてしまったのは当然と言えた。
「ああ。違う違う」
しかし男は否定した。
不安が顔にでも出ていたのか、男はソルを安心させるように笑いながら言った。
「お前の想像している奴は、そうほいほいと出てくるもんじゃない。狼とか、熊とか、大体はそういう獣どもだ」
「なるほど」
言われて初めてああそうか、と思った。
地上には野生の獣なんてものが存在するのだ。
例の生物のことばかりを警戒するあまり、他はさっぱりと抜け落ちていた。
「でもな」
男はそこで一度話を区切り、ソルの方を向いた。
「お前の想像している奴よりも、獣共の方が厄介なこともある」
男はそれ以上言わず閉口した。視線はまだソルを射抜いたままだった。
理由を答えてみろということだろう。
「数の多さと……肉食性」
ソルは苦い顔をしながら答えた。
獣、特に肉食獣は危険だ。
捕食という、人が本能的に恐怖を覚える死に方も嫌忌されるが、それ以上に人体に埋め込まれたソウルチップ――チップとも略される――が、破壊されてしまう可能性が高い。
ソウルチップというのは、簡単に言えばその個人全てのバックアップ。
ソウルチップさえ無事であれば肉体と記憶の再生が可能な今の人類にとって、ソウルチップの喪失、または破壊こそが、その個人にとっての死亡という認識だった。
「さすがに知ってるか」
そう言って感心した様子の男も、悪い想像をしたのか口元は引き攣っていた。
「一部の獣は、人を襲って食べる。たとえ運よくチップが回収されても、心がやられちまってる奴は多い」
「ええ」
仮にソルがこの場で突然息絶えたとしても、目の前にいる男や、後に来るであろう救出部隊にソウルチップを持ち帰ってもらうことで、肉体としては問題ない。
ただ精神的被害は別である。
ソウルチップの性質上、意識が途切れる寸前の記憶までもが残り、恐怖と痛みの記憶が消えてなくなることはないのだ。
死体を運ぶ習性、そして捕食の際にソウルチップを破壊してしまう可能性の高い生物は、その点非常に脅威と言えた。
「まあ、人を見ると逃げてくやつの方が多いけどな。好戦的なのは、案外少ない」
明るい様子で話を締めくくろうとする男に、ソルは肩を竦めた。
今更そのような安心材料を提供されても、一度芽生えた不安感を完全になくすことは出来なかった。
「だから見かけたとしても、わざわざ喧嘩なんて売るなよ?」
おどけるように言った男の言葉に、馬鹿馬鹿しいと首を横に振った。
「たまーにいるんだ。若い奴らの中には」
幼い頃より憧れていた地上の探索。
ソルにとっては今日がその第一歩目であり、浮かれる気持ちがないでもなかったが、危険にさらされたいとは微塵も思ってはいなかった。
しかし訓練時代の同期を思い出してみれば、確かにそういう類の奴らもいるだろうな、とぼんやり考える。
ふと男の方を見ると、懐疑的な目を向けられていたため、慌てて口を開いた。
「しませんよ。そんなこと」
否定の言葉をしっかりと口にすると、警戒の目を向けていた男は一応納得という表情をする。
「それならいいがな。しかし……」
「え?」
「ああいや、気にしなくていい」
作ったような薄笑いで、男がひらひらと手を振った。
どうにも不安を煽るのがうまい男である。困らせようという意思は感じないため、うまいというのも違うが。
新入りのソルを気遣っただけなのか、はたまた新入りゆえに教えられなかった情報でもあるのか。
とにかく気になる言い方はやめてほしいものである。
「それよりも、この調子だと境界までいけるかもしれんな」
「境界に? 本当ですか」
もやもやとしたものを抱えつつも、話を切り替えた男に合わせ、ソルは境界という言葉に反応した。
境界とは地上探査における最高到達点。
調査が進んだ地域は地図が作られ日々拡大しているのだが、その調査が及んでいない未探索領域と呼ばれる地域との、境目のことを指す。
未探索領域に足を踏み入れ、調査するのがこの隊にとっての主目的であり、境界まで行くことができれば、目的は達成したようなものだが。
「……あの?」
しばらく何も言わない男の顔をソルは窺った。
男から振ってきた話題だというのに、なぜか反応が薄い。
「いや悪い。考え事をしていた」
「そうですか」
境界に到達する。それは歓迎すべきことのはずで。
実際人類という大きな枠組みにとっても喜ばしいことは間違いないのだが、その言葉を発した男の表情は明るいものではなかった。
怪訝な表情をするソルを横目に確認した男は、素早く周囲を見渡してから立ち止まる。
「よし、全員止まれ。一度休憩を入れる」
「休憩ですか」
「おう。お前は警戒しなくていいから、しっかり休んでおけ」
有無を言わせないような口調。それきり話を終わらせた男は、他の隊員に何かしらの声をかけに行った。
男は隊を率いる者であった。
ソルが聞き返したのは警戒云々ではなく、休憩を取るのがやや早いと思ったからであったが、取り立てて反対する理由も権限もないため、そんなものかと素直に従うことにした。
木に背を預け座り込み、離れていく隊長を目で追った。
そうしていると別の隊員が一人、近づいてくるのが分かった。
「やっほー。どう? 地上は?」
気さくな口調で話しかけてきたのは、年が近そうな女性の隊員だった。
「どう、と言われましても」
少し斜め上に視線を向け、考えながら答える。
名前を思い出そうとしたのだがうまく出てはこなかった。
一度顔合わせをした際に簡単な挨拶はしたはずだが、隊の皆は新入りだけを覚えれば良いのとは逆に、ソルは全員と初対面だった。
新入りの辛いところである。
「初めてなんでしょう。なにか思うところはないの?」
「どうでしょう。全てが新鮮ではありますが」
具体性のない問いかけに、どうとでも取れそうな無難な返答をする。
名前と、ついでに人物像すら憶えていない負い目もあって、深く切り込まれるのを嫌ったからだ。
周囲の風景を眺めているように装い、出来るだけ視線を合わせないようにしながら、思い出そうと努力する。
なんとか名前だけでも、と頭を悩ませるソルの視界の端で、女性隊員が小さく首を傾げているのが見えた。
結局そのまま思い出せずに黙っていると、彼女は視線の先に強引に体を割り込ませてきた。
「なーんか、固くなーい?」
「固い……ですか?」
「うん。それ」
それ、とは何だろうか。先ほどから一つとして具体的な主語がなく、対応に苦慮する。
話の流れで思い当たるのは言葉遣いだろうか。
自分自身ぎこちなくなっているのは自覚していたが、同時に新入りならこんなものだろう、とも思う。
「技術部から事前に貰った資料だと、そんな印象は受けなかったけどなぁ」
悪戯気な笑みを浮かべ、続けて言った女性隊員の言葉に、ソルは眉を顰めた。
参加する隊に関するそれらしき資料は確かに受け取っていたが、名前と年齢と簡単な経歴くらいしか書かれておらず、相手を想像できるほど詳細な情報はなかったからだ。
また思いつきの何らかの嫌がらせだろうか、と辟易する。
ソルの所属する技術部の上司が、相手の部署にだけ突飛な情報が載った資料を送った可能性があった。
少なくとも一人、そういった嫌がらせを趣味のようにしている男がいた。
「まあ、皆さん年上なので」
少し悩んで、再度それらしいことを言った。
地上探査はいくつかある部署の混成で行われているが、今回ソルが所属する隊は、全員が年上だったはずだ。
「えー! そんなの。君は年齢なんかで物怖じするタイプじゃないでしょう?」
「え?」
ほとんど初対面の相手に対して、やや失礼とも言える物言いにソルは怯んだ。
確かに年下で新入りの身ではあるが、それにしたって彼女は妙に馴れ馴れしい。
「何を根拠にそんな……」
「違うの?」
「違いますね」
「そうなんだ」
即座に否定はしたものの、女性隊員はそのことに対して特に興味はなさそうだった。
早々に弁明できたのは良かったが、印象と勢いだけで、礼を欠いた傲慢な若造に仕立て上げられそうになったソルの心中は複雑だった。
「とにかくさ、私とは一つ二つくらいしか年は変わらないんだし、これから一緒の部隊で仲良くやっていくんだから、敬語はなしね」
そう言って、少し首を傾けると、パチッと片目を瞑った女性隊員。
茶目っ気のある仕草にソルの体から力が抜ける。
強張っていた頬が自然と綻んで、一度頷いた。
「分かりました。俺も正直あまり慣れてなかったので助かり――」
言いかけて、満面の笑みを浮かべながら首を横に振る彼女を見て、口を閉じる。
お前の言うことは一切耳に入れるつもりはない、とでも言いたげな無言の圧力と態度。
敬語はなし、ということなのだろう。
「分かった。分かったから……」
「分かったならよし」
いきなり変えろと言われても戸惑うものだが、これも新人が早く馴染めるようにという彼女なりの気遣いなのかもしれない。距離感の詰め方は少々壊れているように思うが。
そんな風に考えながら、ソルはふと気になっていたことを聞いた。
「ところで、そっちの部署に届いた俺の資料には、なんて書かれてたんだ?」
ソルがそう言うと、女性隊員はにやりと笑った。
「知りたい?」
「そりゃあ、自分のことだし」
「そっかそっか。でも、ひーみつ!」
目の前で、一人楽しそうにする女性隊員に苦笑する。
「いやまあ、いいけど……」
実際のところ大して気にならないことではあったが、自分の個人的な情報ではある。
帰還後に上司を問いただしてみるか、と頭の片隅に置いた。
「ねえねえ」
苦手な上司を頭に思い浮かべていると、女性隊員に指でつつかれていた。
くすぐったさと気恥ずかしさから、やんわりと手で振り払う。
何の用か、話はまだ続けるようだ。
「ソル君ってさ、年上はお嫌い?」
妖しい目つきで、にやにやと笑う女性隊員。
ソルは言葉に詰まった。
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