第37話 不具合の正体
改めて日を変えて義統先生からバク転とバク宙を習っていく。
僕はウォームアップを、高村さんはストレッチを念入りに行なっている。
怪我をしないためではあるが、なぜ僕はストレッチしてはならないのだろうか。
「巽くんは、無理に柔軟性を高めようとしないこと。かえって体の動きに悪い癖がつくかもしれないからね」
「でも、柔軟性がないと怪我をしやすいと聞きましたが」
義統先生の指示に異論を唱えてみる。
「怪我をしない程度のストレッチはいいんだけど、無理やり柔軟性を高めようとすると、肩関節と股関節に強いストレスがかかるから。肩関節も股関節も壊れ物だと思ってたいせつに扱うこと」
「じゃあどのくらいがいいんですか?」
「そうだね。ウォームアップくらいでじゅうぶんだよ」
秋山コーチが全日本選抜の高村さんに声をかける。
「弓香、あなたはきちんとストレッチするのよ? 今の指示は巽くんにしか当てはまらないから」
「はい、コーチ。わかっています」
「彼の場合、関節が消耗品だから、へたに強度のストレッチをしてしまうと、使い減りしてしまうおそれがあるのよ」
「そんな体であれだけ高く跳べるのは一種の才能ですよね。確かに稲葉コーチが目をつけるだけはあるんですね」
高村さんは素直に驚いている。
まあ確かに股関節に爆弾を抱えている人物にしては運動能力は高いはずだから。
でも義統先生という最大の理解者を得たから、これからはなにかと交渉しやすくなるだろうな。
「体操がかえって巽くんの健康寿命を縮めるかもしれないからね」
「健康寿命、てすか?」
「そう。股関節が痛んで曲げ伸ばしがしづらくなる、なんてことが起こらないともかぎらない。僕は以前股関節を痛めて帝都病院に行って確認したら、場合によっては将来歩けなくなるかも、と指摘されたくらいだからね」
「歩けなくなる……」
義統先生の言葉で一気に奈落へ叩き落された気がする。歩けなくなったら、ヒーローショーどころじゃなくなるな。
「まあ無理をしなければ日常生活にもとくに支障はないから。僕だって体育教師をやるくらいはもっているしね」
「長もちさせる秘訣ってありませんか?」
同じ体格を持つ義統先生にそれとなく聞いてみた。
「そうだね。とにかく骨を強くするカルシウムや筋肉を修復するタンパク質なんかは意識して摂取するようにしているよ」
「タンパク質っていうとプロテインですか?」
「いや牛乳でもかまわないけどね。プロテインだとカルシウム配合のものを買わないといけないしね」
「牛乳ですか。アルバイトの給料が入ったら、さっそく毎日飲みたいと思います」
毎日牛乳を飲むくらいなら、アルバイト代でなんとかなるだろうし。学費を払ってその余りで買えばいい。
「それがいい。あと骨や腱、軟骨あたりにかかわる情報には敏感になるべきだね。いつ問題が完全に解消するかわからないからね」
「治る見込みもあるってことですか」
「この症例は極端に少ないんだよ。大学病院で五十年に二、三例あるかないかというくらいだと聞いている。だから金持ちの誰かが先進医療として手術しないともかぎらない。そのときのためにも学費だけでなく手術代とベッド代くらいは貯金することをオススメするよ」
「これはアルバイト代の使いみちが限られそうですね」
アルバイト代が入ったら、いろいろ買いたいものもあったんだけど、どうもそういうわけにはいかないらしい。
「仕方がないよ。僕たちは治る見込みが今のところない症例を持っているからね。いつ解決するかわからないし、そのときに手術できるくらいの蓄えはしてしかるべきだ。」
「たとえばあれが買いたいというものがあっても貯金優先ですか?」
「どうやらなにか買いたいものがあるようだね。最初の給料は学費と貯金だけにして、二回目からはそれに加えて買いたいものを買うといい。ストレスをためるとパフォーマンスに響くからね」
その言葉にホッとした。
「それほどストイックになる必要はないんですね。どこまでお金の使いみちを考えるのか。働くからには買いたいものとかありましたから」
「まあ都立高校だから、特例でアルバイトが認められはしたけど、働く理由が違ってくると取り消されるかもしれないからね。しっかりとけじめはつけるべきだよ」
義統先生に釘を差された。まあ確かに学生の本分というものもあるからなあ。今はアルバイトを認めてもらえるだけでもよしとしなくては。
「そういえば、義統先生って秋山コーチとは高校時代の同級生だって聞きましたけど」
高村さんが思いがけないことを切り出した。
「誰から聞いたのかしら、その噂」
「職員室に行った子が、ちらっとその話を聞いたらしいんです」
「まあ高校時代の同級生ってだけで、それ以上はないからね」
「お付き合いをしているって噂もありますけど」
義統先生が秋山コーチと顔を見合わせて笑い出した。
「すまない。秋山さんにはきちんとした彼氏が入るんだよ。僕たちの同級生で、今警察に勤めているんだけどね」
「へえ、知りませんでした」
「義統くん、あまり生徒にプライベートなことを教えないでよ」
「ごめんごめん。ただ、付き合っている人がきちんといることがわかれば、僕らの関係をあれこれ詮索されないから、そのくらいはいいかな、と」
「私たちと同級生だから、それだけで相手が絞られちゃうじゃないの」
「でも、どこの職場で働いているかがわからなければ特定のしようはないですよ」
「もう私のことはいいでしょう。それより義統くんはどうなのよ。高校時代から誰かと付き合っているなんて話を聞いたことがないんだけど?」
秋山コーチは赤くなりながら話題を変えてきた。このあたりが同級生のやりとりなんだな。僕も社会人になったらいつか仁科と振り返ることがあるかもしれない。
「高校生がすべて誰かと付き合わなければならない、なんて掟はないからね」
「ってことは、もしかしてこれまで女の子と付き合ったことがないのかしら?」
「ないですよ。そんな余裕はなかったですからね。親も早くに亡くしていますし」
「たしか高校のときには両親を亡くしていたんだっけ?」
「よく憶えていますね。まあそんなことで、暮らしていくだけでも苦労しましたよ。幸い父が資産を残してくれたので、在学中は働く必要はなかったんですけどね。だから女性とお付き合い、なんてまったくする余裕はありませんでしたよ」
義統先生は僕と境遇が似ているな。体に不具合があったり、勉学だけすればよい家庭でもなかったり。
「そろそろウォームアップはいいだろう。巽くん、練習を始めるよ。まずは僕が手本を見せるから、ふたりはよく見ていてね」
体操場の片隅で、僕は義統先生仕込みのバク転とバク宙を習っていく。
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