十時間目 雇用期間終了
ブラッドと約束をしたあの日から、リディアは彼に沢山のことを教えた。それに応えてくれたブラッドは、凄い勢いで知識を吸収していった。
勿論、勉強だけでなく遊びも本気で取り組んだ。それのお陰で、ブラッドもリディアも心身ともに健康であり続けた。
リディアがジョーンズ家に来て一年、ブラッドは学園に入るための基礎固めを行い、リディアは外遊びのレパートリーを増やした。
中でもブラッドが一番興味を持ったのは、ピアノだった。これにはリディアも本当に驚いた。
貴族の子息たちは、教養として楽器を弾けることが多い。リディアも、ピアノとフルートが弾ける。と言っても、リディアには楽器の才能はなく基礎的なことができるだけ。
だから、ブラッドにも音符を知っておいて欲しいと思ってジョーンズ家にあったピアノを教えたのだ。
楽器に関しては、別に弾けなくても「ドレミファソラシド」が理解できていればいい、それくらいの気持ちだった。しかし意外にもブラッドは、ピアノに興味を持って自分から進んで練習をするようになった。
ピアノに関してだけは、外で遊ぶことより優先するほど。最初は、楽譜を読むことにてこずっていたけれど、今では簡単な曲ならゆっくりだけれど読めるようになった。
ピアノの練習は、最初は片手づつ何度も何度も練習して楽譜を覚えるくらい反復する。それから両手で、ゆっくりゆっくり弾く。何度も何度も練習して、やっと両手で弾けるようになる。
ブラッドは、それが楽しいらしく何度間違えても諦めずに根気強く練習していた。そんな姿を見て、リディアの方が感化されてブラッドを見習わなければと何度も感じた。
ブラッドを見ていると、感動することが数えられないほど沢山あった。
それと並行して、リディアもできることが増えた。一番は、繕い物のスピードが画期的に上がったことだ。初めて頼まれてから、一月に一度は大量の服を渡されて縫う羽目になった。
中には、ブラッド以外の服も交じっていることもあり抗議しようかとも思ったが、波風立てたくなかったリディアは我慢して裁縫の腕を上げていた。
また、ブラッドと一緒に毎日外で遊んでいたのでボール投げも遠くまで飛ぶようになったし、泥団子もツルっとしたまん丸の玉を作れるようになった。
そして、これは内緒なのだが、初心者用の木登りの幹の一段目なら簡単に登って降りられるようになった。大切なことなので二度言うが、これはブラッドと二人だけの秘密だ。
そうやってブラッドと二人、とても楽しい一年間を過ごした。ブラッドの成長を、ジョーンズ夫妻も喜んでくれて今ではリディアのことも認めてくれている。
一カ月に一度の夕食会も、二人はとても楽しみにしてくれて月を追うごとに成長するブラッドにとても驚いていた。
ブラッドがピアノに興味を持って、初めて二人の前で演奏した時はジョーンズ夫人が感動して涙ぐんでしまうほどだった。
そんな母親の姿を見てブラッドは、「そんなに上手じゃねーし」と照れ隠しをしていた。
リディアが、ブラッドに教えてあげられたのは学習の基礎とマナーの基礎。きっと自分の中に蓄えられた基礎を元に、これから学園で学ぶことでもっと深い教養が身についていくことだろう。
今日リディアは、ジョーンズ家から一年間の雇用期間終了に担い出て行くことになっている。だから、リディアに与えられた個室は、きちんと掃除をして綺麗にした。
リディアの私物も、全てボストンバックに仕舞い部屋には何も残されていない。
綺麗になった部屋のベッドに腰かけて、リディアは物思いにふけっていた。
「一年間あっという間だったわ。今は、この部屋にも愛着が沸いちゃった」
リディアは、一人ポツリと独り言を吐いた。この部屋で何度となく独り言を吐いてきた。最初は孤独で、泣きたくなる時もたくさんあったけれど今ではそれもいい思い出になっている。
今では、リディアと仲良くしてくれた使用人が二人いて、この二人のお陰で泣きたくなる日が減った。
その二人とも、さっきお別れの挨拶をして来た。「たま会いましょう」と笑顔で別れることができた。
リディアは、そろそろ行こうと最後に窓を閉めようと小窓を見たらリスが姿を現した。
「キュッキュッ」
「あら、ラック見送りに来てくれたの?」
リディアが、窓枠に座るリスに向かってしゃべりかける。『ラック』は、リディアがリスに付けた名前。
あれからラックは、リディアが落ち込んでいる時や疲れている時などにきまって姿を現しては自分を癒してくれた。今では、なくてはならないリディアの大切な相棒。
リディアが立ち上がって窓のところまで行くと、ラックは窓枠からジャンプしてリディアの肩に乗る。
「え? もうしかして一緒に来てくれるの?」
ラックの行動に驚いて、リディアはびっくりして目を見開く。
「キュッキュッ」っと言いながら、ラックはリディアの肩を行ったり来たりしている。どうやら本当について来てくれるみたいで、段々と驚きが嬉しさに変わる。
「嬉しいわ。実はラックとお別れするの寂しくて……。ブラッドや他の人たちとはまた会えるけど、ラックはここを離れたらもう一生会えないと思って」
リディアは、ラックを自分の掌に乗っけて自分の目線に持って来る。
「ラック、着いてきてくれてありがとう。これから一緒に、色々な生徒たちと出会って行こう」
リディアは、ラックにそう言うと「キュッキュッ」と元気よく返事をしてくれた。ラックがこれからも一緒にいてくれると思うと、とても心強い。孤独だったリディアを、最初に元気づけてくれた存在だから。
そしてリディアは、ラックを肩に乗っけてボストンバックを手に部屋を出た。
◇◇◇
いつも使い慣れた階段を下がると、玄関が見えて来る。これで本当に最後なのだと、何とも言えない感情が沸き上がる。
限られた時間の中で、自分ができることは精一杯やり切ったと言う充足感。まだまだやれることはあったのではないかと言う後悔。ブラッドと過ごした楽しかった日々に別れを告げる寂しさ。色々な感情がどっとリディアの胸に押し寄せる。
玄関を出ると、既に馬車が待ち構えていた。その前には、ブラッドとジョーンズ夫妻が見送りに出て来てくれていた。
「すみません。お待たせしてしまって」
リディアは、三人に頭を下げて挨拶をした。ブラッドは来てくれると思っていたが、ご両親まで来てくれると思っていなかったのでちょっと焦ってしまう。ゆっくり出てきたので、かなり待たせてしまったのでは……。
「いや、大丈夫だ」
ブラッドの父親が、柔らかな物腰で返事をしてくれた。彼も、最初の頃と違って今ではリディアに絶対の信頼を向けてくれていた。
「先に、荷物を馬車に入れてしまいなさい」
ジョーンズ夫人は、リディアが重そうな荷物を持っていることに気づき気を遣ってくれた。リディアは、お言葉に甘えて先に荷物とラックを馬車に乗せてしまう。「ラック、暫く待っててね」小声でそう言うと静かに馬車の扉を閉めた。
リディアは、改めて三人に向かい合い頭を下げた。
「一年間、大変お世話になりました。本当にありがとうございました」
「お世話になったのは、俺のほうだろ。リディア先生、ありがとう。絶対に手紙書くから、返事くれよな」
ブラッドは、いつもと同じようにリディアにしゃべりかける。ブラッドのこのちょっと生意気な口調を聞くのも、今日が最後だと思うと寂しさが募る。
「もちろんよ。楽しみに待っているわ」
リディアは、最後は笑顔で別れると決めている。だから明るい笑顔でそう答えた。
「クラーク先生、ブラッドの良さを引き出してくれて本当にありがとう。きっとこの子にとって、大切な一年になったと思う。これからも、
ブラッドの父親から、リディアに向けて最大の賛辞を贈られる。リディアは、嬉しくて鼻の奥がツーンとしてくる。
「本当に……。最初は困った先生だと思ったけど、今ではブラッドの先生は貴女以上の人は考えられないわ。色々とありがとう」
ジョーンズ夫人も、笑顔でリディアに感謝の言葉を送った。こんなに褒めてもらえると思ってなかったので、リディアの目元は決壊寸前になってしまう。
「何だよリディア先生、泣いてんのかよ?」
ブラッドがリディアを揶揄ってくる。そう言われてしまったら、泣くわけにはいかない。
「泣いてなんかいないわよ。嬉しくて感動しただけよ」
「それを泣いてるって言うんじゃないのかよ?」
ブラッドは、生意気にリディアの言葉に言い返してくる。ブラッドらしいいつもの態度に、リディアは笑いが込み上げてくる。
(これじゃー、感動のお別れが台無し! でもブラッドらしい励まし方で笑っちゃう)
「では、行きますね。ブラッド、自信を持って学園に通ってね。きっとたくさんの出会いがあって、それは宝物になるわ」
「わかってる」
ブラッドが、さっきまでの憎まれ口から一転、眉を寄せて顔を曇らせる。リディアは、もう一度ジョーンズ夫妻に深く頭を下げた後に馬車に向かった。
馬車に乗り込んで、窓を開けてブラッドを見た。
「じゃーね。ブラッド元気でね」
「先生もな。俺のこと忘れるなよ!」
ブラッドは泣くのを我慢している。目元に涙が込み上げているのがわかった。
「ええ。当たり前よ。わたくしの初めての生徒、ブラッド・ジョーンズ。貴方はきっと、大物になるわ。楽しみにしているから、またね」
リディアは、それだけ言うと御者に馬車を出すように合図を送った。するとカタンッと馬車がゆっくりと動き出す。目元を潤ませたブラッドの前をゆっくりと通り過ぎる。
「先生、バイバイ。またな!」
ブラッドが、大きく手を振ってリディアに叫ぶ。リディアもブラッドに手を振った。段々小さくなるブラッドは、降っていた手を降ろして目を拭っていた。
きっと堪えられずに泣いているのだろう。遠目で見えた最後には、ジョーンズ夫人がブラッドに寄り添っていた。
リディアは、馬車の窓を閉めて進行方向に向き直り座り直す。目元からポタポタと涙がとめどなく溢れてくる。
あんなに生意気だった男の子が、最後に自分を想って泣いてくれた。こんなに嬉しいことがあるだろうか。
「私、
ラックが、リディアの膝に乗って丸まって横になった。その温かさに触れてホッとする。優しくラックを撫でながら、「いつもありがとう」と呟いた。
リディアの
だけどそこには、沢山の思いがけない出会いがあってその人たちと共に道を歩き続ける。インテリ気味な
そして、時間をかけて歩き切った先に、王宮家庭教師への道が待っている。
リディアは、急がずゆっくりと確実に前に進んでいく。リスの相棒ラックと共に――――。
◇◇◇あとがき◇◇◇
お読み頂きました読者の皆様、最後まで物語にお付き合い頂きありがとうございました。このお話は、カクヨム様の「賢いヒロイン中編コンテスト」用に書き上げた物語です。キリのいいところで完結表記にさせて頂きます。この物語で、初めてカクヨム様でレビューを頂くことができてとても嬉しかったです。私の中で物語を綴る原動力になるし、書いて良かったって心から思えます。読者の皆様に、面白かったと少しでも思って頂けたら幸いです。ありがとうございました。
女家庭教師(ガヴァネス)リディア・クラークの楽しい授業 ~準備はよろしくて? わたくしの生徒たち~ 完菜 @happytime_kanna
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