第44話 "断ち月"
「私がここを、破壊します」
冗談を言っている風ではなかった。ましてや自棄になったわけでもなさそうだった。至って真剣な眼差しと、ぎゅっと強く握りしめた拳。
ヨシュアは直感した。行路も帰路も閉ざすこの岩を、人の数倍はあろう大きさの一枚岩を壊してのけると、リリエリは本気でそう言っているのだ。
「この紋章魔術を起動することで、私は父の力を模倣することができます。……拳聖と呼ばれた、父の形見です」
この程度の岩なら吹き飛ばせるはずです。
言いながら、リリエリは自身の腕に掘られた紋章に目をやった。思い出を懐かしむような、あるいは思い出したくない過去を眺めるような眼差しであった。
リリエリは折に触れては自分には魔物を倒す力がないと語っていた。事実ここまでの道のりで、彼女が積極的に魔物と戦う様子は一切見ていない。枢石喰らいのような巨大な魔物の痕跡を見ては恐怖を感じているような、臆病で慎重な冒険者。
ヨシュアから見たリリエリも、リリエリの言葉が形作る彼女自身も、同じ冒険者像を描いていた、はずだ。
リリエリの父の力を、ヨシュアは知らない。だが、拳聖とまで言われた男の力を模倣するというのであれば、ある程度の想像はつく。
――なぜ彼女は、ここに至るまでその力をひた隠していた?
……ヨシュアは、自分の頭によぎった考えを、すぐに捨て去った。自分らしくもない考えだ。隠していたかったから。理由なんて、それで十分だろう。
「なんで今まで言わなかった、って、思いますか?」
「思わない。アンタが言いたくなかったんなら、別にそれでいい」
「あはは、ヨシュアさんらしい」
リリエリは小さく笑った。無理に笑ったみたいな、下手くそな笑顔だった。
「私、お父さんじゃないんです」
「……それは、そうだろう」
「お父さんから貰った立派な力があるのに、私自身は凡人だから。期待ばかりが大きくて、そのくせ何も出来なかった。……この紋章、魔力をほとんど全て注ぎ込まないと、起動すらしないんです」
「魔力を全て……? 待て、それじゃあ、アンタは」
細い指が、腕に刻まれた黒い線をゆっくりと辿る。
リリエリには魔法の才能も武術の才能もない。持てる全力を注ぎ込んで、ようやく父の一振りを成す。
文字通り、全ての魔力だ。ここに例外はない。例えそれが、リリエリの足を動かすための生命線だとしても。
「これを使ったら、私は歩くこともできなくなる。ざっと見積もって三日くらいは、文字通り足手まといですね。魔物だらけの壁外で、深い洞窟のど真ん中で、動けなくなるんです。
……ねぇ、でも、それでもいいって思いませんか」
リリエリは自らの紋章魔術に落としていた視線を上げた。
魔本の炎が、リリエリの瞳に映り込む。穏やかだが何よりも明るく輝く、一筋の光だ。
リリエリは臆病で慎重な冒険者だった。それでも彼女はいつだって、自分にできることをただひたすらに続けてきた。
「……今から、洞窟の入口に繋がる道をこじ開けます」
リリエリは彼らが進んできた側を閉ざす岩塊に触れた。行く道も帰る道も断たれている。壊せるのはどちらか一方の道だけ。もはや選ぶまでもないと、リリエリは言外に主張していた。
「道が開けたら、すぐにこの場所から離れて、外に向かって真っ直ぐに逃げてください。……枢石喰らいが活動している今、道中で転移結晶を設置する時間は恐らく、ない」
「だが、そうなるとアンタは、」
ヨシュアは言葉を切った。
動くことが出来ないアンタはどうなる。そう続けようとして、やめた。皆まで問う必要なんて、最初からなかった。
リリエリはヨシュアに、そう言っているのだ。
「約束、しましたもんね。私の足が動かなくなったら運んでくれるって」
「ああ、覚えてる。確かにそう約束した」
「信じてますからね、ギルドマスター」
それでは、とリリエリは開いたままの魔本をそっと地面に置いた。ヨシュアが運びやすいように、リュックもマチェットもロックピックも、持ち込んだ荷物を全て手放して。
そうして岩塊を破壊するべく、紋章魔術で彩られた拳を構え、……られなかった。
ヨシュアの大きい手のひらが、リリエリの手首を掴むようにして止めている。
「…………あの、これは一体」
「なぁ、リリエリ。アンタ、オレを信じてくれるんだろう」
「もちろん、そのつもりです」
「だったら、」
ヨシュアはリリエリの手首から手を離した。そうして自身の後ろの壁を、手の甲で軽く叩き示した。
「こっちの壁を破壊してくれないか」
その先は、"エリダの枢石窟"最奥。
もはやどこにも続いていない、完全なる行き止まり。
「……私、これ、一発しか撃てませんよ。そっちに行ったって帰れません。その先はなにもない空間です」
「そんなことはない。アイツがいるだろう」
枢石喰らいが。
「……正気ですか」
「正気だ。枢石喰らいを殺せば、洞窟はこれ以上崩落しない。崩壊する危険がなければ、転移結晶を設置する時間ができる。
転移結晶が設置できればこの依頼は達成だ。オレ達は、……二人で、帰ることができる。『断ち月』として、また冒険を続けられる」
リリエリはまじまじとヨシュアを眺めた。頭の天辺から爪先まで。ヨシュアがおかしくなっていない証拠を、必死でかき集めんとするかのように。
声も、目も、顔も、仕草も。
思えばヨシュアはいつだって真剣だった。
「アレはもはや枢石そのものですよ。今私達を囲んでる岩より、ずっと硬いんです。ヨシュアさんでも無理だって、そう言ってたじゃないですか」
「枢石を素手でどうこうするのは無理だと言った。でも、アレは生き物だろう」
ヨシュアは不意にしゃがみ込み、地面から何かを取り上げた。キラリとリリエリの目に反射した光が差し込む。
……リリエリの、マチェットだ。
「生きているなら、オレは殺せる」
「……アレがちょっと壁に頭突きしただけでこの有様です。アレが暴れたら、もう本当に洞窟全部が埋まりますよ」
「暴れる前に殺ればいい」
「本気なんですか」
「オレを信じてくれるんじゃないのか」
「……馬鹿なことを言わないでください」
なんてギルドマスターだろう。リリエリは呆れ果てたような心地だった。信じてくれるんじゃないのか、だなんて、今更。
「信じるに決まってるじゃないですか」
「決まりだな」
ヨシュアは頷いた。いつもみたいに、平静に。
ただ、リリエリには、確かに彼が笑っているように見えたのだ。
「はぁ、もうここまで一緒に来ちゃいましたもんね。引き続き一緒に生きるか、一緒に死にましょうね」
「後者は考えなくていい。……このマチェットは、壊すかもしれない」
「どうせ捨て置くはずの荷物です。ヨシュアさんの好きにしてください」
無骨な指がマチェットの刀身を撫でる。刃渡りを確かめるような動きであった。
ここまでヨシュアは徒手空拳で来たわけだが、元々は大鎌を得物としている冒険者だったはずだ。だからこそヨシュア=デスサイズと、そんな通り名がついている。
大鎌とマチェット。同じ刃物というには、リーチに違いがありすぎるが。
だらりと力なくマチェットを握る仕草は、どうしようもなくヨシュアに似つかわしかった。
ずず、と振動が洞窟の地面を這う。パラパラと小さなものが降り落ちる音が聞こえる。
この空間もじきに持たなくなるだろう。むしろよくぞここまで持ったものだ。
「ヨシュアさん。準備はいいですか」
「いつでも」
ヨシュアは枢石喰らいへと続く方の壁をリリエリに明け渡した。体の小さいリリエリよりもよっぽど幅のある一枚岩。大きさの差は、歴然だった。
それでも、リリエリはこの岩を破壊できる。ヨシュアもまた信じていた。リリエリのことを、何一つとして疑っちゃいない。
「……ここまで一緒に冒険してくれて、ありがとうございました」
「こちらこそ」
リリエリは重心を低く構え、深く息を吸った。握りしめた拳から、刻まれた紋章魔術が順に淡い光を纏う。
久しぶりの感覚だった。リリエリは自分の横に、幼いかつての自分が立っているのを幻視した。
拳聖の娘だなどと持て囃され、一人で魔物と対峙したあの日。父の力に振り回され、失敗し取り返しのつかない怪我を負う自分の姿。
今は違う。
私はもう一人じゃない。
魔力も、気持ちも、夢も、未来も。
全身全霊、全てをかけて。
リリエリは、自らの拳を振り抜いた。
鋭い風切り音の一拍後、世界に光が溢れかえる。不思議と一切の音が耳に入らなかった。
砕け散る岩石の雨の中、枢石喰らいの放つ輝きに向かい駆けるヨシュアの背中が見える。
だがそれも一瞬のことだ。身体中の力が抜けて、リリエリは地面に倒れ伏した。倒れた先に転がっていた切片がリリエリの額を、剥き出しの手足を傷つけたが、そんなことはもはや思考にも入らなかった。
限界まで魔力を消費したことで、リリエリの意識は急速に薄れて白んでいく。嫌だ。少しでも長くヨシュアを見ていたい。弾け飛んだ瓦礫が邪魔でしょうがない、這いずり傷ついてでも、赤銅色の光の先を目に焼き付けておきたい。
霞む視界が、ようやっとヨシュアの背を捉える。
その手元に、一閃の光を見た。
まるでそこだけ時間が遅くなったみたいだった。
翻ったマチェットの刃が、枢石喰らいの輝きを照り返しながら美しい孤を描いて閃く。孤の中心、巨大な亀龍の首が、音もなくずれて落下を始める。
ただ一振りで、十分だったのだ。
――"断ち月" ヨシュア=デスサイズ。
これが我らがギルドの由来かと、そんなことを考えながら。
眩い赤銅色の光の中、リリエリは自らの意識を手放した。
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