第8話 青天体育教室【第一章終わり】
受験校を決める時期になったが、僕と
石井さんは「都立
妙に買われている気もするのだが、僕はせいぜいバク転とバク宙さえできればいいと思っての選択だ。
大会に出るほどの才能はないし、それにかまけているお金もない。
仁科も「女子にモテたいからバク転とバク宙を教わりたい」らしい。
石井さんは有名私立を受験するようで、仁科はそちらの情報も集めていた。どうやら体操教室の近くにあるらしい。
「それじゃあふたりを連れていきたいところがあるから、受験勉強の息抜きに行ってみない?」
石井さんが頼んでくるのは初めてだ。仁科はすぐにOKを出した。
僕は「じゃあ仁科とふたりで行ってきてよ」と言ったのだが、どうしても僕を連れていきたいらしい。
そうして連れてこられたのが石井さんが通っている「青天体育教室」だった。
電車を二回乗り継いでやっとたどり着いたのだが、彼女は毎日こんなに大変な思いをしてまで体操に打ち込んでいたのか。
それを考えると、学校で不機嫌になってしまう理由がわからないでもなかった。好きなことに打ち込めないと欲求不満になるのは、どうやら僕だけではなかったようだ。
中に入ると、重量挙げのバーベルが置かれ、綱登りの綱が吊るされ、なにに使うかわからない器具まで置いてある。
そこを抜けてさらに奥へ入っていくと、小学生のときからテレビで見ていた床や鉄棒、跳馬などが置かれていた。ここが体操教室なのか。
僕よりも数段ガタイのよい子どもが何人も思い思いに練習をしているようだ。石井さんはコーチらしき大人の女性と話をしに行った。
仁科とともに入り口そばで突っ立っていたら、後ろから小柄だが体格のよい男子が入ってきて「邪魔だ」と言われてしまった。
確かに場違いだよなあ。
「あ、
女性から声をかけられた潮くんとやらがそちらへ歩いていってなにやら話し込んでいる。そしてこちらを振り返った。
「俺、嫌っすよ、そんなの」
「潮くんお願いよ。実際にバク転やバク宙を見せたらなにか変わるかもしれないから」
「それなら石井に頼めばいいじゃないですか。こいつの連れなんでしょう? 俺、今日はウエイトからやりますので」
きっぱり言い捨てると、潮くんとやらは僕らを素通りしてバーベルのところまで歩き去った。
コーチと思しき女性がこちらまでやってきた。
「お邪魔します。本日は貴重なものをお見せいただけるようなので、よろしくお願い致します」
「よろしく。女子コーチの
仁科は美人に弱いから、すっかりやる気になっているようだ。
「さっそくで悪いんだけど、
「僕はまったくの素人なので、皆さんにお見せできるような技なんてありませんけど」
「まずはあなたの前転跳びを見せてくれないかしら。久美が加工していないとも限らないし」
「私は加工なんてしませんよ、コーチ」
石井さんが栄コーチの後ろに立っていた。
「あなたは早く練習着に着替えてらっしゃい。受験優先だったから体も
はいと応えると彼女はさらに奥の更衣室と思われる部屋へと入っていった。
「で、前転跳びは見せてもらえるのよね?」
ここまで来て「嫌です」とは言えないよなあ。石井さんも先に話しておいてくれればよかったのに。
「わかりました。ここでやればいいんですかね?」
僕たちは跳馬の助走路に立っていた。ここくらい下が硬ければ失敗はしないだろう。
「いえ、床の演技なんだから当然そこのフロアで行なってちょうだい」
「でも、競技用のフロアってバネが入っていますよね? 僕、バネ付きの床は未経験なのでかえって危ないと思います。ですからここでかまいませんか?」
「わかったわ。それじゃあストレッチとウォーミングアップが済んだらすぐにお願いしようかしら」
「いえ、すぐできますので」
と言うや否や、僕は仁科の足元にバッグを置いてすぐに助走を始めた。
そして素早く両手を地面に付けて前転跳びをして着地する。
それまでのざわめきは消え去り、室内は静寂に包まれた。
やはり本職に見せるのは恥の上塗りをしただけだったな。
「やはりお見せするようなものじゃなかったですね。今日はこれで失礼致します。仁科、あとは頼んだ」
振り向いて仁科の足元に置いていたバッグを拾い上げると、逃げるように立ち去ろうとした。
すると入り口から男性が入ってきた。
「次はロンダートからのジャンプを見せてくれないかな、巽くん?」
「でも、皆様にお見せできるような代物ではありませんし」
「俺が見たいと言っているんだ。他人は関係ない。次はフロアでやってもらおうか。俺が補助をしてやるよ。潮もこっちに来い」
これはやるしかないのか。
「また白けても知りませんよ」
そう言うと、僕は床を蹴ってダッシュし、ロンダートから後方へ高くジャンプした。
「お前、本当に誰からも教わっていないのか?」
潮くんから問われ、バッグの中から一冊の教科書を手渡した。
「それを読んだくらいです」
彼は数ページ読んですぐに放り投げた。
「こんなんでできるはずがないだろうが!」
「おそらくこれがこの子の才能なんだろう。久美の目は正しかったわけだ。なにより空中感覚が抜群だな。あれだけ後方に高く跳び上がっておいて、宙返りもせずに手足でバランスをとってそのまま着地するなんて芸当は、並のやつには絶対できない。お前にだってできやしないだろうな」
「そのくらいできますよ」
「やめとけ。もし失敗でもしたら来週の試合に差し障るだろうが」
男子コーチは僕を見つめている。
「巽くん、本当に先枚高校なんかに行くのか? うちに入ればみっちり鍛えてやれるんだが」
僕は首を横に振った。
「ここへ通うだけのお金がありません。貧乏人はお金のかからない公立校で宙返りをマスターして満足するのがお似合いですよ」
身のほどくらいはわきまえているつもりだ。
僕はあの日見たようにバク転やバク宙をし、「ヒーロー」を体験したいだけなんだから。
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