第31話 逃げられない!

「もし稲葉コーチが見てくれるのであれば、俺たちは転籍してもかまいません!」

 春日が熱心に売り込んでいる。

 そりゃ“めいはくらく”とまで呼ばれている人なんだから、体操界では神様のような人なのだろう。


「すでに大会に出場している選手は引き抜けないんだよ」

「でもド素人の巽くんを引き抜こうとしていますよね? それなら経験者の僕たちのほうが即戦力になりえます!」

「うちはうしおがエースだからなあ。彼になにかあったら君たちも視野に入るだろうけど。それに君たちでは面白みに欠けてね。実力がわかっているから」

 そう言われてふたりとも言葉を失ってしまった。


「つまりド素人のほうが楽しめる、と判断しているわけですか」

 冷ややかな目線を送る。

「僕はあなたのおもちゃじゃないですからね」

「じゃあ三人で、ロンダートからバク転して後方伸身宙返りをやってもらおうか」

 これはなにか策を巡らせているな。


「わかりました。それでたつみくんより上ならいいんですよね?」

「ちょっと待ってください。僕は了承していませんよ」

「巽、俺たちにチャンスをくれ」

「そもそも連続バク転からの後方伸身宙返りなんてできませんよ?」

「スタンドで後方伸身宙返りができるって弓香に聞いているんだが?」

 春日も若林もびっくりしている。


「スタンドから後方伸身宙返りができるのか、お前」

「なにかの見間違えでしょう。仮にできたとしても連続バク転から実施できるとも限らないのですから。僕には身体的な欠陥がありますし。それより春日くんと若林くんは当然できるんだよね?」

「当たり前だろう。そんな小学生で習う技」

「それを高校生になってようやくできるかもしれない程度のレベルになにを期待しているんだか。やはり笑いたいんでしょうね」


 稲葉さんの狙いは手元に置きたいことなんだろうけど、その理由が結局よくわからない。

「ヒーローショーのアルバイトを目指しているなら、当然影で練習はしているんだよね?」

「ええ、うちの近くの公園でやってますよ。こんな恵まれた環境で宙返りの練習ができるほど金がないので。それにショーの舞台って狭いですし着ぐるみも着ていますからね」


 春日と若林が後ろでこっそり口を開いた。

「ヒーローショーってなんの話だ?」

「俺が知るかよ」

 体操場には青天体操教室のメンバーでない選手が何名かいるようだ。

 もしかしたら全日本選抜の選手か? だとすれば高村さんが稲葉さんに告げた可能性もあるのか。


「あれ? 潮くんって全日本選抜じゃないんですか? あれだけ自信家だったのに」

「彼は今年からシニアデビューだからね。男子の全日本選抜はだいたいが大学生や社会人だ。高校生で選抜に選ばれるのはよほどの傑物でないとね」

「だそうですよ、春日くん若林くん。全日本選抜の皆さんの前で演技を披露しないといけないらしい」

「全日本選抜だって! たしかにうちの高岡先輩や石井さんもいるな」

 あれ? 石井さんも来ていたんだ。まったくチェックしていなかったな。

 まあ練習に励んでいるようだから、声をかけるのはやめておこう。


「そういえば、仁科くんはどうしている? 彼の演技も見たいんだけど」

「ああ、仁科はトランポリン部に入るって言ってましたよ」

「トランポリン? 彼なら体操でもエースになれると思っていたんだがなあ」

「体操部のように練習がきつい競技はやらないそうです。トランポリン部なら適当に跳んだり跳ねたりすればいいだけだから楽でいい、と言っていました」

「トレーニングが楽でいい、か。まあ確かに体操は練習が厳しいからね」

 そんな世間話をしているうちに、春日と若林はウォーミングアップを始めたようだ。やる気満々ってところか。


 僕は彼らが演技しているうちに逃げ出せばいいだろう。ド素人が演技を披露できる場ではないのだから。

「じゃあ若林くんからやってもらおうかな」

「はい!」

 準備ができた若林がフロアの隅に立っている。そして手を挙げて対角線に走り出してロンダート、連続バク転から後方伸身宙返りを行なった。黙って見ていた周囲はあまり関心がなさそうに話している。

「次は春日くんの番だ」

 逃げるならここだな。視線が彼に集中している間に遁走してしまおう。

 春日くんが手を挙げてダッシュする。

 それに合わせて僕もダッシュで体操場を後にしようとすると、突然腕をつかまれた。


「えっ、秋山さん!?」

 逃げるのに失敗した。まさか背後をとられているとは思わなかった。これではヒーロー失格だな。

「あなたは次の番よ」

「今日は彼らを売り込みに来ただけですよ。紹介してほしいと言っていましたから」

「全日本選抜の選手から見て、彼らは取るに足らない演技をしたってことはわかるわよね?」

 確かに関心を持って見ている人はいなかった。


「まあド素人がやったところで、恥をかくだけですからね」

「そうかしら? あなたは自分の実力をまだ知らないようね。やってみればわかることよ」

「それでもフロアで演技したことはないので、やるなら砂場でやりたいんですけどね。頭から落ちる可能性のほうが高いんで」

「それならエバーマットを持ってこさせるわ」

「こんな弾むところで連続バク転もできないんで、やはり砂場がお似合いですよ」

「どうしてもやりたくない、と」


「ケガしたら働けなくなるじゃないですか。ヒーローショーのアルバイト先、ようやく地元の求人広告に出ていたんで、申し込んだばかりなんですよ。そのときに着ぐるみでバク転とバク宙できないと失格なもので」

「こんな場所よりショーの実技試験のほうが優先順位が高いわけ?」

「当たり前ですよ。ようやく見つけて、これから高校に申請しようって矢先なんですから」

「まああなたの申請は私の一存で止めてもらうことになっているんだけどな」


「わが家の生活をあなたが邪魔をするのなら、せんまいを辞めるしかないですね。そうすればあなたがたも追いかけてはこないでしょうから」

 ひと悶着していると、どうやら石井さんが近づいてきているようだ。


「秋山さん、石井さんが近づいてきますよ。用があるんじゃないですか?」

「彼女は仁科くんを釣るための餌よ。まあトランポリンに逃げられたようだけど」

「とにかく、やるなら砂場以外受け入れませんよ」

「それならそれでいいわよ。あなたの技が見られるのならね」

 やはりそれが狙いか。



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