第23話 高村弓香

「あの稲葉コーチが惚れ込むのも無理ないわね……」

 呆然としているたかむらさんが不意につぶやいた。


「それでは僕たちの退部記念は無事に成功したということで」

 しなと顔を見合わせて息を合わせた。

「今までありがとうございました!」

 深くお辞儀をする。


「あ、そうだキャプテン。退部届の用紙をもらいたいんですけど」

「ああ、それは部室に置いてあるから今持ってくるよ」

 あさおかさんは駆け足で部室へ向かった。


「あなたたち、本当に体操を辞めちゃっていいの? 今ならまだ間に合うわ。松本コーチと話し合って、退部はなかったことにしてもらいましょうよ」

 その熱量はどこから来るのだろうか。

「その必要はありません。俺たちはもう習いたかったバク転とバク宙を身につけましたから。これ以上は必要ないんです。まあたつみは体のことがありますから、実施に試行錯誤は必要でしょうけど」


「仁科の言うとおりです。あとは自分にできる範囲で応用して、バク転とバク宙ができればヒーローショーのアルバイトもできそうですからね」

 美人が口をあんぐり開けている。似合わない顔つきだよなあ。

「そんなものなの? あなたたちの体操への情熱って」


「体操である必要はなかったんですよ。もしテレビの特撮ヒーローが剣で敵を倒しまくっていたら剣術をやっていただろうってだけですから。僕はたまたま体操だっただけで」

「そんなバカなことって……」

 キャプテンが紙を二枚持って走ってくる。


「はい、これが退部届だよ。ボールペンも持ってきたから」

 退部届とボールペンを受け取った。

「ありがとうございます。それじゃあ今書きますのでちょっと待っててくださいね」

 僕たちは床に退部届の用紙を置いて、クラスと名前そして日付を書いていく。


「浅岡くん、この子たちを辞めさせちゃダメ! きっとうちの二枚看板になるから」

「でも、松本コーチとの約束です。僕にはどうすることもできません。それに彼らの決意も固いですからね」

「部員の将来に責任を持つのも、キャプテンの仕事よ!」

 高村さんは女子キャプテンとして話しているのだろう。


「体操をやりたい人をサポートするのがキャプテンの役割だと思っています。今回彼らがバク転とバク宙を習いたいという願いをサポートしたんです。だからきちんとキャプテンとしての仕事はしたつもりですよ。高村さん」

 必要事項を書き終わったら仁科とともにキャプテンに手渡した。


「青天の栄コーチと稲葉コーチがあなたたちのタンブリングを見たがっていたわ。今の技を皆に見てもらうわけにはいかないの?」

「あの人たちとは、中学で同学年だった女子に連れられていったところで知り合ったというだけですから」

「久美ちゃんと同じ中学校だったって聞いたけど」

「石井さんのことを知っているんですか?」

 仁科がさりげなく聞いている。


「彼女も全日本の選抜メンバーだから。彼女が噂していたあなたたちがうちに来るって聞いて、すごく楽しみにしていたのに」

 それはそちらが勝手に盛り上がっていただけで、僕たちにはなんら関係のないことだろうに。

「まあ楽しみにしていた方に技をお見せできたのですから、それでいいじゃないですか」

 彼女に変な未練が残るといけないので、少し乱暴に突き放す言葉を並べる。


「久美ちゃんはどうなるの? 彼女も楽しみにしていたのよ」

「別の学校に行った外の人なんですから、別に見せなきゃならない理由はないでしょう。彼女だったわけでもないんです。同級生でもなく、ただの同学年っていうだけの関係なんですから」


「まあ石井さんにモテたいって野望が、あのときの仁科にはありましたけどね。でもバク転・バク宙当たり前の体操界にいるんですから、今さらできても振り向いてももらえないでしょうね」

「ほんと、あのときの俺、舞い上がってたよな」

 顔を見合わせて笑った。


「冗談言ってないで現実を見なさい!」

 高村さんの言葉でふたりは瞬時に真顔に戻って、誠実な眼差しを向ける。


「僕たちは今、達成感に満ちているんです。これ以上ないほどに。僕個人はこれからも体に合ったバク転とバク宙の練習はするでしょうけど、それ以上の技をやろうとは思いません。目標がそこまでだったのですから、それでいいじゃないですか」

「高尾山に登ることで満足している人に、富士山やエベレストに登りましょうって言っているようなものですからね。無責任このうえないですよ」


「すでに退部もしましたから、もうここにいるのも場違いなんですよね、僕たち」

「だからここで失礼します。浅岡キャプテン、高村さん、お疲れさまでした」

 ふたりで振り返ることなく体操場を後にした。




 翌日一時限目が始まる前に、僕たちのクラスに高村さんがやってきた。

「仁科くん、巽くん。もう一度体操部に入りましょう」

「お断りします」

 異口同音で即答した。


「あれから校長室に戻ったら、まだ稲葉コーチと栄コーチが残っていてね。ふたりに体操をやらせてくれって熱心にお願いしていたのよ。松本コーチはずっと拒否していたけど、秋山コーチは迷っていたわ」

「それじゃあ僕らが女子にでもならないかぎり、入部はできませんね」


「でも君たちが必死に入れてくださいってお願いしたら、きっと入れてもらえるから」

 その言葉で仁科は急に不機嫌になった。


「なんで体操をやるのにこちらから頼み込む必要があるんですか。部活動って入るも辞めるも原則生徒の自由ですよね?」

「それはそうだけど……」

「俺らはもう正式に退部したんですから、かまわないでもらえますか?」

 突き放すような仁科の言葉に、高村さんはなんとか食らいつこうとしているようだ。


「もったいないとは思わないの? 二日でバク転とバク宙ができたのよ。もっと習ったらもっとすごい技をどんどん憶えられてとても楽しくなっていくものなのよ、体操って」

「僕たちはバク転とバク宙がマスターできさえすればそれでよかったんです。まあ厳密には巽は成功はしていないんですけど。でもそこは試行錯誤すればよいだけなので。念願が叶ったんです。喜びこそすれもったいないとは思いませんよ」

「そんな……」

 もうじき始業チャイムが鳴る頃合いだ。


「もう二度と体操部には入りませんから。男子の松本コーチとの約束です。たかが高三女子が僕たちに体操を続けてほしいと言ったとしても、大人との約束は反故にできませんからね。そういうことなんで、もう帰ってください。じきに授業が始まりますよ」

 絶世の美人が打ちひしがれた表情を浮かべ、肩を落として僕たちの教室を出ていった。




「誰だよ、あの美人! 三年生か?」

 後ろの級友が語りかけてくる。


「ああ、体操部の高村キャプテン。全日本の選抜メンバーなんだとさ」

「そんなすごい美人にお願いされて、よく体操部に入らないでいられるな。俺だったら速攻で入りますって取り入るけどなあ。弱みを握れるチャンスじゃん」

「弱みを握ってどうするつもりだよ」

「そりゃ、男と女といえばやることは決まってるじゃん」


 まあそういったことに興味を持つ年代だから無理もないけど。

「体操部にはもう用がないからね。僕たちもやりたいことはすべて教えてもらったし」

「そうなの? そんなに簡単なんだ、体操って」

「そ、簡単なことを難しくやるのが好きなんだろうね」



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