第34話 稲葉、再び

 翌日の放課後。生活指導の宮里先生へ会いに行った。


「秋山コーチから異論が出たけど、ヒーローショーに必要なのは着ぐるみに入ってバク転やバク宙ができるかどうかだから、って押し切ったわよ。他の生徒への影響もあるから、とりあえず練習は体操場に限定されるけど、バク転とバク宙以外はやらせないことに決まったわ」

「やはり秋山コーチとしての狙いは別にありましたね」


「本当、そのような主張だったわ。彼には才能があるから体操をやらせるべきだと強硬に主張したのよ」

「まあ稲葉さんが問題なんでしょうけどね。部外者の言葉を真に受け過ぎなんですよ。松本コーチなら体操場での練習そのものを反対するはずですし」

「実際、松本コーチは猛然と反対していたわね。体操部員以外に体操場を使わせたくないって」

「それが自然ですよ。素人に無理やり体操をやらせようだなんて、危なすぎて良識のある指導者では考えられませんから」


「正直に話してほしいんだけど、巽くんは体操をやりたいの、やりたくないの?」

「バク転とバク宙を教えてくれる人がいないか、という段階でしたらやりたかったといえます。でもそれを教わった段階では特段体操をやりたいとは思いませんよ。やりたかったのはヒーローショーだったんですから」


「そこまでドライに考えられるものなの?」

「ドライというより現実問題、ヒーローショーに二回宙返りなんて必要だと思いますか? 観客の子どもが喜ぶのはバク転でありバク宙なんですよ。そのふたつだけでもじゅうぶんワクワクするのが子どもってもんです」

「巽くんがヒーローショーって言うからどんなものか今日行ってみたんだけど、確かに子どもたちの前で立ち回りやバク転なんかをして盛り上がっていたわ。そのあとスーツアクターっていうのになりたい人から聞いたんだけど、バク転とバク宙ができればなんとかなるんだって」

「でしょうね。だからそのふたつだけでも憶えれば、僕でもヒーローになれるわけですよ」


「稲葉さんとか秋山コーチとか。ちょっと要求が過大なんでしょうね。磨けば光るかもしれないけど、光りたいと思っていない人に注力しすぎだわ。そのぶんもっと現役選手の育成に力を注がないと」

 そのとき生徒指導室のドアがノックされた。ドアが開くとそこには稲葉さんが立っていた。


「巽くんがこちらにいるとお聞きして」

「稲葉さん、僕は用などないんですけどね」

「まあそう邪険にしなさんな。うちが提携しているヒーローショーの会社を紹介しようと思っただけだから」

「あなたが稲葉コーチですか。校外の方がうちの生徒の生活指導をする必要はございません。彼にはふさわしい職場を紹介する予定ですので」

「うちの卒業生が結構ヒーローショーで働いているんですよ。まったく知らない人よりも顔見知りのつてを頼ってみてはどうかな、巽くん」


「その裏側にある要求が透けて見えるのでお引き取りください」

「そうです。あなた方は彼に体操をやらせようと画策しすぎです。彼の目標は仕事をして家庭にお金を入れて、高校通学の資金を得ることです。体操で金メダルを獲ることではありません」

「いけませんか? 金メダルを獲ればその後の生活は安泰になるようなものですよ」


「これまでオリンピックなどで金メダルを獲った選手が、競技を終えたあとも金メダリストとして扱われたなんて話は聞きませんね。金メダルなんてものは子どもの頃から夢見た人だけが挑めばいいんです。そんな気がさらさらない人に無理強いするものではないでしょう」

「それに確実に金メダルが獲れるわけでもないでしょう。稲葉さん、僕はあなたが金メダルに固執しすぎて選手のことを考えていないと思っているんですよ。金メダルを獲りたい人には理想的でも、アルバイトするためにバク転とバク宙ができれば事足りる人に金メダルを説いても無意味です」


 稲葉さんが僕の隣まで歩み寄る。

「それじゃあ今から私の見込みが間違っているかどうか、証明してみようじゃないか」

「お断りします。僕はバク転とバク宙だけでじゅうぶんですから」

「君のスペックがどれほどのものか。せんまいの体操部員にも知らしめるべきだろう」


「スペックとか、知らしめるとか。生徒の自由意志を無視するのであれば、即刻この場から立ち去ってください」

「私はね、巽くん。うちの潮を倒して代表入りするのは君だと思っているんだ」

「それなら潮さんのためにも、代表は目指しませんよ。目のつけどころが悪かったんです。早くそれに気づいてください」


「ずいぶんとつれないね。初めて会ったときから君は後方伸身二回宙返りができると見込んでいるんだ。ちょっと教えれば伸身ムーンサルトだってできるようになるだろうね」

「そういう甘い言葉に釣られるほど子どもではありませんので」

「甘い言葉、ね。嘘だと思うなら今から試そうじゃないか。君の伸身二回宙返りを見てみたいね」


「お断り致します。ここは先枚高校です。あなたの体操クラブではありません。あなたの指図にうちの生徒を従わせるわけにはまいりません」

「まあいつか君の本心を暴きたいものだ。きっと金メダルが欲しくなるだろうね」

「稲葉さんこそ、僕の本心に気づいてほしいものですね。僕はヒーローショーなりコンビニなりのバイトをしてお金を稼がなければここにも通えなくなります。あなたの言うとおりにすると、出費ばかりが増えると思うのですが?」


「金メダルへの最短コースを歩ませてあげるのだから、それなりのお金は必要になるが、そんなものは後からどうとでもなるよ」

「やはりあなたはご自分の利益しか考えていませんね。ご自分に箔をつけたいだけなんですよ」

「君が金メダルを目指すのは宿命なんだよ」

「僕は宿命論になびくほど信心深くもありませんので」


「稲葉さん、でしたね。ここは先枚高校であって、生徒は私たち教職員が親御さんから預かっているものです。本意でないことを強制されそうになっているのなら、それから守るのが私たちの使命です」

 宮里先生が敢然と立ち向かっている。その姿勢に力強さを覚えた。


「世の中、金メダルばかりを求めすぎです。それを手に入れた人は確かに素晴らしい才能の持ち主なのでしょう。しかしやりたくもないものをやらされて金メダルが獲れるとは思えません」


「やる気は練習の過程で必ず見つかるものです。そのスタートを切らせないというのは、彼の才能の芽を摘んでいるようにしか映りませんが」


「彼にはヒーローショーという明確な目標があります。それに手を貸すのが大人である私たちが行なうべきことのはずです」

「私にはそれこそまんだと思えますね。彼は体操をやりたがっている」



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