第35話 体操場での練習

「やりたかったのは、バク転とバク宙だけです。それ以外のものをやるつもりは当初からありません」

「それが本心だという証拠はあるのかい?」

「僕がヒーローショーのアルバイトをしたいと思っている気持ちは揺るぎません」


「まあ、そう言っていられるのも今のうちだろう」

「まだなにか企んでいるんですか?」

「なに、仁科くんを体操に誘おうかと思ってね」


「残念ですね。仁科はトランポリン部へ入りましたよ。うちは引き抜き厳禁です。それに体操部ほどのきつい練習はしたくないからトランポリン部に行ったのですから、いくら誘っても体操はやらないでしょうね」

「もったいない。彼ほどの実力があれば世界でも戦えるのに」

「それはトランポリンでも世界に通用すると解釈しておきますよ」

「ずいぶんと意地が悪いな、巽くんは」

「素直に話しているつもりですけどね。僕は」


「それじゃあ君のバク転とバク宙を見せてもらおうか」

「まだ完璧ではありませんので。それに見世物であればお金をとりますよ」

「かまわんよ。金を払おうじゃないか」

「巽くん、高校活動で金銭のやりとりは見過ごせないわ。許されるのはアルバイトだけよ。稲葉さんも、お引き取り願います。ここでのあなたは外来でしかありません。生徒に要求できる権利も有しておりません。たとえあなたが世界的に著名な方であっても、規則は遵守していただきます」


 稲葉さんはふっと息を漏らすと、ゆっくりとドアの外へと歩み出ていった。

 宮里先生も思わずため息をついた。

「巽くん、あなたもたいへんな人を相手にしているわね」

「なまじ影響力があるだけに、今後どんな妨害をしてくるかわかりません。卒業生がヒーローショーというのも、おそらく干すのは簡単だぞと言いたいんだと思います」

「もし巽くんの生活に支障が出るようなら警察に相談しましょう。高校に通うためにアルバイトをしようとしているのに、妨害してアルバイトをさせないようにしている、って」

「そのときはお願いします」




「今日からこの体操場でバク転とバク宙の練習をすることになった巽孝哉です。よろしくお願いします」

 体操部からはまばらな拍手があがった。

「勘違いしないでいただきたいのですが、けっして体操部に入ったわけではありません。僕自身は砂場を使えたらよかったのですが、学校側から危険行為の助長になると指摘されました。そしてここでバク転とバク宙の練習をするように言われただけです」


 松本コーチが口を開く。

「皆さんの邪魔にならないよう、体操場の隅で練習させるので、皆さんの邪魔はさせません。もし邪魔なようなら彼に直接伝えていただければ場所を変えさせます」

 ずいぶん「邪魔」を強調するな。まあ確かに、より難しい技に取り組んでいるところで、ただバク転とバク宙の練習だけをしている人なんて「邪魔」以外のなにものでもないよな。


 だが少しでも体操部の近くに置いて感化させようとしている秋山コーチと、できるだけ影響を受けさせないように配慮している松本コーチとでは、見ている未来が違うのかもしれないが。


 僕はお金を稼がなければ高校に通えないのだから、ヒーローショーのアルバイトが難しくなったら、つなぎでコンビニのアルバイトをしたってかまわない。

 もちろん子どもの頃からの夢であるヒーローになれれば申し分ないのだが。目指しても全員がヒーローになれるわけでもない。ある程度の妥協は致し方ないだろう。




 体操部の皆が柔軟運動をしているのを横目に見ながら、隅でひとりバク転とバク宙の練習を開始する。ストレッチを一緒にやらないかと誘われたのだが、それこそ「邪魔」をするだけなので丁重に断った。


 今日が初めての練習になるので、皆がこちらに注目している。まあこれもショー慣れの一環だと割り切ろう。

 そもそも僕は体の構造がバク転やバク宙に向いていないのだから、独学で回る感覚を身につける以外にない。


 半身に構えてからのバク転、さらに連続バク転、最後に大きく後方伸身宙返り。距離感を鍛えるためにも、同じ動きを何度も確認する。ついでに後方宙返りで尻もちをつく練習もする。ヒーローの攻撃を受けた敵戦闘員の動きを確認した。


 これら一連が終わったら、スタンドでの後方伸身宙返りを念入りに繰り返した。これには体操部も黙って見ているようだ。

 以前体操部員から指摘されたが、スタンドでの後方伸身宙返りはなかなかやれる人がいないらしい。だからヒーローショーでも映えるはずだ。

 ついでなのでこれにひねりを加えてみようか。トランポリンでひねりのコツはつかんでいるはずだった。床を完全に蹴り終わる前に腕でひねりのきっかけを与える。

 初めての感覚だが、うつ伏せに近い体勢で落ちた。

 どうやらひねりすぎて高さが足りないようだ。まわっても一回ひねりで止めておかないと宙返りが安定しないのだろう。

 ただ、高さが足りないということは、やられたアクションとしては大きく「見せる」演技ができそうだ。そこで、あえてまわりすぎの後方伸身宙返りも練習しておく。


 今日はこの程度でよいだろう。あとは通しでやってみて、体力がもつかどうかの確認をする。

 実際には着ぐるみに入るので、このとおりに実践するのは難しい。だから、今のうちにどんな流れかを確認し、そこから着ぐるみでも実施できるようレベルアップしていけばよいのだ。


 それまで練習を見ていた体操部の生徒たちも、すぐに飽きたのか、それぞれの練習に専念してこちらを振り返ることもなくなった。これなら邪魔されずに練習できそうだ。




 松本コーチがたびたび近づいてきて注意してきた。

 だが、それほど邪険にするでもない。マットの位置をチェックして、安全な練習ができるよう気を配っているようだ。

 さすがに管理下でケガをされたら責任を問われかねないからな。最低限の安全対策は欠かせないのだろう。


 秋山コーチは女子部員の動きを見つつ、こちらの様子を眺めているようだ。

 あれでは選手が危険な技に挑戦できないだろう。よそ見しないで丁寧に指導してあげるべきだ。

 事故が起きてからでは遅いことに気づけないのなら、コーチなどやらないほうがいい。


 もしかすると、同じ全日本選抜のコーチである稲葉さんに報告するため、こちらをチェックしているのではないか。

 だとすれば、こちらの弱点を修正してやるとか理由をつけてきそうではあるな。

 まあ失敗ジャンプに見えても、それがこちらの意図どおりなのだから、ツッコまれてもかわす自信はあるのだが。



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