第32話 生活指導【第四章終わり】

 とりあえずお茶を濁して印象を悪くすれば付きまといもなくなるだろう。

 ただ、手抜きがバレると、疑惑は深まった、とか言い出しそうだよなあ。


 裸足になって校庭の隅にある砂場まで駆けていった。

 そこでダッシュしてロンダートから直接後方伸身宙返りを行なって砂場に着地する。

 そのまま校庭脇の水道まで行って足を洗って靴下と体育館履きを履いてそのまま更衣室に駆け込んだ。

 これで追いかけて来られまい。


 どうせ取るに足らない技だったので、幻滅してくれればそれでよし。少なくともこれで評価が上がることはないだろう。

 今はとにかく目立たなければよいのだ。変に注目を集めるとのちのち面倒だからな。


 砂場で単に後方伸身宙返りをした。


 たったそれだけなのだから、褒められる要素なんていっさいない。ひじょうに地味でなんの変哲もない実施だ。

 春日と若林とともに素早く着替えて、次の授業に間に合わせなければならない。

 更衣室を出ようとした若林が驚いた声をあげた。


「稲葉コーチ!? お疲れさまです!」

 僕は出入り口から見えないところで着替えているので、気づかれないはずだ。

たつみくんはいるかい?」

 若林があたりを見渡しているようだが、僕が見えるはずもない。

「いえ、おりませんが」

「逃げられたか。彼に会ったら伝えてくれないか。私は評価を下げていない、とね」

「なぜ巽くんにだけ興味を持つのでしょうか?」


「若林くんだったね。彼の技を見てどう思った?」

 そこに春日の声がかぶさる。

「普通の後方伸身宙返りですよね。なにも変わったところもありませんでしたが」

「じゃあ同じ場所で同じ宙返りをやってみてごらん。きっと得るものがあるはずだよ」

 物音を立てないよう、気をつけていた着替えが終わり、裏口から更衣室を後にした。


 稲葉さんはなにを考えているのやら。単に後方伸身宙返りをしただけなのに。

 まあもう少し完成度が上げて、ヒーローショーのアルバイトを始めるべく学校に申請しなければならない。

 まあまだアルバイトの面接に行く準備ができただけなので、採用されるとは限らないのだが。アルバイトの許可申請は早めにしておくことにしていた。


 アルバイトが始まってしまえば、さすがにもう干渉はしてこないだろう。

 こちらは生活がかかっているのだから、体操などという面倒な競技に縛られずに済む。

 そもそもヒーローになりたくてバク転とバク宙を憶えたかっただけで、体操選手になるつもりなどない。

 そのことを理解していないのが稲葉さんであり秋山さんなのだ。


 すぐにでも生活指導の先生と話してアルバイトの許可を得るべきだろう。

 魔手が伸びてくる前に。

 もしそれを断ちに来られたら、退学も覚悟しなければならないと伝えよう。

 どちらを優先するかは少し考えればわかることなのだから。




 放課後になると、すぐに生活指導室へ向かおうと教室を出そうになったとき、若林に呼び止められた。


「若林、なにか用でも? 僕、これから生活指導の先生に相談したいことがあるんだけど」

 どうにも言い出しにくそうにしている。彼のプライドにかかわることかもしれないな。

「ちょっと砂場まで来い。お前の後方伸身宙返りがどれほどのものか、確認させてやる」

「それは自分で判断すればいいだろ。僕はアルバイトの許可申請をしなきゃならないんだから」


「アルバイト? お前、アルバイトしなきゃならないのか?」

「うちは母子家庭なんでね。高校に入りはしたもののそこで資金が底をついたってわけ」

「じゃあ体操なんてやっている時間は──」

「いっさいなし、だね。じゃあ僕は生活指導の先生に会いに行くから」

「あ、ああ。わかった。それじゃあ稲葉コーチにアルバイトしなきゃいけないんで体操は無理ですって伝えていいんだな」

 若林は安堵の表情を浮かべて立っている。


「すでに伝えてあるんだけどね。それでもしつこいんだよ。だから正式にアルバイトが決まってしまえばちょっかいを出されずに済むってこと」

「そ、そうだったのか……。お前も大変なんだな」

「わかってくれればいいってこと。じゃあ僕はこれで」

「ああ、頑張れよ。アルバイトの許可が出るといいな」

「出なきゃ退学だからね」

 こんなことをしていられない。すぐに生活指導の先生へ会いに行かないと。




「あなたのことは体操部の秋山コーチから聞いています。なんでもアルバイトをしなければ退学するしかないとのことだけど。本当なの?」

 生活指導の宮里先生と面談している。

「はい。うちは母子家庭で、高校の入学金を払っただけで貯金が枯渇したんです。すぐにでもアルバイトを始めないと学費を払えません」

「それで、希望しているアルバイトがヒーローショーの着ぐるみって本当なの?」


「はい、それが第一希望です。ですがすぐに見つかるものでもないと思いますので、それまではコンビニのアルバイトでもする予定です」

「危険度を考えると、ヒーローショーの着ぐるみってあんまりオススメできないんだけど……」

「僕の夢なんです。ヒーローになって子どもたちに夢を与える存在になれたらって」


「その志は立派なんだけどねえ。それは体操部に入ってもできないことなの? 体操部からかなり圧力を受けているんだけど」

「体操部の練習がどれほどハードかはおわかりですよね?」

「まあそれはね」

「練習でへろへろの状態でアルバイトに入ったほうが危険だと思いますよ? せんまいの学生はアルバイトでいつも気だるげで寝てばかりいる。そう片付けられると困るんじゃないですか?」

 宮里先生は頭を悩ませているようだ。


「改めて説明しますね。うちは母子家庭で貯金が底をついている。今のままでは学費も払えない。アルバイトをしなければ高校へ通い続けられない。だから許可をお願いしている。不可なら高校は退学する。ということです」

「そう言われればとてもシンプルなのよね。体操部からの要請を除けば……」

「考慮するまでもありません」


「確認しておきたいのだけど、あなたは本当に体操をやりたいわけじゃないのよね?」

「バク転とバク宙さえできるようになれば、もう用はないですね。ヒーローショーでは必要になりますから」

「それだけが目的だったのなら、確かにこれ以上体操をやる必要はないわけね」

 宮里先生はボールペンの尻で頭を掻いている。


「わかったわ。明日の朝の職員会議にかけて許可をもらってくるわね。じゃあ明日の放課後にまたここに来なさいね」

「ありがとうございます。これで安心して学校へ通えます」

 思わず口の端を上げてしまった。



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