第6話 石井久美

 放課後、今日は雨が降っていたが、かまわず校庭の砂場で高く跳び上がる練習を繰り返している。


 しなは帰ったはずだが、傘を差して僕に近づいてくる人がいた。

 雨で砂が張り付いたジャージ姿を見られるのはあまり好きではない。

 それがわかってるから仁科は雨の日はさっさと帰っているのだ。


 僕に近づいてきた声をかけてきたのは、意外にも女性だった。

「あなた、こんな雨の日にもなにかやっているの?」

 僕は練習に集中するため、その言葉を無視した。今は一本でも多く挑んで、より高く跳べるようにしなければならない。


「私の声が聞こえていないの?」

 ちょっと苛立ちが感じられる声色にその女性をいちべつしたら、仁科の想い人である石井久美さんだった。


「聞こえていますけど、あなたには関係のないことなんで」

 またスタート地点に駆け戻って、砂場に向かってロンダートから後方へ高く跳び上がる。

 しかし空中でバランスをとってなんとか体勢を整えて両足で砂場に着地する。


 もう一度チラッと横目で見ると、石井さんは不服そうに口をへの字に曲げていた。

「あなた、二回宙返りでもするつもりなの?」


 僕のやっていることが体操に関係していると気づかれたのは今回が初めてだった。


「ただのバク宙の練習ですよ」

「これがただのバク宙ですって? ロンダートまで入れて本格的に跳ぼうとしているのに?」


 呆れたような声にちょっと不愉快になりながらも、僕はそれ以上答えずまたスタート地点に戻っていく。


「なぜロンダートからそのままバク宙の練習をしているのかしら? それでは勢いがつかないわよ?」

 さすがにカチンと来た。

 僕は自分のやり方で練習をしているのだ。それを傍から批判されると反発せずにおれない。


「バク転ができないんで、バク宙を先に習得しようと思っているだけですよ」


 石井さんは首を傾げている。かまわず次のジャンプに取りかかる。

 空中で手足をばたつかせて両足で砂場に降り立つ僕の姿を見て、なにやら言いたげだ。

「なにか言いたいことがあるなら言ってください。僕も練習を見つめられるのはあまり面白くないので。見世物でやっているわけでもありませんし」


 彼女は首を左右に振った。

「あなた、やろうとしていることと実際やっていることが噛み合っていないわよ」

 その言葉にきょとんとしてしまった。

「噛み合っていない?」


「二回宙返りの練習をするならロンダートの後にバク転をつなげないとスピードが出ないのはわかるわよね?」

「いえ、バク転ができないので先にバク宙を憶えようと思っているんだけど」

「バク転ができない? これだけの高さが出ているのに?」


 ようやく僕は気づいた。

「詳しいようだけど、もしかして体操をやったことがあるの?」

「三歳からやっているわよ。だからあなたがなにをしようとしているのか、興味を持ったわけ」

 石井さんは経験者だったのか。

 今は選手として大会にでも出場しているのだろうか?


「できないっていうバク転を見せてもらえないかしら?」

 後頭部を撫でてから、僕は軽く首を横に振った。

「失敗するとわかっているものを人には見せられないよ。笑われるだけだからね」


「他人からの嘲笑を気にするタイプには見えないんだけど」

「幼馴染みの仁科だったら、失敗を数多く見られているから別にかまわないんだけど」

「仁科? ああ、いつもたつみくんのそばで見ている人か」


 この感じだと、仁科は石井さんに名前と顔を憶えてもらえていないようだけど。

 仁科ももう少し存在をアピールしたほうがいいんじゃないかな。


「で、失敗するというバク転を見せてくれないかっていうお願いは聞いてもらえるのかしら?」


 妙に絡んでくるな。

 なにか言いたげなんだけど、それを無理やり抑えて平静を装っているような印象を受ける。目を合わせても視線を外さない。

 これはなにか信念のような強い意志を持っているようだ。

 バク転を見せないことには僕のそばから離れてくれそうにない。


「わかりました。じゃあ一回だけということで。どうせ失敗しますから、笑わないでくださいね」

 石井さんはスマートフォンを構えている。どうやら写真か動画を撮りたいらしい。


「失敗するのがわかっているので写真はやめてもらえますか? あとで思い出して笑いたいんでしょうけど」

「別に笑いたいから撮りたいわけじゃないんだけど」

「それ以外で撮影しようとする魂胆がわかりませんが?」

 彼女を無視し、砂場の縁に立って後ろを向いた。

 呼吸を整え、意を決して体を後ろに倒した。両手を振り上げて地面に突き立てようとするもののそこに砂はなく、僕はそのまま回転して頭と両手両足を同時に着地した。


「今できるのはこれが精いっぱいですよ。けっこう笑えるでしょう? さあお見せしましたから帰っていただけると助かるんですけど」

 彼女は口元に右手を添えてなにやら考え込んでいる。


「巽くん、あなた本格的に体操を習う気ないかしら?」

「体操を習うですか。近場にそういうところがあったら参加してもいいですけど、タダで教えてくれる物好きはそういないでしょうからね」

「タダで? 体操教室は慈善事業じゃないんだから月謝を払うのが当たり前じゃない」


 大げさに首を左右に振ってみせた。

「うちは母子家庭なんで、習い事にお金はかけられないんですよ。それに近場に体操教室はなかったと思いますけど」

「電車を乗り継いで通えるところならあるわよ」

「それもダメですね。交通費にはさらにお金はかけられませんので」


「大会に出るつもりがないのに、バク転やバク宙を身につけたいの? しかもロンダートまで習得して」

 その問いかけを無視してスタート地点についた。


「とりあえず前転跳びなら確実に跳べるので、それでも見てあとはうちででもひとりで笑っていてください」

 彼女がスマートフォンを構えようとしたが、お構いなしにダッシュした。

 そして両手を地面に突いて大きく体を跳ばして両足で着地した。


 成功した姿を見て呆気にとられているようだった。

「まあ素人でも丸一年挑み続けたら成功するものですからね。バク宙やバク転だってこのまま練習していればいつかは──」

「無理ね」


 すかさず冷静な言葉が返ってきた。


「確かにこれだけの前転跳びをひとりでマスターしたのはたいしたものだけど、バク転やバク宙は見よう見まねで習得できるものじゃないのよ」



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