5、白い蛾の残したものは<終>



 今年の桜は、例年に比べて2週間も早く開花した。


 一週間前まで雪が降ってたと言うのに、 ポンと開花の音が聞こえるかのように、桜は次々に咲き始めた。

 通勤路の桜が満開になり、気持ちよく通勤していたが、ある朝私は悲鳴を上げた。


 いや、金切り声を上げられるような女子力はなく、実際には「ひっ!」と息をのむ声なき声だった。

 盛大な悲鳴は心の中だけにとどまった。



 例の蛾の卵が孵化したのだ。


 枯れ葉のようだった卵は、無数のゴマのようなぶつぶつで覆われていた。

 本能的な嫌悪感で私の肌も泡立つ。


 こういうのは、集合体恐怖症というのだろうか? それともこの百もいそうな蛾の幼虫がすべて毛虫に成長したらと想像してなのかはわからない。

 ただただ、もう怖くてその場を逃げだすしかなかった。


 仕事をして帰宅すると、駐輪場の黒いぶつぶつは、壁をわずかに這い扇状にひろがりつつあった。


(誰か、本当に誰かつぶすか殺虫剤をまいてください!!)


 私は、この期に及んでまだ他人任せだった。

 もう、こうなっては手の施しようがない。

 そして、さすがに白い壁に黒いものなら私以外にも気が付くはずだと思った。

 その期待は何度裏切られたことだろう。


 今回も例外ではなかった。


 翌日、黒い点はさらに広がった。

 日の当たる方へ向かい進んでいるようにも見える。

 私は、自分の自転車にその蛾の幼虫がついていないことを確認し、出勤するのが日課となった。


 日に日に、黒い点は駐輪場の壁に広がった。


 しかし、それは拡散したことで目立たなくなり、やがて私の目に映らなくなった。


 蛾の幼虫は、温かい植え込みにでも逃げおおせたのだろう。

 駐輪場から姿を消した。

 


 完敗だった。


 私には、何もできなかった。


 私は、一匹の白い蛾に勝てなかった。


 その卵にも、幼虫にも勝てなかった。

 


 この四カ月、怖いとも気持ち悪いとも、嫌悪も感じた。

 何も対処できなかったことを情けなくも感じ、無力感も感じた。

 誰も、助けてくれないことに誰も退治してくれないことにいら立ちも感じた。


 たがが、一匹の蛾がいただけなのに感情を振り回された。

 

 私は、跡形もなく消えた白い蛾にも、その幼虫たちにも感嘆を禁じ得なかった。

 私は、昆虫は儚くてもろいから怖いと思っていた。


 そうではない。したたかで強いのだ。

 

 私の力でどうこうできる存在ではなかった。

 今朝、何もなくなった駐輪場の壁を見ながら思う。

 

 私は、虫よりも弱い。情けないほど弱い。

 けれど、弱い弱いと思っていた虫は本当は強かった。

 

 大人になってなお、蛾に気付きを与えられるとは思わなかったが、悪い気はしなかった。


 

 桜が散り、新緑が芽生え始めた。

 

 願わくば、この若芽を食べて蛾の幼虫が成長して戻って来ませんように……。

 

 


お わ り


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【エッセイ】白い蛾の残したもの 天城らん @amagi_ran

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