第45話 『断ち月』へようこそ
パラパラと紙を捲る規則的な音が聞こえる。
瞼の向かいに感じる明るい光に促されるようにして、リリエリはゆっくりと目を開いた。
白い天井、揺れるカーテン。
頬を緩やかに撫でる風を、室内を明るく照らす陽光を、なんだかとても懐かしく思った。
「……こ、こは」
言いながら上体を起こそうとしたが、全身が鉛のように重い。声もか細く掠れていて、風の音にだって負けてしまいそうであったが、幸いリリエリの隣に座る人物にはきちんと届いたようであった。
パタリと厚みのある本を閉じる音がした。
「……おはよう。リリエリ」
柔らかな声が聞こえる。首を僅かに傾けると、そこにはリリエリの親友が、今にも泣きだしそうな笑顔を湛えて座っていた。
「無事に帰ってきてくれて、本当に良かった」
「……マ、ド」
「ああ、待って、喋らなくても大丈夫。リリエリはこの四日間ずっと眠ってたんだ。回復魔法はかけてもらっているけど、それでも無理はしないほうがいい。ほら、ワイバーンだって生まれたばかりは上手く炎を吐けないものだし」
例えが下手だな、とリリエリは思った。ああ、彼女は確かにマドだ。間違いない。
帰ってこれたんだ。"エリダの枢石窟"から。
「ずっと心配してたんだ。……帰ってきてくれて、ありがとう」
マドはさり気なく自分の目元を拭った。リリエリはそれに気がついていたけれど、何も見ていないふりをした。
あれから、何があったのだろう。
覚えているのは、ヨシュアが亀龍――枢石喰らいの首を落とした、その瞬間まで。
聞きたいことはたくさんあった。それなのに、うまく言葉にできなくてもどかしい。困り果ててマドを眺めていると、マドは了解したように頷いた。
「オーケー、説明するね。
リリエリは三日前にエリダ村の転移結晶に現れて、そのまま意識を失ったんだ。怪我はすぐに魔法で治してもらったけれど、目を覚まさなくて、今までずっとここで寝ていた」
ここはエリダ村の病院だよ。そう言って、マドはさっと立ち上がった。
「待ってて、すぐにお医者様を呼んでくるから。リリエリが目を覚ましたって報告しなきゃ」
「ま、って、ください」
「どうしたのリリエリ。ゆっくりでいい、焦らないで」
廊下へと繋がるドアに手をかけたまま、マドはリリエリに顔を向けた。
長く眠っていたせいか、思うように声が出せない。それでもこれだけは聞かないといけない、今すぐに。
「ヨシュア、さんは」
その言葉に、マドは驚いたように目を開き、……すぐに表情を緩めた。
「心配いらないよ」
そうして、いたずらっぽい笑顔でリリエリの眠るベッドを……いや、そのやや下方を指さして。今度こそ彼女はこの部屋を出ていった。……下?
好奇心に負け、リリエリは怠い体を必死に持ち上げる。それはすぐに視界に入った。
ベッドの横の床、薄っぺらいリネンの生地を適当に巻き付けたでかい塊。陽光から逃げるように窓に背を向けて転がる男の姿。
残念ながら、見間違いようもない体躯であった。
何をやってるんでしょうね、この人。
笑ったつもりだったが、あいにく喉からはなんの音も出なかった。寝ているこの男を起こさなくて済んだのだから、良しとしてもいいだろう。
相変わらずヨシュア=デスサイズは滅茶苦茶で適当な人間だと、リリエリは思った。
■ □ ■
医師が来て軽い問診を済ませても、日が落ちてマドが帰り支度を始めても、ヨシュアは床で眠り続けた。
「どうも彼、ちょうど昨日の夜中にやってきたみたいで」
ここに着くなり、疲れたから休ませてくれって床に倒れ込んでそのままらしいよ。とはマドの言である。
彼の体を包んでいる白いリネンはどうもベッドカバーを流用したものだそうで、病院側の配慮とのことである。優しいと手放しで言うには微妙なラインだ。いや、病室の床で寝る暴挙を許している時点で相当優しい対応と言えるか。
見たところ怪我の一つもなく。あれだけのことがあったのに疲れた、の一言で済むのは流石のヨシュア=デスサイズである。
一方のリリエリはというと。病院のベッドに施された治癒の魔術紋章によって目に見える怪我そそ完治しているものの、一度魔力がほとんど空になった影響で意識がなかなか回復しなかったそうだ。
目を覚ました今も身体中怠いし、普段紋章魔術でサポートしている右足に至っては感覚すら存在しない。
だが、生きている。ヨシュアも、自分も。
その事実だけで十分だ。
「明日一日だけ様子を見て、大丈夫そうならもう帰れるって。大事がなくて本当によかったよ」
「ずっと見守っててくれたんですよね。ありがとう、マド。……ただいま」
リリエリは笑顔で両腕を広げた。マドは一瞬躊躇する素振りを見せたが、……ややあってリリエリのことを、強い力でぎゅっと抱きしめた。
「……おかえり。帰ってきてくれて、本当に嬉しい」
マドの体温がリリエリの体に伝わる。その温かさで、ああ、今日も無事に生きて帰ってこれたと実感するのだ。
「……さて、僕はもう帰らなきゃ。君たちも無事に戻ってこれたわけだし、ここからは僕の戦いだからね」
「戦い?」
「たった二人のギルド『断ち月』の結成を交渉してくるのさ。実は僕、そこに転がってるギルドマスターから委任状を預かっててね」
そこに、と差されたギルドマスターは、我関せずとでも言いたげに控えめに寝返りを打った。
ギルド? 委任?
さて何の話だったっけとリリエリは右斜め上の空間を眺め、……思い出した。
"エリダの枢石窟"の踏破はあくまで手段。目的はギルド『断ち月』の達成。そのためのリリエリS級冒険者計画。
……S級?
「…………そういえば、あの、依頼ってどうなったんですか?」
「その辺りはヨシュア=デスサイズが起きたら確認するのが一番だろうけど。
……"エリダの枢石窟"の転移結晶は、エリダ村と繋がっているそうだよ。無事依頼は達成だね」
「…………えっ。じゃあ、私S級冒険者なんですか? 私が?」
「大丈夫大丈夫。リリエリは巨大ゴーストシップ艦隊に乗った気でいてよ! 後のことは僕に任せて。リリエリの頑張りは、けして無駄にはしない。そこのギルドマスターにもよろしく言っといてね!」
激励するみたいにリリエリの背中を数回叩き、最後にぎゅっともう一度強く抱きしめてから、マドは笑顔で病室を出ていった。春に吹く強い突風に似た、素早い動きであった。
いつになく賑やかなマドが病室から立ち去ると、残った静けさが急速に病室内に充満した。夜の病室で一人きり。……と、床で寝ている男。正確には、床で寝たふりをしている男。
「……ヨシュアさん。起きてませんか」
「…………」
「ヨシュアさんは寝ている時、本当に微動だにしないんですよ。"エリダの枢石窟"での見張り番で知りました」
「……すまない。なんというか、会話に入りにくくて」
リリエリに背を向けて転がっていた男が、のっそりと億劫げに体を起こす。振り向いた瞳は相変わらず深い沼みたいに暗い色をしているが、リリエリはもう、それこそがヨシュアなのだと知っている。
「その、リリエリ。……アンタが無事でよかった」
「……全部、ヨシュアさんのおかげですよ」
「転移結晶は、一応無事に設置できた。昨日辺りに一次調査隊が入っているらしい。目的の枢石も見つけた。枢石喰らいももういない」
……オレ達は、依頼を達成したんだ。
静かで起伏のない声だった。
それでも、ヨシュアの気持ちの一部は、リリエリには透けて見えるようだった。
彼は喜んでいる。そんな気配が、空気を介しリリエリにも伝搬していく。
「じゃあ、本当に私、S級冒険者になったんですか?」
「正式な審査はまだ通ってないはずだ。だが、アンタの親友に任せている。きっと問題ない」
「私は、これからも冒険者でいられる、ってことですか?」
「そうだ。また一緒に冒険できるな」
だから、まぁ、その、うん。
ヨシュアはどうにも歯切れの悪そうに意味のない言葉をいくつか呟いた。
「こういうことはきちんとやっておけと、そうレダが言っていたんだ。でも、……真面目なことを言うのは、緊張する。なぁ、アンタ、笑わないでいてくれるか」
「それは、……努力しましょう」
「うん。ありがとう」
じゃあ、改めて。
ヨシュアは幾分しゃきっと背筋を伸ばして、リリエリの寝ているベッドの横に立った。リリエリもまた、姿勢を正したヨシュアにつられてベッドの上で正座になった。
リリエリの名前とともに、ヨシュアがその手のひらを差し出す。
戦う人間の手だ。ごつごつしていて、傷や豆があって、握った武器によって硬くなった手のひら。
リリエリの手とは違う。リリエリの手は、戦う人間のそれではない。
それでも、ヨシュアの手と自分の手は、どちらも同じように硬いのだ。
ヨシュアの大きな手のひらに、リリエリの小さな手が重なる。ヨシュアの隣に立っていて良いのだと、今のリリエリは心からそう思えた。
「ギルド『断ち月』へようこそ」
第一章 完
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ここまでお読みいただき、本当にありがとうございました。
ひとまず本作は完結の形を取りますが、引き続き第二章の執筆も予定しております。その折にはまたお読みいただけると大変嬉しいです。
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新設ギルド『断ち月』へようこそ とととき @tototoki
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