春にさよなら。

鈴ノ木 鈴ノ子

はるにさよなら


 

 では、責任を持ってお届けします。


 ありがとう、迷惑をかけてすまないね。これ、よかったら道中で飲んでください。


 

 長年暮らした住処を引き払うにしては、数少ない荷物の運び出し終えた引越し業者の青年達と玄関先で最後の挨拶を交わした。

 ずっと優しくて穏やかな夫のナツは和かに笑みを浮かべてから、冷えたペットボトル飲料を手渡して労いの言葉をかけたのちに、ゆっくりと頭を下げた。

 妻のハルもその後ろに寄り添うように控えて合わせるような仕草をした。


 2人は扉が最後の音を刻むまで深々と首を垂れていた。


 家財道具などが姿を消した部屋には、しんとした、深雪の朝のようとでも言うのだろうか、独特の静けさが漂っていた。


いや、寂しさと言っても良いのかもしれない。


 

 なにもないと、こんなに広いんだね


 

 ハルはそう思いを馳せながら、長いこと暮らし、そして過ごしてきたアパートの部屋を見つめた。

 ハルにとっては特に思い入れの強い場所である、料理を作っていたキッチンは燻んだシンクとコンロ台だけとなっており、色褪せた壁紙が過ぎた月日を物語っている。


 

 ここで、毎日料理していたんだよね


 

 少しだけ磨かれたステンレスのシンクの縁を、そっと撫でたのち思い出に浸った。


 同棲初日、その後に夫となったナツは手の込んだ料理を作る私を微笑みながら、椅子に座って眺めていた。幼馴染で結婚まで至ったから、互いの性格はよく熟知している、だから、私が手伝って欲しいと声を掛けるまで、絶対に手伝いと言う邪魔をすることはなかった。


 

 ハル、奥さんみたいだね。


 ばか。


 

 振り返らず私は返事をした。

 その実、顔を真っ赤にし心臓を鼓動を悟られないようにしながら…。

 幼馴染同士であるが故に、互いの両親も仲がよいから、結婚までの流れは湧き出でた泉の水が海へと流れ下るように、さして障害もなく、すんなり幸せへと流れついた。


 夕日が差し込む出窓の脇に腰を掛けて、その近くにずっと置かれていた写真立てを思い浮かべる。

 純白を着こなした2人が満遍の笑顔をして抱き合っている写真だった。プロカメラマンを雇って、何時ぞや見たテレビドラマの撮影を真似るように、夏の晴れ渡る浜辺で撮ったものだ。


 

 綺麗だよ。ナツ。


 ハルだってかっこいいよ。


 

 互いに気取った言葉など出てこない、ただ、素直な、本当に素直な気持ちが、ありふれた言葉で口をつく。



 はい、お二人さん!そこでチューしようか!。


 

 カメラマンがふざけながらそう言ったので、互いにちゃめっ気を出して唇を合わせた。とたんにシャッターを切る音と野次馬から歓声が上がった。


 

 お幸せに!。


 幸せになれよ!。


 

 そんな声に励まされて2人で手を振って答える。

 幸せに満ち溢れた時間だった。


 出窓から腰を上げてベランダのある窓辺へと歩みを進める。外の景色は夕焼けに染まっていて家々の屋根と遠くに見える山々の稜線が光り輝いていた。世界が琥珀色に満たされている様に思わず息を呑んだ。



 

 2人でよく見たね



 

 玄関扉の閉まる音が聞こえてきた。

 きっとナツが出て行ったのだろう。

 1日の終わりに1人で、休みは2人で、そして、コウノトリが運んでくれた命と3人で、ここから時より夕焼けを見ながらたわいものない話をした。その時間が幸せを分け合う大切な時間だった。



 

 今年も綺麗に咲いたんだ



 

 ベランダから見下ろすと小さな公園がある。

 昔は公園と畑だけだったのに、いつの間にか周りは住宅地へと移り変わって行ったけど、桜と公園だけはどうにか生き残って毎年、太い幹から伸ばした枝枝を広げてその先にピンクの花を咲かせくれる。

 その根本にナツがいた。手に何かを持って樹をじっと見つめている。


 

 そんなに見ても変わらないよ。 

 

 うるさい、いつか超えてやるからな!。


 

 小学校からの帰り道、公園で遊び終えて桜の樹の下に置いたランドセルに手をかけると、ナツが背比べをしようと言ってきた。結果は私が上でナツは下、子供の頃のこととは言え、その悔しそうな顔が浮かんで思わず吹き出してしまう。それから毎年毎年、同じ結果を刻み続けた。私が飽きてやめてしまってからもナツはしつこく続けていて、つい最近までそれは続いていたのを思い出して思わず笑ってしまう。


 木は成長するし、人は縮むんだよ


 ナツは幹に手を当てると桜の樹につけた傷あとを懐かしむように右から左へと刻むように撫でていた。

 感傷に浸る癖は幼い頃から変わることはない。いや、それがナツの愛の証なのかもしれない。

 シルバーのセダンが公園の前に停車してクラクションを鳴らした。それに反応したナツが車に手を振った。そして、名残を惜しむかのように、最後にしっかりと桜をひと撫でしてから、ゆっくりと車へと歩いてゆく。


 ナツに癌が見つかったのが半年前のこと、ステージⅣの末期だった。


 

 因果かなぁ。


 

 帰ってきて検査結果を一瞥したナツが、そう言ってため息をつく。


 私は何も言えなかった。ただ、励まそうといつも通りの笑みを湛えることしかできない、それがすごくもどかしい。


 

 まぁ、息子に世話になるしかないな。


 

 そう言ってナツは検査結果をスマホで撮影して息子へ送ると暫くして電話をかけ始めた。息子の春夏しゅんかは癌の専門医となり、今はアメリカの研究機関で働いていた。

 話しているナツは時より声を詰まらせ、やがてポツリと言った。


 

 ああ、そっちにいくよ。迷惑はかけれないからな。20年前の母さんと同じ病で、私を看取ることになってしまってすまない。


 

 しばらく話を続けたのち、電話を切ったナツは机に伏すようにして声を押し殺して泣いていた。私はその肩を後ろから優しく抱きしめ、感じることはないであろう背中に手を当て、ゆっくりと摩ることしかできなかった。


 車の助手席へと乗り込んだナツの手元には、笑みを浮かべた私の遺影が見えた。

 

 私を真剣に愛しているナツ、私は貴方に想われ続ける幸せな人生を今も歩んでいます。

 

 貴方の最後の日まで私はそばに居るよ、そして再会したら一緒に過ごせなかった分をゆっくり歩んでいこうね。


 ベランダから漂い出でた私は、ふわりと中を舞って桜を見つめたのち、ナツの手の中へと収まった。


 アパートを見上げたナツは少し寂しそうな息を吐いてから、遺影をしっかりと胸元へとかき抱いた。


 それは浜辺で互いに抱きしめ合った頃の優しい力で…。


 花吹きに見送られながら、車はゆっくりと思い出の地を離れていった。



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春にさよなら。 鈴ノ木 鈴ノ子 @suzunokisuzunoki

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