第五章 騎士、クウィル・ラングバート

彼女の願い

 馴染んだ黒の騎士服を纏い、クウィルは聖堂の門前に立った。

 門番らが浮き足立つ。午後の休息に庭園で茶を嗜んでいた聖堂官らが、慌てて飛び出してきた。

 何事かと問おうとする聖堂官の眼前に、クウィルは許可状を突きつけた。


「セリエス伯爵令嬢、リネッタ殿の元へお通し願う」


 王太子の印が入った正式な立ち入り許可状だ。しかし、門の向こうの聖堂官はうなずこうとしない。


「今は鎮めの儀を努めておいでです」

「承知している。だからこそだ」

「何びとも近づけるなと。わたくしども聖堂官は聖女様のお言葉を優先いたします」


 クウィルは腰にさげた剣に手を添えた。

 聖堂官はその動きに目を止めるなり、嘲笑ちょうしょうを浮かべた。


「聖女様のおられる場を、血で汚すおつもりですか。やはり赤目のベツィラフトのお考えになることは、わたくしどもには到底――」


 聖堂官は、そこで言葉をなくした。

 腰から剣を外し、門前に置いて。クウィルはその場に片膝をついていた。


「お通し願いたい。今すぐに」


 広場を通りかかった者が、何事かと好奇の目を向ける。聖堂官らが聖堂からひとり、またひとりと現れ、動揺のざわめきがクウィルの耳まで届いた。


「何をしている」


 ひざまづくクウィルの隣に、硬い靴音を響かせて男が立ち止まった。

 白を基調とした騎士服。アイクラント伝統のプラチナブロンドの髪を揺らす色男。


「……クラッセン卿?」

「全く、父上の予想したとおりだな。聖堂は王家に歯向かう意志をお持ちのようだ」


 マリウスはクウィルの肩を軽く叩き、いつもより低く張りのある声を聖堂官に向けた。


「騎士が剣を下ろし膝をつく意味をお分かりでないのか」

「し、しかし!」

「聖堂に立ち入る程度のことに剣を賭す覚悟を、貴公らは軽んじるおつもりか!」


 一喝すると、マリウスはクウィルを半ば強引に立たせた。剣を拾い上げてクウィルの胸にドンと突きつける。


「もう少し貴族の立ち回りを学んだほうが良い。ひいてはそれが、リネッタ様を守る力になる」


 リネッタをさらった男に言われるのは複雑な心境ながら、クウィルは剣を腰に戻した。

 マリウスは白騎士一隊をひきいて門前に並ばせると、その先頭に立ち書状を広げた。


「王都にて大規模な魔獣戦が予想される。聖堂はこれより民の救護救援体制に移り、庭園を解放されよ。これは貴族院より聖堂への要請である」


 宣誓のような声に、広場がざわめく。

 聖堂官らの動きが慌ただしくなり、ほどなくして門が開かれた。


 同時に、マリウスがクウィルの背中を押した。


「聖剣の間は三階の東奥だ」


 言われるなり、返事を返す余裕もなくクウィルは駆け出した。


 * * *


 リネッタがユリアーナと出会ったのは、まだ聖女に選ばれる前のことだった。


 セリエスの娘の義務だといられた茶会は、あまりにもつまらなかった。会場を抜け出し木登りにいそしんでいたところをユリアーナに見つかった。

 ユリアーナは目を輝かせ、自分も登ると手を伸ばした。後の王太子妃は、リネッタに負けずお転婆だった。


 それから茶会で出会うたびに、ふたりでこっそり抜け出した。まるで姉妹のように、いつも手を繋いで。彼女といる時間だけが、リネッタの喜びだった。


 最後に会った茶会で、ユリアーナはリネッタに手帳をくれた。そこに書いた望みはなんだって叶う。もちろん、子どものたわむれだ。それでもリネッタは手帳を大切に抱きしめた。巡礼に唯一持ち込んだものだ。


 そんな手帳の最後の一枚とともに、始まりの聖女が持つ秘術をユリアーナだけに打ち明けた。決して使わない、最後まで諦めないことを、強引に約束させられた。

 

 大切な姉との約束を、リネッタはここで破る。




 身体の奥深くで、熱が膨れ上がっていく。リネッタはたまらず、握りしめたシーツを乱して寝台から転げ落ちた。


 真白な聖女の装いは汗で濡れそぼり、脚にまとわりつく。シルバーブロンドの髪は痛んでもつれ、足取りはおぼつかない。


 それでも、青い瞳は前を向いた。


『我が魂が消えればおまえも消える。それが契約だ。恐怖に耐えられまいよ』


 二年間聞き続けた耳障りな声に、虚勢の笑みで返す。


「先に契約を違えたのはそちらでしょう」


 聖女が共にある限り、王は魔獣を鎮める。永遠の契約を王こそが破った。アイクラント王都に黒狼を、そしてオルトスを引き入れた。


 はだけた胸元に手を当てる。星が焼き付けた聖女の証。忌々しい花びらのあざは、いつの頃からか、少しずつ薄くなっていった。

 契約はすでに外れかかっている。リネッタはそう信じる。クウィルは神殿の呪術どころか、この魂に刻まれた呪縛さえも解いたのだと。


「とても、いい男なのです。わたしの選んだかたは」


 重い足を引きずり、前へ進む。

 聖剣に嵌め込まれた赤い石。ベツィラフトの呪術の結晶に、クウィルの瞳が重なる。


 いい男だ。そう。

 ――……いい男、だろうか。

 改めて自問すると、つい笑ってしまう。


 大きな獣から自分を守ってくれた英雄。

 物語のようだと思っていた出会いは偶然の産物だった。十二歳のクウィルの視界に、五歳のリネッタは入ってもいなかった。

 雨の中で彼に投げつけた言葉は、まったくの嘘ではない。降りかかった運命は耐えがたく、恩人であるはずの彼を恨みもした。消せない恋と憎しみの狭間で、感情が消えるまでの間に何度も心が裂ける音を聞いた。


 だから、せいぜい頭の痛い婚約にしてやろうと思った。我ながら子どもじみた復讐だ。クウィルを振り回し、何度も試すようなことをした。自傷も、夜這いも、詰所への急な訪いも。彼になんと思われようとかまわなかった。


 手帳には誓約錠が欲しいとしか書かなかった。その先にあるべき指輪は望まない。この恋は初めから、婚約で始めて破棄で終えるつもりでいた。


 クウィル・ラングバートは、なかなかのものだった。

 初日には出迎えもなく、安物の誓約錠を義務のように手首に巻いて、これで良しみたいな顔をして。まるでリネッタに関心がなく、タウンハウスに放置した。

 手紙の返事は三行しかない。贈り物どころか、花も届かない。

 貴族として、婚約者として、彼は決して褒められる態度ではなかった。夜会から逃げ出したかっただけなのだという本心を、包み隠しもしない。


 本当の姿は夢見た王子様のものではなかった。不器用で、あまりにも素っ気ない。


 けれど。


 社交用に作る笑顔より、一瞬でも抱いた本音がいいと。彼はリネッタの、たった三つを数える間に消えるような些細な想いを拾おうとした。

 感情が揺れなければ身体が痛むからと、リネッタの誘いをすげなく返した。彼は知らない。あのときリネッタが、三つ数える間にどれだけ胸を震わせたかを。


 セリエスという忌々しい伯父の家名も、彼が呼ぶ声だけは悪くないと思った。

 雨の中、その声がリネッタの名を強く呼んだ瞬間。快を伝える左手を、空高くまで上げたいほどに心が泣いた。


 ――このひとと、うれいのない恋がしたい。


 彼を悪意から守るために、悪女を演じた。

 きっと今頃、王都で彼に向けられる視線が好転したことだろう。リネッタがそう仕向けたのだから。あの美しい琥珀の瞳を、穢れた赤などと呼ばせない。

 そして今度はこの聖剣を、亡国の王を滅ぼし、自分が真に聖女になる。

 誰にも後ろ指を指させはしない。あらゆる祝福を受けて彼の傍にいるために。


 いずれアイクラント王が、クウィルの解呪に気づく。彼を配下におさめようと、必ず動き出す。

 その前に、自分が全てを終わらせる。誰にも渡さない。


 右手に不可視の炎を宿す。この手が示す思いは、不快だ。


 魂の契約はすでに解かれたと、クウィルただひとりを信じて。

 炎を宿す右手を聖剣へと伸ばす。同時に、胸のあざが何かに貫かれるように痛み出す。


『ついに気が触れたか。ともに朽ちるか!』

「いいえ! わたしはクウィル様の元に帰ります!」


 その瞬間。

 リネッタの身体は後ろから抱きすくめられた。


「まったく。貴女という人は」

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