左手に誓いを
* * *
タウンハウスのエントランスホールに、アデーレのため息が溜まっていく。クウィルはそのたびにそわそわとして、服の襟に指を噛ませてぐいと引っ張った。昨年の秋以来となる夜会の装いは、相変わらず馴染まない。
「兄さま、だいじょうぶ?」
「大丈夫と思えば大丈夫なんだ」
妹の余所行きなデイドレス姿は、昼間に開かれた茶会の
兄と違って社交的な妹が
髪の左側をかっちりと後ろに流しているために、目が
「夜会の花は兄さまではないのだから」
「わかっている、うん」
階段の上からぱたぱたと足音がやって来る。ニコラはいつもどおり落ち着きのない駆け足でやってきて、したり顔でクウィルの手を引いた。
それは右手だ。
「ニコラ。痛い」
「あああああ申し訳ありません。でもでも、ほら。ご覧になってくださいませ」
ニコラが指し示す先。
義姉に手を引かれて階段を下りてくるリネッタ。その姿にクウィルは目を奪われると同時に、血の気が引いていく気がした。
薄紫のドレスは襟が広く開いて、彼女の陶器のような白い肌がより際立つ。細い腰を飾るリボンは彼女の瞳と同じ深い青。長いシルバーブロンドの髪は上半分を結って、花の銀細工で飾られている。薄桃をさりげなく刷いた頬も、淡い色をひいた唇も、彼女の愛らしさをさらに引き立てる。
妖精が花冠を投げ捨てて逃げ出すほどの美しさ。
そのうえ、裾が揺れるたびに顔をのぞかせる布は深紅。クウィルの瞳の色が内側に仕込まれている。仕立て屋店主の粋なはからいが、クウィルのこめかみを殴打した。
「どうです? どうです?」
自信満々なニコラの鼻息に、クウィルは頭を抱えた。
「……いい仕事だ」
隣に立つ男にかかる重圧などまったく考慮しない、素晴らしい仕上がりである。ニコラは大変優秀なのだ。
階段を下りきったリネッタはクウィルと目を合わせ、両頬をほわりと赤らめた。形のよい唇から、ほぅと吐息をもらす。
「とても、素敵です。クウィル様」
今度は眉間に、リネッタから痛烈な一矢。先を越されたクウィルの背には、ニコラの冷たい視線が刺さる。
「貴女こそ、よくお似合いです」
ぱっとしないクウィルの言葉でも、リネッタは顔をほころばせる。
エスコートのためにぎこちなく右手を差し出す。ためらいと気遣い満ちたリネッタの左手が重ねられた。
彼女の細い手首を見て、ぎょっとする。
細かな刺繍のあしらわれたショートグローブの上から、薄汚れた革紐の誓約錠が巻き付けてある。一度断ち切ったものを強引に結んだだけあって、紐にはまったくゆとりがない。測ったようにぴたりとして、我が物顔でリネッタの手首を占拠している。
「セリエス嬢、これは……」
「せっかくの夜会ですから、ニコラにお願いしたのです」
リネッタはそう言って、飾りひとつない革紐を大切そうに指で撫でる。その愛おし気な青い目が、クウィルの胸にとどめの一撃を叩き込んだ。
どうしようもなく不実な婚約者だったのだ。一年の猶予にひたすら感謝して、クウィルは彼女の左手を握った。
城にたどり着くと、主催のユリアーナはリネッタの姿に目を輝かせた。
「素敵だわ。ふたりのためにあるようなドレスね」
赤と青。互いの瞳を合わせたドレスを、リネッタは軽く摘まんだ。そして、周囲が思わず目を止めるような凛としたカーテシーを見せる。
早くも視線を集めている。初めはリネッタに集まる関心が、次は当然ながら隣のクウィルに移ってくる。
根っから夜会嫌いの自分が身体の主導権を握り、ついつい足をじりっと引いてしまう。
と、後ろからドンッとぶつかられた。
「おまえというやつは、本当に無理ばかりする」
呆れ顔のレオナルトは、クウィルの右肩を軽くつついた。うぐ、と顔をしかめると、声をたてて笑われる。
「何もそんな状態で夜会まで来ることはないだろう」
「足は、健勝ですから」
「足だけでワルツが踊れるものか。ホールドで悲鳴を上げるなよ」
そこでレオナルトはぐっとクウィルに顔を寄せ、声を落とした。
「しばらくバルコニーを貸し切ってやる」
「ですが……」
ユリアーナと談笑に興じるリネッタを、ちらりと盗み見る。
レオナルトの提案はありがたい。だがそこは彼女にとって良い場所ではない。聖女として縛られた日を思い出すのだと、タウンハウスのバルコニーにも出ようとしないのだから。
「だからこそだ。おまえが塗り替えろ」
レオナルトがクウィルの背中を軽く押した。リネッタがふと顔を上げて、花ほころぶような笑みを見せる。
胸に仕込んでおいた木箱の重みに、クウィルは肩よりも痛む胃を自覚した。
広いバルコニーの端まで来ると、広間から漏れた灯りはかすかなものになる。賑やかな声も遠く、ふたりきりの場所が出来上がる。
「風が暖かくなりましたね」
柔らかなリネッタの声に、クウィルはうなずきだけを返した。
やはり夜会は苦手だ。
重い衣装も華やかなドレスも無いタウンハウスならば、気安く言葉を交わせるようになってきたのに。着飾っただけで、気の利いた言葉はクウィルの頭から離れていってしまう。
「そうだ! 中に、美味しそうなものがたくさんあったのです。取ってまいりましょうか」
「いえ!」
こちらを気遣うリネッタに、待ってくれと手を突き出す。そして、深呼吸を二度繰り返した。
「セリエス嬢……いえ。リネッタ」
まだ呼び慣れない彼女の名を口にする。リネッタが少しはにかんでから、身体ごとこちらを向いた。
クウィルはもう一度深呼吸を挟み、胸にしまってあった薄い木箱を取り出した。
蓋を開けて、差し出す。
中を見たリネッタが、一瞬息を止めた。
贈り物はふたつ。
ひとつは銀の鎖の誓約錠。中央には細やかな細工を施した飾り板があって、そこに小さな石がふたつ嵌め込んである。
リネッタの瞳。深い青の蒼玉。
そしてクウィルの瞳。これ以上ないほど赤い琥珀石。マリウスに頼んで探し出してもらったものだ。
もうひとつの贈り物に、リネッタの指が触れた。
誓約錠とともに木箱に納めた紙切れ。クウィルが雨の中でユリアーナから託されたもの。リネッタの手帳の、破られた最後の一枚。
リネッタは、かつての自分が記した望みを開き、懐かしむように目を細めた。しばらくそうしてから、はっとしたように紙を裏返す。
瞬間、クウィルの緊張が跳ね上がった。
リネッタの目が何度も左、右と行き来して、たった一文を入念に確かめる。
『一年後、貴女の左手に指輪を贈りたい』
彼女の望みの裏側に、クウィルの望みを書いた。何日も悩んだのに気の利いた言い回しは浮かばず、あけすけな言葉をそのままに。
リネッタはクウィルの望みに視線を落としたまま、声ひとつ発しない。静けさが苦しく、広間の談笑が今だけは恋しくなる。
長い沈黙の末、クウィルはとうとう堪えきれなくなって尋ねた。
「受け取ってくれますか?」
彼女の小さな吐息が夜風にさらわれる。
リネッタは黙ったまま、左手首をクウィルへ差し出してきた。
ラングバート家に迎え入れた日をやり直す。クウィルの心境はあの日とまったく別物で、緊張に指先が震えた。
もたもたとしながら革紐を外し、新たな誓約錠を細い手首に留める。銀の鎖が控えめな音を奏でて彼女を飾ったと同時に、クウィルの手にぽつりと雨が落ちた。
雨の主はリネッタだった。ほろほろと頬を落ちる涙が、またひとつクウィルの手を打った。
「ごめん、なさい……止まらなくて」
堰の切れた両目を右手で覆い隠し、リネッタは左手をあげた。誓約錠が揺れて、快を訴える。
雄弁で正直な、リネッタの左手。
クウィルはその手を取り、繊細な布越しの甲に口づけを落とした。優しく、決して痕など残さないように。彼女の心を摘み取ることのないように。
「縛り付けるための誓約では無いと知っていてください。この錠をかけても、貴女の心も身体も、すべて貴女だけのものです。ですが、ひとつだけ……」
互いの手のひらを合わせる。クウィルの右手と、リネッタの左手。ひたと触れあった手は、どちらからともなく指を絡めていく。
「この手があがるとき、隣にいるのは私でありたい」
絡み合う指に、そっと力を乗せる。繋がる手の熱を、その向こうにある心を分かち合うために。
涙を胸元で弾かせて、リネッタが唇を震わせた。
「わたし、クウィル様のことが――」
クウィルは彼女の唇に指を突き立てた。静かにと。積極的に先を越してしまう彼女に、今夜は譲ってもらう。
身を屈め、額同士を軽く当てた。吐息が触れあう距離で、持てる限りの誠実を込めた言葉を贈る。
「リネッタ。貴女が好きだ」
溢れる涙と咲き誇るような笑みで、リネッタが応えた。
彼女の最上の笑顔を祝福するように、楽団の奏でる音色が広間から聞こえ始める。
涙を拭って。少しの気恥ずかしさに笑い合って。
左腕で彼女を支え、ぎこちない足取りでワルツを踊る。
三拍子ごとに、彼女の感情が消えないことを確かめながら。
〈琥珀色の騎士は聖女の左手に愛を誓う―完〉
琥珀色の騎士は聖女の左手に愛を誓う 笹井風琉 @chichiibean
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