第19話 稲葉、襲来

「稲葉さんが来ただけでこの騒ぎですか? なんか大げさすぎる気がしますが」

 僕の言葉は風のように素通りされた。

「今松本コーチが応対しているんだけど、先方があなたたちを指名しているのよ」

「指名……ですか?」

 とみさわコーチはまだ慌てている。


「そそそう、しなくんとたつみくんを出してくれれば、先方持ちで演技会を開いてもいいって」

「なんで俺たちが出なきゃいけないんだろう? なあ巽」

 なんとなく稲葉コーチの陰謀が透けて見えるのだが、そこにはあえて触れないでおこう。

「まあ、体操部のメンバーで青天体操教室と付き合いのある人がいなかったからじゃないですか? 僕たちは栄さんとも稲葉さんとも面識がありますし」

 至極平然と答えてみせた。


「でもあの稲葉コーチが指名してきたんだから、ふたりともなにか実績があるんじゃないの?」

「いえ、まったく。ただ巽がふたりのコーチの前で前転跳びとロンダートからの跳び上がりを見せたことくらいですね」

「それだけなの? たったそれだけ?」


「ええ、それだけです。あとはせんまい高校に入るとだけ言っておきましたけど」

 ひたすら平静を装った。喜んだところで誰も得をせず、かえって恨みを買うだけだからだ。


「稲葉コーチってね。この世界じゃ“めいはくらく”って言われている有名人なのよ。才能のある子を見つけ出して金メダルが獲れる選手に育て上げるプロフェショナル。それだけでふたりが見込まれたとは思えないんだけど、本当にそれ以外で思い当たる要素はまったくないのよね?」

 ちょっと困ったことになりそうだ。ここは解決に乗り出したほうがよいだろう。


「ありませんね。なんでしたら僕たちが稲葉コーチと栄コーチと話して、誤解のないよう申し伝えてもよいのですが」

「お願いできるかしら。うちは都立高だから演技会を開催するなんて無理だから、先方から提案されたら普通は二つ返事なんだけど、今回事が事だから……」

「とりあえず、校長室まで案内していただけますか? あと証人として浅岡キャプテンにも付いてきてもらいたいのですが」

 後頭部を撫でながら、浅岡キャプテンを見やる。


「それはかまわないわ。浅岡くん、あなたもちょっと顔を出してくれない?」

「わかりました。それでは皆に自主練の指示を出してきます。先に行っててください」

「それじゃあ急ぐわよ」

 今にも走り出しそうな様子を見て、ちょっと悪戯いたずら心が湧いて出た。


「富澤コーチ、校内は走らないでくださいね」

 その言葉に気づいたようで、駆け足になりそうな勢いをだいぶ和らげた。

「そうだったわね。でも急いでいかないといけないから」

「どうせ浅岡キャプテンも来ないことには話し合いにもなりませんからね。ゆっくり行きましょう」


「妙に達観しているな、巽。あのコーチ、すごい人とは聞いていたけど金メダルか。そんな人から指名されたったことは、俺たち見込まれたのかな?」

「いや、これには裏があるような気がする。そういえば今日まで体操部で女子部員を見ませんでしたけど、うちは男子生徒しか体操部に入れないとか?」

 それとなく聞いてみた。


「そういえば確かに女子部員なんて見たことなかったな。でも段違い平行棒とか平均台とか、女子競技の器具も置いてあったはずだけど」

「そうか、君たちは知らないのよね。実は女子部員は始業式の翌日から全日本合宿に参加していてね」


「あれ? たしかうちって金のない底辺部員しかいなかったんじゃないんですか? 全日本合宿に参加できるほどの人がいるとは聞いていませんでしたけど」

 同窓生の石井さんとか、青天体操教室の稲葉コーチとかからはそれとなく最低の環境だって言われていたんだけど、そんなところに来る優秀な女子選手がいたのだろうか。


「実はね、新入生に全日本選抜の子がいるのよ。女子キャプテンもなんだけど。で、合宿に無理やりうちの女子部員を全員手伝いとして付き添わせたってわけ」

「いいんですか? それって職権濫用っぽいんですけど」

「いいのよ。うちの秋山女子コーチが全日本選抜コーチも引き受けているから」


「でも、そんなすごい選手がうちにいたんですね。コーチも松本さんしか見たことなかったですし」

 軽い嫌みなのだが、富澤コーチは大人の対応でスルーした。


「松本さんは全日本四位の実力者だったのよ。でもオリンピックには出場していなくて。オールラウンダーだったから、スペシャリスト重視になった体操界ではチャンスがまわってこなかったの」

「それで屈折してしまったのかもしれませんね」

「まさかあそこまで実績重視だとは思わなかったけどな」

 松本コーチが選手としてどれほどの実績があろうと、コーチとしての実績は別物のはずだ。


「まあこっちもバク転とバク宙さえ教えてもらえたら体操とはお別れだっていうのに」

「えっ? 君たち体操部辞めちゃうの?」


「はい、松本コーチとの約束ですから。バク転とバク宙をマスターしたら退部するって」

 富澤コーチの顔が青ざめている。

「そんなことになったら演技会どころの話じゃなくなるわ……」

「松本コーチがもう先方に伝えているかもしれません」

「そうしたら演技会はお流れになりそうね。うちは参加する試合数が少ないから、貴重な経験が積めると思ったのに……」


 本校舎の二階、職員室の隣に校長室がある。

 僕たち生徒が気軽に校長と会えるわけもなく、校長室の場所など今まで知りようもなかった。なんだ、職員室の隣なのか。


「この中で皆さんがお待ちだから、粗相のないようにね」

 校長室のドアをノックして中からの声を待つ。

「はい、どうぞ。お入りください」

 富澤コーチがドアを開けた。

「仁科くんと巽くんをお連れ致しました」


 中には入学式で見た校長、青天体操教室の稲葉コーチと栄コーチ、体操部の松本コーチと見たことのない綺麗な顔立ちの女性と女子ふたりが座っていた。

 女性のほうはおそらくうちの体操部の女子コーチの秋山さんだろう。となると、この女子ふたりが全日本選抜の選手ってことになるはずだ。

「お、来たね、巽くん。仁科くんも」

「お久しぶりです、稲葉さん」


「顔を出したのならもう用はない。さっさと練習に戻りなさい」

 松本コーチは一緒にいたくないような素振りを見せている。

「まあまあ松本さん。私は彼らの近況が知りたかったんです。どうだいふたりとも。体操部に入ってみて」


「そうですね。浅岡キャプテンに教えられてバク転はふたりともある程度憶えましたし、バク宙もピットで練習していますが、じきに床で実施できると思います」

「入学したてでもうそこまで行っているのか。やっぱり君たちは才能があるな」

 稲葉コーチが感嘆した。



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