第11話 基礎データ
浅岡さんは僕たちのトランポリンを見ていた女性のそばに行ってこちらに連れてきた。
「
「富澤です、よろしくね」
「よろしくお願いします」
僕と仁科は声を揃えた。
「じゃあ最初は腕立て伏せと腹筋背筋、それにスクワットとダッシュをやってもらうからね。これからは富澤コーチの指示に従ってください。じゃあ富澤コーチ、あとはよろしくお願いします」
「わかりました」
そう言い終わると浅岡さんはトランポリン場を後にした。
「じゃあふたりがどこまでのことができるのか。ひととおりのデータをとらせてもらうわよ」
「データ……ですか?」
仁科が疑問に思ったようだ。
「それって青天体操教室の栄コーチからの入れ知恵ですか?」
「察しがいいわね。君が噂の巽くん、かな?」
「はい、そうですが」
「彼女から聞いているんだけど、バク転とバク宙を憶えたら退部するって本当なの?」
「そのつもりでいます」
「どうして?」
富澤コーチが好奇な目で見てくる。
「未練、のようなものですかね」
「未練?」
「はい、子供の頃に憧れたヒーローがやっていた技を自分もやってみたい。ただそれだけなんです。小学生の頃から独学でやってきましたけど、できたのは前転跳びだけ。バク転もバク宙もできませんでした」
「だから、バク転とバク宙が成功すれば、小学生の頃からの未練が断ち切れるってわけか」
「そうです」
「仁科くんも同じなのかな?」
「いえ、俺いや僕は女子にモテるだろうからバク転とバク宙をマスターしたいです」
コーチは相好を崩した。
「ハハハ、君はずいぶんと正直だね。まあそのほうが伸びしろもある。君たちがバク転とバク宙ができるようになるまでの短い付き合いになるのかな。巽くんはそうしたら栄のところへ行くつもり?」
「いえ、体操とは縁を切るつもりです。長年の目標が達成されたら、次に何をすればいいのか、まだ決めていないので。ただ、競技としての体操には向いていないと思いますので、体操から離れてみようかと。それと就学するためにもアルバイトを始めないといけませんので」
富澤コーチはさも残念そうな顔をしている。
「栄は君の才能を高く評価していたんだけど、違ったのかな? 入学式の日に会いに来たときは、稲葉コーチが指導したがっているって聞いたけど」
「きっと笑いものにしたかっただけでしょうね。僕なんかじゃ誰の夢も叶えられませんから」
「稲葉コーチって体操界では結構有名な人でね。見込んだ選手は世界大会まで連れていくくらいの
眼鏡をかけて頼りがいのありそうな顔を思い浮かべた。あれが世界を知る人っていうわけか。
「君はさっき仁科くんがトランポリンを跳ぶときにアドバイスしたわよね。あれ、高く跳ぶためのコツなのよ。まったく跳んだことのない人ができるアドバイスじゃないの。しかもあなたはそれを確実に実施してみせた。だからきっとあなたの眼力にも一目置いているんだと思うわ」
「眼力、ですか」
「そう。体操選手の中でも、他人が実施した技を練習もなしで演技できる子が稀にいるのよ。見ただけでコツとか視界とかが見抜けるの。巽くんもおそらくその眼力を持っているわね」
仁科が不思議そうな顔をしている。
「それじゃあなぜ巽が体操場行きにならなかったんですか? 見ればわかるのであれば、そばで見られる環境に置いたほうが、早くバク転やバク宙もできるようになると思うのですが」
「そこよね。説明しなければいけないのは」
コーチの顔がやや険しくなった。
「おそらくだけど、稲葉コーチは君に体操を辞めてもらいたくないんだと思うわ」
「辞めさせないためにバク転やバク宙を生で見せたくない、と?」
思ったことを口にした。
「そういうこと。まずトランポリンで体を動かす楽しさを味わわせて、体操を好きになってもらってからバク転やバク宙を練習させたいのでしょうね。そうすれば、習得したあとも競技には残るだろうから」
「それって巽のことをまったく考えていない、大人の都合ですよね。僕はまったく納得できないのですが」
仁科の言いたいこともわかる。
僕はバク転とバク宙を習うために入部したのだから、さっさとそれを教えて、身につけさせたら退部させたほうが手間がかからなくてよいのではないか。
「まあ仁科くんの言うとおりだと私も思うわ。稲葉コーチの考えだってかなりの横暴だろうってことも理解できるし」
「まったく関係ないことをこれからさせられるわけですか。僕の目的はバク転とバク宙を実施できるようになることです。それができたらすぐに辞めたいんですけど。うちは母子家庭で余計な時間をかけて部費を払い続けるなんてできませんので。体操部だってタダじゃないんですから」
「そのへんの事情も栄から聞いているわ。だからうちじゃなくて体操教室で習ったほうが手っ取り早いとは思うんだけど……。最近は基礎練習させてケガを最小限にしてから習わせようって方針のところが多いからね」
ちょっと賭けてみるか、と富澤コーチがつぶやいた。
「じゃあ私が巽くんの技量を測りたいから、ということで今から体操場を使わせてもらいましょう。そこであなたのできることを見せてもらいます。それで体操部がどう出るかだけど。やらないよりは可能性はあると思うわ。どう、乗ってみない?」
もちろん望むところだった。
「お願いします」
富澤コーチはさっそくトランポリン部に自主練習を指示して、僕たちを体操場へ連れていった。
「あれ? 富澤コーチ、ふたりはトランポリン部預かりのはずですが」
浅岡キャプテンが慌ててやってきた。
「この子たちの基礎データをとりたいのよ。うちはトランポリンが敷き詰められていて垂直跳びとか立ち幅跳びとか測れないでしょう?」
「確かにそうですね。去年は未経験者がいなかったから気づきませんでした」
「じゃあまずは垂直跳びをやりたいんだけど、今使える?」
「はい、あそこに垂直板がありますので、そこを使ってください」
「ありがとう。じゃあまず仁科くん、やってみようか」
なぜか仁科は右肩をまわしている。
「あいつらに俺の本気を見せつけてやる」
肩を回しても跳躍力にはなんの影響も出ないのだが……。
垂直板の真下まできたら、チョークの粉を手につけた仁科が大きな掛け声とともにジャンプした。垂直板についたチョークの跡を測ると七十センチだった。
「七十センチか。高校生なら一般的な高さかな。じゃあ次、巽くんね」
「はい」
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