第12話 交渉成立

 垂直板に付いたしなの手形を消したあと、僕はチョークの粉を手につけた。

 垂直板の下で構え、そして体を抱え込んでから全身のバネを活かして一気に高く跳躍した。


 バイーン!


 ド派手な音を立てて垂直板に手形が残った。

「ええっと、ここからあそこまでだから……百センチってところかしら」

「ひゃ、百センチ?!」

 体操場内のあちこちから驚嘆の声が漏れてくる。


「なるほど、全身のバネはかなりのものね。余分な肉がなくて体が軽いのと、両脚と背筋がかなり強いんじゃないかしら」

「それでも人間で百センチなんて出せるんですかね?」

「今、実際にたつみくんが出したわよね」

「巽、俺、こいつら全員を見返した気分だわ」

 やったのは僕であって仁科ではないんだけどなあ。


「それじゃあ立ち幅跳びと反復横跳びもこの調子でやってしまいましょう」

「それには及びませんよ、富澤コーチ」

 低音の効いた渋い声がしたほうへ振り返ると、高校指定ではないジャージを着た男性が近づいてきた。

「松本コーチ」

 コーチということは体操部のコーチなのかな。もしかすると男子コーチかもしれない。


「その子たちはトランポリン部預かりにしたのです。そちらで揉んでやってくださいよ」

「しかしデータもなしに練習させるわけにはいきません。記録が伸びたかどうかは、開始前にとったデータからでしか判断できませんので」

「体操部で預かるかどうかは私が判断します。あなたはただ生徒たちの基礎トレーニングだけしていればいいんです」


「なんですって! 私たちは体操部の下請けじゃありません! こんなことならこれから先いっさい生徒は預かりませんからね。仁科くん、巽くん、私はあなたたちを預からないから、体操部で練習なさい」

 松本コーチは腕を組んで首を振って拒絶した。


「こんな体操もできない半端者をうちで預かったら、他の生徒のレベルが下がるだけだ」

「生徒に優劣なんてありません! そもそも高校の部活動なのだから、どんなレベルの子にも技を教えるのはあなたがた体操部の責任じゃないんですか?」

 どうも富澤コーチの分が悪そうだ。一発逆転が狙えるとしたら。


「確かに僕たちは体操はできません。ですが前転跳びとロンダートくらいなら僕にもできます。まずはそれを見てもらえませんか? 僕は選手になりたいわけじゃないんです。バク転とバク宙を教えてもらえたら、後腐れなくただちに退部しますから」

「ふん。まあしょせん素人の技だ。どれだけヘタレたものか見せてもらおうじゃないか。それでバク転とバク宙を教えれば本当に退部してもらえるんだろうね」

「お約束します」

「ではやってみたまえ。そこのフロアで前転跳びとロンダートを」


 床のフロアを空けてもらい、そこで試技をすることになった。

 強がってはみたものの、体操経験者から見れば貧相な技だ。初歩もいいところだろう。

 でも僕にはこれしかない。これで早くバク転とバク宙の練習をさせてもらえるのなら、この試技に懸けてもよいだろう。


「じゃあまずは前転跳び、行きます」

 フロアの対角線をダッシュしてすぐに両手をフロアに突いて体を大きく前方へ跳ばした。初めてバネの効いた環境で前転跳びをしたので、目測よりも跳びすぎてしまったが、場内は静まっている。やはり貧相すぎて話にならないのだろう。


「次にロンダート、行きます」

 先ほどとは対角に立って、ダッシュからロンダートを入れてそのまま後方へ高く跳び上がった。しかしこのままだと体が中途半端にまわってしまうので、手足でバランスをとりながらなんとか回転せずに着地できた。


 場内は静まり返っている。


「巽くん、やるじゃない!」

 静けさを破る明るく高い富澤コーチの声が響き渡った。

「そういえば垂直跳び百センチなんだから、あのくらい跳べても不思議はないわね。稲葉コーチが育てたいって言った理由もわかる気がするわ」


「い、稲葉がそんなことを言ったのか?」

「ええ、入学式の日に栄コーチが見えられて、そのように話していましたけど」

「お、俺は聞いてないぞ」

「あの日、松本コーチはどこかへお出かけしていてお留守でしたからね」


 仁科と顔を見合わせてにんまりと笑みを浮かべた。

「これで、あの松本ってコーチがどう判断するか、だが──っておい、巽!」

「松本コーチ、ですよね? 僕たちはバク転とバク宙さえ身につけたら退部するつもりでいます。僕たちは確かに体操部のお荷物になるでしょう。だから、すぐにバク転とバク宙を教えて部から追い出したほうが得策だと思いませんか?」

「巽くん! それは言わないの!」

 すでに口にした以上、松本コーチが約束と判断してもかまわなかった。


「わ、わかった。本当にバク転とバク宙さえ完成したら退部してくれるんだろうな」

「お約束致します」

 僕は強い意志を込めて松本コーチを睨みつけた。

「浅岡! おい、浅岡!」

「は、はい、松本コーチ」

 浅岡キャプテンが呼ばれて全速力でやってきた。

「こいつらにバク転とバク宙をすぐ教えろ。完成したらお望みどおり退部させてやれ!」

「いいんですか? 僕には逸材に見えるんですけど……」

「こいつ以上の逸材ならうちにいくらでもいるだろう。今年入った春日や若林は間違いなくこいつより上だ!」


「ですが先ほどの垂直跳びでは春日くん八十センチ、若林くん七十五センチですが」

「演技での跳躍力は垂直跳びの数値どおりに出るはずがない。宙返りの高さはそれまでの勢いも込みで出せるんだからな」

「巽くんの先ほどのロンダートからの後方ジャンプは、体操経験者から見てもじゅうぶん高いと思いますけど……」

「結局宙返りもできないんじゃ、そういうのはまったくの無駄骨なんだよ。わかるだろ、浅岡」


「おそらくですけど、バク転とバク宙を身につけたら、とくに巽くんは大化けするかもしれません。今から退部を確約するのは尚早だと思いますけど」

「お前はコーチの私に従うのか、トランポリン部の富澤コーチに従うのか。わかっているはずだが……」

 松本コーチは鋭い視線を浅岡キャプテンに投げかけている。


「わかりました。それでは今日からふたりにバク転とバク宙を教えます」

 浅岡キャプテンは渋々承知したようだ。それを見て松本コーチは体操場を見回り始めた。


「無理を言って申し訳ありません」

「まあ乗りかかった舟だしね。いつまでも習得できないとそれだけコーチの心証が悪くなるだろうから、今からとりかかろう。まずはストレッチからだ。体が固いと練習でも大怪我をしかねないからね」



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