第21話 全日本女子選抜
稲葉さんはさらに松本コーチと秋山コーチに揺さぶりをかける。
「実はうちの石井久美とそのふたりは同じ中学出身なんです。だから久美にも彼らの状態を知らせたいと思っているのですが?」
「久美ちゃんが、ですか……。あの子、熱心に練習に励んでいたけど、思わぬところに原動力があったわけか……」
「どうですか、秋山さん。久美が安心して体操に打ち込むためにも、土産話を持っていきたいんですけどね」
「秋山さんお願いします。なんとかタンブリングを見せてもらいたいんだけど」
栄コーチも食らいついてくる。しかし松本コーチはピシャリとはねつける。
「秋山くん。君は女子の担当なんだから、男子部員のことに口を出さないように」
これは堂々巡りだな。せっかくバク宙のコツをつかみかけていたのに、忘れちゃいそうじゃないか。
「発言を失礼致します」
「今の俺いや僕たちがどんな状態だろうと、久美さんには関係ありません。僕たちはバク転とバク宙を成功させて、さっさと退部したいんです。それ以上の技なんて望んでいませんから」
稲葉さんがこちらに視線を向けた。
「後方伸身宙返りはじゅうぶんバク宙以上の技なんだがね?」
「あ、あの。伸身宙返りを提案したのは僕なんです。
「浅岡! お前にはバク転とバク宙だけを教えて早く追い出せと指示していたはずだ! それができたのならなぜすぐ追い出さん! だから今こんな状況になっているんだぞ!」
松本コーチが気色ばんでいる。まあ僕は確かに曲がりなりにもバク転とバク宙に成功してはいるんだけど。
「伸身宙返りは調子に乗りすぎたかもしれませんが、僕も立った状態からのバク宙を成功させたいですね。男子アイドルグループだって曲の合間にやっていますよね」
「ハハハ、聞いたか浅岡。さっさとふたりにスタンドのバク宙を教えて退部させろ! 時間がもったいないから今からすぐにだ! 三人とも練習に戻れ!」
「まあまあ松本さん。約束だから守らないのは道義に反しますが、昨日始めて今日にはバク宙を完成させるなんて、あなたの言うド素人にできることなんですか?」
ここまで黙って聞いていた校長が口を開いた。どうやら中立の立場から発言したかったのか、様子見から一転して介入を始めたようだ。
しかし松本コーチはそれに答えず、僕たちを体操場へと戻そうと躍起になっている。
「うちの教室の子でも、バク転とバク宙を一日二日でマスターしたなんて見たこともありませんが」
栄さんの言葉に稲葉さんが追い打ちをかける。
「どうせこれから体操場へ戻って練習するのですから、それを見学させていただけますかね、松本さん」
「それはならん! すぐに辞めるようなやつらなど我が校の品位を落としてしまうからな」
これでは
あとは大人で話し合ってくれればいい。どうせ関係ない話なんだし。
「発言をしたいのですが」
「巽くん、見せる気になったのかい?」
「いえ、見せる見せないは大人の事情です。僕たちには関係ありません。せっかくバク宙の感覚をつかめそうなところだったので、すぐに体操場へ戻って完成させたいのですが」
「だからそれを見せてもらおうと思って──」
「見せられんと言っとるだろうが、稲葉さん!」
万事この調子では話し合いにすらならない。
「では僕たちはここで失礼致します。仁科、浅岡さん、帰りましょう」
「巽くん、ちょっと待って!」
その言葉に振り返ることなく出入り口のドアの前に立って振り返った。
「それでは失礼致します」
僕がお辞儀すると浅岡さんと仁科もそれに倣い、そのまま退室した。
「巽くん、本当によかったのかい? 稲葉さんに見てもらったら正式に入部できるかもしれないんだよ?」
「キャプテン、僕たち言いましたよね。バク転とバク宙を教えてくださいって。バク転はある程度安定しているので、あとはバク宙だけなんです。それさえ完成させれば、こんな不毛な言い争いなんて起こらないのですから」
「それはそうなんだけどさ……」
「早く体操場に戻って練習しましょう。僕も伸身宙返りではなく仁科と同じ立った状態からのバク宙でいいですから」
ふたりを置き去りにして僕は体操場へと急いだ。仁科はすぐに追いかけてきて、少し
体操場に着くと、さっそくキャプテンに話しかけた。
「早くやってしまいましょう。大人がああだこうだ言っている間にバク宙を完成させて退部すればすべての問題は解決するのですから」
「ふたりとも、本当にいいんだね?」
「愚問です」
「俺も体操部の練習にはついていけないと思いますので、教わったらすぐに巽と一緒に退部しますよ」
キャプテンはなにか言いたそうにしているが、すぐにあきらめたようだ。
「わかった。じゃあバク宙を教えるよ」
「お願いします」
キャプテンがマットに立っている。手本を見せてくれるのか。
「まず一度手本を見せるからね。バク宙はバク転よりも高さが必要なんだけど、まわるというより足で円を描くつもりで、その重さを意識するんだ。そうすればより素早い回転につながるからね」
そう言ってからキャプテンはバク宙を軽やかに決めてみせた。
「仁科、できそうか? お前が先に決めるって言ったんだからな」
「巽、なにかアドバイスはないか? キャプテンのバク宙を見ていたらできないんじゃないかって思い始めているんだけど……」
仁科が実施できそうなアドバイスか。
「そうだなあ。バク転は体重を後ろに傾けて跳び上がったけど、その場でのバク宙はあまり傾けないほうがいいな。胸とか頭とかを中心にまわるつもりで足を振りまわすようなイメージかな」
「いいところに目をつけるわね、君」
後ろから女の声が聞こえてきた。さっきまで校長室にいた女子生徒だ。
「
浅岡さんが女子生徒に問いかけている。
「いいのよ。あの場だと君、えっと巽くんだったわね。あなたの判断が正しいわ。あんなところで無意味に時間を潰す必要なんてないわ。あれは大人の都合であって、選手には関係ないことだもの」
「君も女子キャプテンだからなあ。用具類は皆更衣室に置いてきたのかな? 女子は今日練習なしだよね?」
「私はこれから置いてくるんだけど、合宿に参加していた女子は練習なしよ」
高村さんは女子キャプテンだったのか。じゃあこの人も全日本選抜の選手か。
「じゃあ私がこれを置いてきたら、巽くんから練習しましょうか?」
「いや、今から仁科くんが練習するところだから」
「そうなんだ。じゃあとりあえず待っていて。すぐに道具を置いてくるから」
高村さんは更衣室まで小走りで向かって、中に入ってから程なくして出てきた。
「さあ始めましょうか」
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