第20話 秋山理恵

「稲葉さん、俺じゃなくてたつみ目当てですよね? なにもセットで呼ばなくてもよかったんじゃないですか?」

 しなの言葉に稲葉さんは優しい表情を浮かべている。


「そういえばバク転とバク宙をマスターして女子にモテたいんだったっけ。どうだい、女子にモテたかい?」

「いえ、さっきようやくバク宙の練習に入ったところですから」


「松本さんから聞いたけど、バク転とバク宙をマスターしたらふたりとも体操部を辞めるそうだけど、本当かい?」

「はい、そのとおりで間違いないです。それが入部する条件でしたから」

「条件?」

 その言葉にはややトゲが感じられた。


「トランポリンすら使えないド素人に技を教えるなんてできませんからね」

 松本コーチは事もなげだ。

「そうか、この学校にはトランポリン部がありましたわね。でも今バク転とバク宙の練習をしているって……」


「栄さん、こいつらの言うことを真に受けないでください。練習が始められないほどの半端者なんですよ」

 稲葉コーチの目が光ったように見えた。

 それまでなにか考えていて、今ひらめいたような、そんな印象を受ける。左口角がわずかに上がったのを見逃さなかった。

「それでは……」

 廊下からドアをノックする音が聞こえてきた。


「あ、浅岡くんね。今招き入れますから」

 とみさわコーチがドアを開けて中に入れた。

「稲葉コーチ、栄コーチ、初めまして。体操部男子キャプテンの浅岡です」

「君が浅岡くんか。初めまして、稲葉です」

 丁寧にあいさつするとキャプテンは僕と仁科の前に立った。


「さっそくだけど、浅岡くん。君が彼らにバク転とバク宙を教えているそうだけど、筋はどうだい?」

「筋……ですか?」

「そうだ。見込みがあるかどうかを知りたいんだけど」

 キャプテンは松本コーチを一瞥したようだ。


「えっと、このまま体操選手としてのキャリアが歩めるかどうかはわかりません。まだ教え始めたばかりですから」

「でも入学してからバク転とバク宙は教えているんだよね? それがどれほどなのか教えてくれないかな?」

 キャプテンが少し言い出しにくそうにしている。なにかを考えているようだ。


「巽くんは体の下地が出来ていますから、あとは技のコツを教えている最中です。仁科くんはスポーツ万能というだけあって、僕の指示どおりに練習してくれています」

「それだと筋がよさそうには聞こえないんだけどな」

「いえ、その……。高校生に後輩の才能の有無は判断できません。今言えるのは、仁科くんには立った状態からのバク宙を教えようとしているところで、巽くんには伸身宙返りの練習を始めようかという段階です」

 稲葉さんは我が意を得たりといった表情だ。

「つまりバク転自体はすでに成功しているわけだね」

「え、はい、そのとおり……です……」

 その強い口調に言いよどんだようだ。


「ちなみに練習を開始したのはいつからだい?」

「昨日の始業式のあとに入部試験をして、トランポリンが跳べなかったのでトランポリン部預かりということになりまして……。で、ふたりともバク転とバク宙ができるようになったら退部するから、それだけ教えて欲しいと……。それで僕が教える役を引き受けました」


「ということは昨日バク転の練習を始めて、すでにそれはマスターしている、と。そしてバク宙の練習に入っていて、それぞれ次の段階に進んでいる」

 綺麗な女性が立っている僕たち四名のほうへ向き直った。

「浅岡くん、それ本当なの?」

「はい、そのとおりです。秋山コーチ」


「私は彼らが今どこまでできるのか、直接この目で確かめたいんです。今から体操場へ案内してもらえませんか?」

 キャプテンは松本コーチの顔色を窺っているようだ。

「いえ、今体操部に自主練をさせているので、それは致しかねます」

 松本コーチを見ると満足げだ。

「うちの選手が用具を更衣室へしまいに行きましたから、今体操場はてんやわんやなのでお見せできませんわ」


「秋山さん、あなたはなにか勘違いしていませんか? 私は仁科くんと巽くんの今の状態を知りたいのです。私は彼らが優秀なジムナストだと確信しています。とくに巽くんはうちの潮とともにジュニアを引っ張っていける存在。これは栄も同様の感想です」


「こう言うと語弊があるかもしれませんが、私は巽くんの助走を見ただけでスケールの大きさを感じました。秋山さん、試しに彼らの今できる演技を見せていただくわけにはいきませんか?」

 なるほど。頑なな松本コーチではなく、全日本選抜の女子コーチを落とそうという腹だな。

 美人コーチの気を引いてなんとか自分たちの思惑どおりに運ばせたいようだ。なかなかにしたたかだな。


「松本コーチ、本当に巽くんと仁科くんでしたっけ。このふたりには才能はないのですか?」

「欠片もありませんな。トランポリンも満足に跳べないようなやつが体操などしたら大ケガをして高校の名を汚すだけです」

「でもバク転とバク宙の練習には協力している、と」


「それで自主的に辞めてくれるのなら手っ取り早いですからね。どうせいつまで経ってもできずに業を煮やして退部するでしょう」

 稲葉さんはここで切り札を出す素振りを見せた。


「私は素人だった彼らが今どの地点まで進んでいるのか、確認したいだけなんですけどね、秋山さん」

 ロングヘアを後ろでひとつに束ねている小柄な秋山コーチが、なにやら考え込んでいる。

 まあなにを考えても、僕たちはバク転とバク宙をマスターしたら体操部を辞めるだけだからな。


「浅岡くん。本当にバク転は仕込んであるのよね?」

「はい。巽くんはすぐにひとりでできるようになりました。曲がりなりにもですが。仁科くんはその後で巽くんが協力して身につけています」

「それでバク宙の練習をしているってことだけど、立った状態でただバク宙しているだけなの?」

 松本コーチがしきりに顔芸でキャプテンの口を封じようとしている。


「えっと、まず仁科くんにバク転からバク宙へつなげる練習をしようと思ったんですけど、スピードと高さがまったく出なかったので、立った状態でのバク宙を教えようとしていたところです。巽くんはピットではありますが、ロンダートから抱え込みのバク宙ができるところまでは教えてあります。これから伸身姿勢での宙返りに挑もうかと話していたところです」


 その言葉尻を松本コーチがつかんだ。

「なんだ、ひとりはすでにバク転もバク宙も成功させているんじゃないか。そいつはもう退部だ退部! もうひとりもすぐに退部だ! これでもううちとは関係ありませんからね、稲葉さん」

「私と栄は実際にこの目で確認したいんですがね」

 稲葉さんのまなじりには強い意志を感じた。


「いえ、巽くんに関してはバク転もバク宙も、本当の意味では成功してはいません。体の作りが他の人と違っていて、一般的な教え方だとどちらもものにできないんです」


「なんだ、ただの欠陥品じゃないか。そんなのにいつまでもかまっていられんな。さっさと辞めさせろ」

 松本コーチがどうしても辞めさせたがっているように映るだろうな。



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