第42話 事務所での披露

 仮面マスクをしてのバク転とバク宙に慣れてきた頃、ヒーローショーの事務所に男女の来客があった。

 青天体操教室の稲葉コーチと栄コーチだった。

 どうやら僕がいないときに一度来て、僕のスケジュールを聞いて時間を合わせたらしい。事務所には青天体操教室出身者がいるので、これは逃げられないか。


せんまいの秋山コーチから聞いたんだけど、巽くんバク転とバク宙ができるようになったんだってね。秋山コーチや松本コーチから習ったわけじゃないらしいけど」

 サングラスを外しながら稲葉コーチが問うてきた。


「体育のよしむね先生から習いましたけど。体操競技には向いていませんよ」

「それを決めるのは私たちだ」

 稲葉コーチのこの高圧的な態度が好きになれないんだよなあ。義統先生くらい親身になってくれれば話を聞こうとも思えるんだけど。


「稲葉コーチ、栄コーチ、お久しぶりです」

 僕たちの後ろを通る男性がおじぎしてあいさつした。

「おお、渡会わたらいか、久しぶりだな。仕事はどうだ? きつかったらいつでも頼ってくれ。お前の技量はうちの補助に欲しいくらいだからな」

「今はまだ辞められませんよ。新入りの巽くんを鍛えないといけませんからね」

「それならうちの練習場でも使うか? 今日は巽くんの勧誘で来たんだが、渡会とセットなら教える手が省けるからな」


 こちらを振り向くと、渡会さんが右目をかるくウインクした。稲葉コーチと栄コーチには見えないように気を配ったようだ。稲葉コーチたちに向き直った。


「巽くんのバク転とバク宙はまだ回れているだけで、連続試技には適していません。おそらく一発勝負の種目ならなんとかなると思いますけど、そちらはスペシャリストがすでに何名もいますから、巽くんにどれだけ才能があっても、代表選手としてはいろいろと不足しているのは確かですね」

「俺が見つけた原石だからな。どこまで磨かれてできるようになっているのか、確認してみたいんだがな」

「それじゃあ少し待っていてください。巽くんウォームアップしてください。いつもどおり僕が補助をするから」

 僕が不服そうな顔をすると、渡会さんはふたりに聞こえないほど小さな声でささやいた。


「ふたりを幻滅させるチャンスだから、いつものように仮面マスクを着けて跳んでもらうよ」

 なるほど。今の僕の練習を見せたら、とても使いものにならないとさじを投げてくれる可能性が高いのか。それなら邪険にする必要もないか。

「わかりました。ウォームアップは三分もあればできますので」

 この言葉に稲葉コーチが噛みついた。

「おいおい、ストレッチもなしで体を温めるだけ。それで練習させているのか? 渡会、お前にそんな教え方はしていないはずだが」


 渡会さんは涼しい顔だ。

「彼に独自のバク転とバク宙を教えた先生によると、彼はストレッチをするほど故障しやすくなるんだそうです。その方は巽くんと同様の問題を抱えていてそう結論づけたようですね」

「どこのどいつだ。たいせつな選手に適当なことを吹き込んだやつは」

「先枚の体育教師だそうですよ。たしか義統さんって言ったかな?」


「体操界では聞いたこともないな。体育教師といったって、先枚で体操を教えるのは体操部コーチだったはずだが?」

「松本コーチはド素人に教えるつもりはないってことで。秋山コーチはなにかと忙しい方ですし」

「先枚もなに勝手なことをやっているんだ。松本はまだしも、秋山は全日本選抜のコーチだろうが。なぜ自分で巽くんを教えようとしないんだ」

「秋山コーチが彼の身体的特徴をよく理解している人として義統さんに教えるように頼んだそうです」

 あまりにも責任の所在が転々としていて、稲葉コーチは怒りが湧いてきたようだ。


「巽くんは世界を獲れる逸材だぞ。なぜたらい回しになっているんだ。だから最初から俺が教えればよかったんだ」

 その言葉を聞いてか聞かずか渡会さんが声をかけてきた。

「巽くん、ウォームアップは済んだよね。それじゃあいつもどおりバク転とバク宙の練習をしよう。稲葉コーチと栄コーチもご覧になりますか?」

「それが目当てで来たんだ。見学させてもらうよ」

 ふたりは練習場の隅に置かれた椅子にそれぞれ腰かけた。


「じゃあ練習を始めるよ。仮面マスクをしっかりかぶってね」

「おいおい、仮面マスクなんてさせるんじゃない。怪我の元だろうが」

「これはヒーローショーのための練習ですので、視野の狭い仮面マスクが基本なんですよ。仮面マスクをしないでいくらいい演技ができても、仮面マスクをして失敗する危険が高まるだけです。練習中から仮面マスクで視野を狭めれば、いずれ慣れますからね」

 渡会さんが稲葉コーチに釘をさした。


「まずはバク宙から。低かったり回りきれなかったりしたらすぐに補助するから、心配せずに跳んでみよう!」

「バク転もさせずにいきなりバク宙とは。渡会ほどの男が順序を履き違えているな」

 その言葉に渡会さんが注意を与える。


「ここはヒーローショーの事務所では神聖な場所です。ここでしっかりと立ち回りの基礎を学んで、それから実践としてヒーローショーに出演するんです。だからヒーローショーでも行なう順番で練習するのが最適なんです。体操競技の練習とは意味合いが異なりますので」

 そういうもんかね、と稲葉コーチが吐き捨てた。


「巽くん、いつもどおり高さと距離を意識して大きくジャンプしてね。舞台の大きさもしっかり意識して、絶対に踏み越えないように」

「ずいぶんと細かい指定ね。それなら距離を跳ばないように指示すればいいのに」

 栄コーチの言葉を受け流して、渡会さんに合図する。

「じゃあ行きます。補助お願いします」

「任せて!」

 両脚を肩幅に開いて直立した状態から体を後傾させて両腕を振り上げると、一気にステージ端までのバク宙になった。


「やはりたいしたものだな。視界の狭まる仮面マスクを着けてもあれだけ大きなバク宙ができる。才能だな」

「秋山コーチはなんて言っていたんですか?」

 栄コーチが稲葉コーチに尋ねた。

「確かに規格外の選手にはなるでしょうけど、使いどころがまずありませんって話だったな。単に前転跳びやロンダートからの高さが非常識なほど出るからといって、床運動としての要素をすべてこなせないだろうと。後は彼の身体的特徴というやつも聞いてある」

「身体的特徴ってどういうことなんですか?」

 ふたりの会話を聞きながら目の前で次々とバク宙の練習をしていく。


「なんでも股関節と肩関節の不良と言っていたな」

「肩関節の不良といえば脱臼かしら? 股関節の不良とは、たとえば?」

「そこまでは聞いていないな。個人情報に当たるからって」

 そこまで聞いていて、僕は今がそのときだと察した。意を決することにした。



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