第15話 ひたむきに

「プロテインは筋肉をつけるだけじゃなくて、免疫力も高めてくれるから風邪をひきにくくなるんだよ」

「こんなにまずいのに、ですか?」

 しなは容赦がなかった。

「あんまりまずいまずいって言わないで。僕たちはこれで体を作っているんだからさ」

 体をつくるためにこんなまずいものを飲まなきゃいけないのか。


「まあこれはソイプロテインといって大豆由来のタンパク質だからね。ちょっと豆くささが出ちゃうんだ。他にもホエイプロテインといって牛乳由来のタンパク質もあるから、飲みやすいほうを選んでみたらいいんじゃないかな。ドリンクタイプだけでなくシリアルバータイプやパウチタイプのものもあるから。今度ドラッグストアにでも行ったときにチェックしてみるといいよ」

「わかりました。もう少し摂取しやすいものを探してみます」

「それがいい」


 そろそろ休憩時間も終わりかな。

「そうだ。ふたりとも今は体操部に仮入部ってことになっているけど、本当にバク転とバク宙を憶えたら退部するつもりなのかい?」


「こちらの松本コーチ、でしたっけ? その方と約束したのですからそれは守りますよ。守らなかったらなにをされるかわかりませんからね。体操が危険なスポーツだってことは僕も仁科もわきまえているつもりですので」

「それにしてもたつみくん。君は前転跳びとロンダートを誰から習ったの? あのふたつだけやけに完成度が高かったし」

「あれは八年前に買ってもらった教科書を参考にしています。あとは自力ですよ。砂場で前転跳びをマスターして、そこから土、砂利、コンクリート、アスファルトと実施場所を難しくしていって、ようやくってところです。ロンダートは前転跳びの応用ですから習得に時間はかかりませんでした」


「それを聞くとやはりもったいないね。環境が揃っていたら、きっといい体操選手になれていたと思うから」

「それはないですね。僕は誰も教えてくれないから、毎日練習してこられたんです。もしバク転とバク宙を教えてくれる人がいたら、それをマスターしたらそれで終わっていたと思いますから」


「そういえば、仁科くんて女の子にモテたいからマスターしたいって言ってたけど、巽くんはなぜマスターしたかったんだい?」

 うーん……なぜだろう。きっかけはあれなんだろうけど。

「きっかけは保育園のときに観た『しょう戦隊ウイングレンジャー』って特撮ドラマかな。主人公がバク転やバク宙をしていたのを観て、かっこいいって思ったんですよ。だから自分も同じことができたら、きっと僕は“ヒーロー”になれる、と思っていたんだと。でも……」

 浅岡キャプテンは僕の顔を窺っているようだった。


「でも、前転跳びの練習を始めてからはそんなことはまったく考えていなかったですね。ただ単に、今の自分にできないことができるようになりたい、って思っていただけですから」

「それじゃあバク転を教わった今、バク宙を会得したらできないことはなくなるのかな?」

 なにげなく天井を見つめた。

「できないことは他にもあるでしょうけど、ひとまず長年の好奇心は終わると思います。かなりの達成感が味わえるでしょうからね。だからさらに次の技へ、とは思わないかもしれません」


「もったいないなあ。もう少し欲張ってもいいんじゃないかな。松本コーチには僕から頼んであげてもいいし」

「いえ。それには及びませんよ。皆さんの演技を見て、自分には手が届かないと痛感しましたから。やはりバク転とバク宙さえマスターできれば、次への欲は湧いてこないでしょう」

 浅岡キャプテンは体操場に掲げられている時計を見た。

「おっと、もう休憩時間は終わりだね。仁科くんと巽くん、ふたりともストレッチして待っててね。ちょっとトランポリン部と話してくるから」

 その言葉に仁科は機嫌を悪くしたようだ。


「トランポリン部って、結局そっらに預けられるのかよ。俺たちはバク転とバク宙を習いたいだけなのに」

「たぶんバク宙の練習になるからだと思う」

「本当か?」

「たぶんね。今バク転を習っているけど、練習段階では補助を付けて回る疑似体験をしてイメージを持たせているだろう? バク宙では補助を付けるのが難しいからね。トランポリンなら高く跳べるだけじゃなく、宙返りするのも床よりは簡単なはず。宙返りで見える景色を疑似体験するには、トランポリンって最適なのかもしれないな」


「だとすれば、あの松本コーチがずぶの素人をトランポリン部に預けた理由って……」

「まあそこまで深くは考えていなかったんじゃないかな。本当に教えるつもりがあるのなら、今僕らがやっているように、まずバク転を教えて、それからトランポリンって流れになるはずだから」

「なんの経験もなしにいきなりトランポリンで跳ばせても、才能が開花するわけがないってことか」

「そういうこと。数少ない体操部のある公立高校ってだけで腕に覚えのある選手も集まるだろうからね。おそらくずぶの素人に用はないんだよ。あの松本コーチって」


 浅岡さんが小走りで帰ってきた。

「ふたりともお待たせ。じゃあバク転の続きをやろうか」

「明日からトランポリンも使った練習になるんですよね?」

 キャプテンはふっと笑い出した。

「やっぱり巽くんってカンがいいよね。そのとおり。宙返りの練習にトランポリンを使うんだ。筋肉のバランスもよくなるから、仁科くんも今よりスムーズにバク転ができるようになるだろうしね」

「それは期待していいんですよね? 浅岡さん」

 まあ仁科くらい運動ができればそのくらいわけないだろう。

「だいじょうぶ。たいていの人はバク転もバク宙も綺麗にできるようになるから。じゃあ仁科くんのバク転練習から再開しようか。さあ背中合わせになって」




「やっぱ、巽って運動神経が段チだな。お前はもう形は崩れていても連続でバク転ができるのに、俺は補助されてなんとか回れているだけだ」

「それでいいんじゃないかな。僕だって小学三年の頃からバク転とバク宙の練習をしてきて、それを仁科が一日でマスターされたら立つ瀬がないだろう?」

「そう言われればそうだな。お前には七年間毎日練習していた強みがあるんだもんな」


「だから僕は仁科のほうに嫉妬しているくらい。僕は七年かかって到達したのに、仁科は数日でマスターする予定なんだから」

「なんだか済まないな。お前の努力を無に帰すようで……」

「いいんだよ。僕だって誰からも教わらなかったから、正しいやり方を知らなかっただけなんだから」

「それならいいんだけど……」



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