空の方舟

冷静パスタ

プロローグ 

 浮遊感は意外にもなかった。

 投げ出された体が最初に感じ取ったのは風の強さ。

 背面一杯に風を受け、空に浮かび上がっているかのような錯覚に陥った。


「空を飛んでるみたいだ」


 出てきたのは、状況にそぐわない馬鹿みたいな感想。

 最初こそ風圧の強さに戸惑ったものの、段々と心地良さが勝っていく。

 空を飛んでるように思えても、実際には凄まじい速度で落下しているのは間違いなかった。

 たったの数秒で、先ほどまで自分の立って居た場所が遠くに見える。

 何をどう足掻いても、もうあの場所へは戻ることなんてできないのだろう。


「すげえな……」


 ソルは小さく呟いた。

 距離が開けば開くほど、全景が見え始めた空の世界。

 外から眺めた空の世界は美しく、広大で。

 自身の生きてきた経験がなければ、あんな空の上に人が住んでいるなんて想像もできなかったかもしれない。

 数分後か、はたまた数十秒後か。自身が死んでしまうことは理解していた。

 ただそれを自覚していてなお、あの空の世界を目に焼き付けようと眺め続けた。


「やっぱり無理だったか」


 いつかは飛び乗ってみたいと思っていた雲の絨毯。

 足元を覆いつくす白いもこもこに、子供の頃は乗れると信じて疑っていなかった。

 本当に試す機会が来るとは驚きだが、結果は実にあっけない。

 ソルの体は雲を突っ切り、さらに下へ落ちていく。

 大地が見えた。

 広大な森だけではなく、その先までも。


「ああ――」


 ソルの世界は、空で生きてきたあの場所だけ。地上はほとんど森のイメージしかなかった。

 眼前に拡がる大地を見た瞬間、途端に全てがひどくちっぽけな存在に思えた。

 人々を救うため、家族を養うため、地上を調査するため、怪物に対抗するため。目的のための目的が積み重なり、追い回され消費する日々。

 急ぎ過ぎるな、と友人に言われた言葉が頭をよぎる。

 決して急ぎ過ぎたつもりはなかったが、余裕はなかったのかもしれないと思った。

 ソルはただ、後悔しない生き方を選びたかった。

 今でもそれが悪いとは思わないし、捨てる気には到底なれなかったが、この瞬間はどこか解放感のようなものを感じたのは確かだった。


「もう少し、生きたかったな」


 そう言って微笑を浮かべた。

 笑いつつ、少し涙ぐんだ。

 世界はあまりにも広かった。今見ている景色だって、きっとその一握りでしかないのに。

 ソルの体はただ落ちていく。

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