旅立ち、ギン

えんがわ

旅立ち、ギン

 ウチには家宝があった。七つ葉のクローバーの押し花だ。「四つ葉が幸運を呼ぶ、というのならわかるけど、七つ葉じゃねぇ、ありがたいんだか、そういう品種だったんだか」母曰く。真っ黒になり、今にも粉みじんになりそうだったが、かろうじて形だけを保っていた。鼻を近づけると、漢方のような、もっと言うと薬膳カレーのような香りがした。

 わたしにはそれ以上の宝物があった。猫のギンだ。ギンは小型のアメリカンショートヘアで、カニカマが大好きだった。生のズワイガニはもっと好きだった。流石に塩分が高く、健康に悪いので、猫用の乾燥カニカマを与えていた。ギンはわたしの机、わたしは学生の趣味で小説やちょっとした挿し絵のようなものを書いたりするのだが、その机の上に陣取り、わたしがちょっかいを出すと身体をくっつけ甘え、無視していると手の指にじゃれるように噛みついたりする。それを治めるのがカニカマだった。ギンは言っちゃ悪いが、ドラッグをもらったように狂気し、少しも噛みしめることなく、そのまま飲むように、カニカマを飲み込んでいた。ある時、エサ棚にしまうのを忘れて、台所に置きっぱなしにしてしまったら、ギンはビニール袋を破いて、むしゃむしゃとがっついていた。あの時ほど「やってしまった」と思ったことはない。たかが何百円の餌、されど猫とのコミュニケーションツールだったのだ。

 ある日を境にギンが餌を食べなくなった。それから数日後、とうとうカニカマを見ても、見向きもしなくなった。わたしはおろおろして、動物病院に通ったが、そこでも分からなかった。いや、本当なら五万円と三日間の時間があればもっと精密な検査が出来ると聞いたのだが、どちらも惜しくて、止めてしまった。

「こんなの嘘だよね、これからだよね。もっともっと楽しいこと、嬉しいことを一緒に過ごすんだよね」

 わたしはすっかり寝込むようになったギンに語りかける。これでは仕方がない、明日精密検査を受けさせようと思いながら。

 するとギンは、わたしの方を向いて、か細く「にゃぁ」と鳴き、わたしのベッドの上に寝そべった。わたしは机のライトと部屋の灯かりを消し、ギンの横にそっと身体を滑らせた。昔の彼氏にもしたことがない所作だった。ギンは何も言わず、わたしに寄り添い身を預け、そして一人と一匹の夜へと落ちていった。


 夢を見た。

 ガタンガタンという音がして、酷く整わない小さな道を進まされていることに気付いた。そこは車の中で、父は赤ら顔だった。酔っぱらっている、と一目でわかった。隣のギンを起こさないように、と思っていたら、ギンはすやすやしていた。

 車は蛇行しながら、ガードレールにぶつかりながら進んでいく。小さな道なので一車線で他に人通りがなかったのが幸いだった。いや、こちらとしては幸いどころではない。

「やめて! お父さん!」

 父は上機嫌で

「なぁに、海が呼んでるだろう? 知ってるか、俺もお前も人もギンも猫も、もともとはそいつからやってきた」

「何言ってんの?」

「海に帰るんだよ」

 父はとうとうハンドルから手を離して、前方のガラス窓、そこに映る一面の海を指した。事故る! とわたしが悲鳴を上げようとすると。


 夜と朝の中間。日が昇り始めて、でも陽が部屋に射す前のあの独特の藍の時間。わたしはそれを肌で知っている。受験勉強の時、大学に落ちた時、彼氏からふられた時、遊び歩いた時。ある時は眠れずにそれを迎え、ある時はカラオケでガラガラの喉で、その頼りない夜明けを見た。時に「早く時間を過ぎろ」と時に「まだ時間は止まってるの?」と。

 今回の夜明けでは「時間よ戻って!」「時間を取り返して!」だった。

 わたしのひざ元で、ギンは冷たく眠っていた。ギンのあっけない、他になんともいえない最期だった。


 わたしがギンを失った後、どれだけ自分を取り乱し、見失い、沈んでいったのか。

 それは父が「猫の葬儀」正しくは犬、猫、ペットの葬儀うけたまわります、というネットで紹介されていた葬式までして、わたしを取り戻そうとしたこと。猫に念仏を唱えたこと。そのギンを燃やす際、わたしにはどうしても焼却炉に燃やすようで、酷い抵抗があった、それなら土に返した方が良いと思ったくらい。その時に、母が家宝の七つ葉のクローバーを持ち出して「一緒に燃やしておまじないしようね」と言ってくれたこと。

 なにもかも些細なことだと思う人はいると思う。人に従うペットの筈なのに本末転倒だ、と思う人もいることを知っている。それでもわたしには、それは肉親の消滅、それこそ父母の死よりも生々しく肉薄し、卒業式、誕生日、処女を失った日、どの日よりも喪失感が大きい出来事だったのだ。

 母のお茶らけた、でも心からの冗談が温かく染みた。

「あのクローバーね、これは確かに不思議な効能や魔法があるかもしれないけど、わたしが死んだときに一緒に焚こうとは思わないわ。ゾンビになっても背後霊になってもたまらないし。かといってこのまま風化させるのもねー。本当はそろそろお茶っ葉に混ぜて、しぶしぶ飲もうと思ってたところだったりしたのよ」

 それでもわたしは。わたしはギンを包む炎を見ても。白色の雲に混ざる煙を見上げても。ギンがあちらに帰っていったとは思えないのだ。ギンがもともといた場所。最後に見た夢。もしかしたらギンと一緒に見た夢。ギンの夢。帰るところ。海。


 わたしはバイトで稼いでいたなけなしの十四万六千円を使って、シルバーのロケット型のペンダントを買った。そこに普通なら写真などを入れるところに、細かく粉状になったギンの遺骨を入れ、持ち歩いた。首にかけて守るように胸元に置いて。それがわたしの出来る精一杯だった。そして残った力を使って、旅費を稼いだ。

 ギンを海に返す旅だ。出来るだけ遠い海が良い。でも北海道は寒そうで嫌だ。ハワイやグアムは明るすぎて、ギンには合っていない。沖縄、も考えたが、縁もゆかりもない土地にギンを返すのは心もとない。最後は母方の親戚がいるという関東は千葉の、小さな漁港にすることにした。幸い、そこではクルーズ船もやっていた。ただ、そのクルーズツアーは小規模で、それにこのところの観光需要で予約がいっぱい、空きが出来るまで、秋まで待たされることになった。それでも、それはペンダントの中のギンと一緒にいることのできる最後の時間、と思えばかけがえのない愛しい時間となった。


 わたしは滋賀から千葉まで旅をする。


 秋の千葉は、もう冷たい風が吹いていて、なのに樹々は紅葉していない。微妙な時期に微妙な土地に来てしまった。それでもギンと最後の晩餐よろしくお昼に選んだ大通りに面した定食屋は繁盛していた。緑の黒板に書かれていた、漢字の魚、わたしは読めなかった、少なくとも秋刀魚ではない、を指さし頼んだ。するとじゅーじゅーと強い火力のガスコンロで焼かれて、煙が勢いよく立ち上った。その為に玄関口を空けている店内は少し寒かったが、それ以上に口の中は幸せだった。でも、それはわたしだけの幸せなのかもしれない。わかっている。全部、わたしの自己満足だっていうくらい。だからこそ父母も許してくれたことくらい。

 それでも最後の最後のごはんは、ギンの一番の大好物だった猫用カニカマにした。千葉の「鮮魚あります」という昇りだけが元気な、うらぶれた漁港で食べたカニカマは、スルメの味がした。カニっぽい紅の色もやはり合成着色料だったのだろう。良くこんなへんてこな味の、人によっては酒のつまみになるかならないかのそれを、必死で催促していたギンにクスッとしたものが溢れた。机の前で前足をちょいちょいとわたしの指にひっかけ催促するギン、それがもう見られないと思うと、涙さえ溢れてしまいそうだった。だが、ぐっとこらえた。泣き明かした晩を幾つも過ごし強くなったぞという想いと、それ以上にそれに慣れてしまった寂しさの中に。乾物屋の呼び込みのおっちゃんが陽気な声で歌うように話しかける。こらっ、買うものか。


 クルーズ船は中くらいの漁船を改造したものだった。それでも三十人ほどの観光客が集まっている。早い者勝ちなようで船尾の良いところは、既に恰幅の良いおっさんに取られている。しかし何のためにあんなおっさんが、海を見に行こうと思っているんだろう、と。特殊過ぎる、ギンを海に返そうという目的の自分を忘れて思ってしまい、それを思い出して呆れてしまう。

 入船の際に、住所と電話番号を確認させられた。物腰の軽そうな、でも筋肉を感じさせられる青年だった。彼は似合わない眼鏡をしながら、これこれこういうわけで。

「つまりですね、これは他の県の同業者にあったんですが、もちろん実名は言えませんが、あっ豊町観光船ね、あっ言っちゃいました? そのね、そこで窃盗事件がありましてね。そりゃーこの人数で海に見とれて、盗み時なんでしょうが、何やってんすかね。こんな時に世知辛い。みんながハッピーバースデーやってる時に放火とかできますか。ほんと。でもそういう輩がいるので、念のためにね。おじょうさんが泥棒になるというよりも、これは被害者用です。はい」

 その陽気なぺらぺら回る口に、わたしはくすりとしてしまう。すると青年は更に口を滑らかにして。

「そうだ、これ買って来ません?」

「えっ?」

 無理やり渡されたのは、カッパエビセンの袋だ。

「おやつに食べろ、と?」

「いやいやいや。これ、餌になるんですよ」

「あっ、カモメの? それなら」

「そうカモメ! ウミネコさん!」

 わたしは思いがけないネコという言葉にびくりとし、ペンダントを握ってしまった。

「へぇ、高そうなペンダント」

 値踏みされそうで嫌だった。

「ください、このエビセン」

「はいはい、こちら特価で250円でございます」


 舟は進み、少しずつ陸地から離れていく。それと同時に不安が高まっていく。この水の荒野にこのまま残されたらわたしたちに何が出来よう。救助が来るまでただ立ち尽くすだけ。そんな圧倒的な存在としての不安感。

 一面の青。蒼ではなくて青。真っ青な空の色。それを濃く青くした海の色。それに囲まれている。

 と同時に、その不安はわたしたちが肉体を持っているからで、それがない存在にとっては正に永遠ではないのか。煩わしい、必要以上に複雑な人間社会とも離れ、陸の車と人とたまに猫が行き交う忙しない道路とも離れ。少しずつ少しずつ決心が形になる。ウミネコにカッパエビセンを投げる。一つずつちまちまと投げる。ウミネコは律儀にそれに反応し、あるものは空中でキャッチしようと、あるものはそのおこぼれを預かろうとする。わいわいと歓声をあげるカップルが幾つか、和やかな瞳でウミネコを眺める老人が幾人か。

 わたしはとうとう、ペンダントを空に向かって、海に向かって放り投げた。その先を観るのが辛くて、いやそこに立つのが辛くて、舟の隅っこに隠れるように逃げた。


 帰り際、乗船中に会った青年が、わたしに語りかけてきた。恥ずかしそうにそちらを向くと、彼は涙にぬれたわたしの瞳に丁寧に自然と接してくれた。そしてわたしの今は空の胸元を見て。

「あれ? ペンダント、どうしたんです?」

「大丈夫です」

「もしかして、盗まれた?」

「大丈夫です」

「あちゃー、とうとうウチにも。こりゃどやされるぞ。どないしよ」

「大丈夫です!」

「大丈夫じゃないよ、お嬢さん」

「あれは海に返したの」


 青年はドラマの中に入ったかのように大げさに。

「返したって? 捨てちゃったの?」

「はい」

「取り返しようがないよ。なんせ、海広いもん」

「いいんです。そこがギンのある場所だったんです」

「ギンって? 彼氏?」

 これには流石に少し戸惑い。

「にっ、似たようなものです」

「じゃ、ご家族さん? どちらにしろね」

 青年はこちらを痛いほどにぎゅっと見て

「海への不法投棄は禁止です」

「別に捨てたわけじゃ」

「いえ、海への不法投棄です。お嬢さんは捨てたんです。大切なものを」

 それからわたしはどうしたのか覚えてない。ごうごうに泣いたんだと思う。相手が困って説得を諦めてしまうくらいに。泣いて泣いて、帰りの電車でも必死に目をつぶって、でも心の眼では泣いて。家の中でも泣いて。

 そうして朝と夜を過ごした。ギン、これで良かったんだよね。わたし、間違ってないよね。


「にゃあ」

 という声がした。うたたねのベッドを慌てて落ちるように、抜け出すと、声の方に駆け寄る。

 次いで自室の扉の左隅にある猫用ドアが開く、カタンという音。

 そこにはギンがいた。

「ギン、ギンだよね? 嘘じゃないよね?」

 そうつぶやいた後、それが今までの当然のように、ギンをはわたしの膝元に横たわった。ポケットに残っていた猫用カニカマをこれまた当然のように与え、ギンは喉をごろごろさせている。その毛を撫でる。少しごわごわした短いアメショーの毛。それがずっとずっと続いた。気が遠くなるほど。永遠に続くほど。わたしとギンの時間。


 と思ったのは束の間で、目覚めると真っ暗な夜だけが待っていた。さっきまで確かにあった感触を手繰ろうとするが、夢の記憶は消えるのも早く、五分もしないうちにその輪郭さえ曖昧なものに変えた。

 わたしはそこに当然に居たギンを奪った時間という運命に怒りにも似た嘆きに飲み込まれ、その最後の名残を捨て去った自分への後悔とその哀れさへの同情に沈んだ。

「ギン、ごめんね、ギン。ずっと一緒にいたかったの? 今、一人ぼっちで寂しいの?」

 ただただ朝が来るまで、泣き明かした。


 その夕方の突然の電話には驚いた。みんな一人に一台スマホの時代。家の電話など、もう鳴ることがない勢い、いや枯れ具合だったからだ。いつもなら返事はしないだろう。ギンのことで心がふさいでいる今なら尚更だ。だが、自然に足は階段をとととと駆けおりていた。


 声は、やはり、というか、やはり青年のものだった。一週間くらいぶりなのに、妙に懐かしかった。

「見つかりましたよ」

「なにが」

「不法投棄!」

「不法投棄?」

 わたしがいぶかしく返事をすると、青年は我が目を得たりの声で

「無くしものですよ。ペンダント」

「いえ……そりゃないですよ」

 自分でも不思議なほど必死だった。嬉しくてたまらないのに。

「力不足。運動不足ですね、お嬢さん。海に落としそびれた。船尾の隅っこの溝に転がってましたよ。いやー、他のお客さんに盗まれてなくて良かった。そりゃ、あれから、ちょっとは真剣に落とし物を探したんですけどね。それじゃ仕事の誇りとして、横領せずに、お返しします」

 わたしは、勢いよく、でも必死の決心で言った。

「いえ、いいです」

「えっ? ここまで来て強情を張っても」

「わたしがそちらに出向かいます。一緒に帰っていきたいんです。あの海から」

「そっか、帰る場所があって、良かったですね」

「はい」

「そこがあなたの場所で、っていうのは臭すぎですか?」

「くさすぎです。海の男に似合いません」

 といいながら、わたしは破顔していた。


 早く父母を説得し、最悪借金をし、そのまま港町に旅立とう。そしてわたしの、小さな机に、小さな胸元に、ギンをお迎えしよう。

「お帰り」

 って。

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