第2話 前転跳び

 前転跳び。

 通称「とんぼ返り」「ハンドスプリング」は、立った姿勢から上体を一気に下ろして両手で体を支えてそのまま体を前に回転させて両足で着地する技である。


 しかし小学二年生ではまだ頭が全身に占める割合も高く、両腕の筋力も足りないので、何度挑戦しても回転しきれず、脳天や後頭部から砂場に突っ込む日々を繰り返した。

 そこでダッシュして勢いをつけて回りきろうと考えたが、やはり頭から落ちるしかなかった。両手を砂場に突き出すところを目視で確認し、そこから顎を引いて校舎が逆さまに見える。そのままお腹のところから上へと空が上がっていき、そこで砂場に頭から落下する。


 さすが中級、難しいなと納得したが、これを越えなくてはバク転やバク宙にもたどり着けない。日が暮れるまで、何度でも挑戦しては頭から落ちた。いくら失敗しても意欲は衰えなかった。


こうちゃん、やっぱりひとりじゃむりだよ」

 勇くんの言葉だったが、本当にひとりじゃ無理なのか。

「いや、なんかコツがつかめそうだからもう少しやらせてよ」


 それから毎日、太陽が沈むまで砂場で何度でも試してみた。

 しかしいっこうに成功することはなかった。

 それでも頭部から落下するとわかっていても、何度でも繰り返し挑戦する。

 たとえ成功に遠かったとしても、あきらめることなんてできなかった。


 ぼくもヒーローになるんだ。次のレッドウイングになるのはぼくなんだ。

 その意志だけで雨が降ろうが雪が降ろうが、お構いなしに挑み続けた。

 ときにずぶ濡れの泥まみれになっても、雪で足や手を滑らせても、どんなに状況が悪かろうが何度でも試せたのである。




 そうして一年以上過ぎて小学三年生になった頃、初めて頭から落ちることなく、両足から着地することができた。

 高校生の今思い返せば、一年間で成長して体が大きくなり、頭の重さとのバランスがとれてきたからなのだろう。

 しかし一年以上同じことを失敗し続けてきて、初めて成功したときはこれ以上ないほどの達成感を味わえた。


「できなかったことができるようになった」


 たったそれだけのことだ。

 しかし日夜挑戦していたことが実を結んでの達成感は、これまで生きてきた中でも随一だ。なにものにも代えがたい幸福感に満ちた瞬間だった。


 よほど気持ちがよかったのだろう。その日は夜になる前まで何度でも挑戦して、成功率を少しでも上げようと努力したのだ。

 翌日学校に行って勇くんの前で不完全ながらも前転跳びを披露した。

 すると勇くんは「すげえすげえ」と跳んで喜んだ。


「孝ちゃん、もうヒーローじゃん!」


 そのさまを見て、ぼくは勇くんの前で何度も挑戦して、ときに成功しときに失敗して、ともに笑いあった。




 不完全ではあっても、いちおうの成功を見た前転跳びだが、その波及効果は凄まじかった。

 跳び箱は六段でも難なく飛び越えられたし、閉脚前転、開脚前転、後転倒立も苦労することなくすんなりと実施できたのだ。走り高跳びも120センチを軽々とクリアできた。

 たったひとつ、前転跳びができるようになっただけなのに、やれることが山のように増えたのである。

 その事実を体験したことで、自分がレッドウイングのような「ヒーロー」になったような錯覚を覚えたほどだ。


 そして小学校の体育の時間、ぼくは実際にクラスのヒーローになっていた。

 身のこなしが素早くなって、ドッジボールでは最後まで残るようになり、サッカーではゴールキーパーになって敵のシュートをことごとく防げるようなったのだ。

 体育といえば「タツミ」というくらい、小学校では有名な存在となっていた。

 当然体育の成績は満点だったし、皆を引っ張っていくリーダーとして期待された。


 ある程度前転跳びの成功率が高くなってきたら、砂場から土の上へ練習場所を変えてさらに成功率を高める努力をする。

 当然頭から落ちたらこぶ程度では済まないだろうが、挑戦する意欲が湧くくらい成功率に自信を持っていたのだろう。

 前転跳びはその後、土から砂利、コンクリート、アスファルトとどんどんハードルを上げていき、より危険な状況でも確実に成功させられるだけの安定した成績が出せるようになった。




 前転跳びができたら次は後転跳びつまり「バク転」である。


 しかし後ろに回ることは前に回るよりも恐怖感が強かった。

 地面が見えない状態で後ろへ跳ばなければならないため、今自分の体がどうなっているのかを把握するのが難しいのだ。

 さらに「地面が見えない」というのは頭から突っ込む危険性が増すことを意味する。

 回転力が不足して頭から落ちることが多かったが、不完全な状態で跳ばざるをえなくて地面が見えることなく脳天から砂場に落下する毎日だった。

 それでも「前転跳びを自力でマスターできたのだからいつかはできるはず」とポジティブ思考で挑み続けた。

 しかし気になるのはやはり「回転不足」だった。

 前転跳びはダッシュからつなげることで回転不足を解消していた。しかし後転跳びではダッシュで勢いを付加するのは不可能である。

 人間誰しも前に走るスピードより後ろに走るほうが遅いからである。

 しかもまっすぐ後ろに走れる人なんてまずいない。よほど訓練を受けた人でなければ真後ろへまっすぐ走るなんて不可能だ。


 勇くんはこのさまを見ていた。

「バク転はやっぱりひとりじゃ無理なんだよ。誰かに教えてもらわないと」

 少し首をひねったが、確かにそのとおりなのかもしれない。

「とりあえず、勢いをつけて跳ばないと回転が足りなくて頭から落ちるしかないみたい」

「じゃあ勢いをつけられれば成功するの?」

「うーん……。まあ勢いがないよりは成功率は高いだろうけど、失敗したときのダメージは今以上になるからなあ」


 そのとおりなのである。

 勢いをつけられれば回転速度は間違いなく上がる。しかし失敗したとき、つけた勢いのぶんだけダメージも増えるのだ。

「今できそうなのは、ジャンプ力の強化かなって思ってる」

「ジャンプ力ってことは高さを出そうってこと?」

「うん。低くて脳天から落ちているみたいだから、もっと高く跳べたらなんとか頭から落ちるのは回避できるかも」


 でも小学生にジャンプ力の鍛え方なんてわかるはずもない。

 その場で考えたことは「ダッシュ力を鍛える」ことだった。


 そもそも前転跳びが成功できたのも前方へのダッシュをプラスしてからだった。

 バク転で同じことができるとは思わないが、「跳ぶ」ということだけをシンプルに考えるなら高く跳べたほうが可能性も高いだろう。


「毎日ダッシュで通学してみるよ。あと勇くんと遊ぶときも自転車じゃなくてダッシュでついていくから」


 だが、それでバク転ができるようになるのであれば苦労はしないのだ。



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