呪縛の花に口づけを
耳元で彼の声がする。
不意に訪れた温かさにリネッタの全身の力が抜け、そのまま彼の胸に倒れ込んだ。
「クウィル、さま?」
「セリエス嬢が
クウィルの琥珀の瞳が、リネッタの無事を確かめるように顔から全身へと動いた。
瞬間、頭から水を浴びせられたような心地がした。
乱れた寝台が目に飛び込む。聖剣に嵌め込まれた赤い石が鈍く光った。
「あ……ぁ」
焦って目を逸らした先で、今度は自分の身体に気づいてしまう。
汗にまみれた不浄な身体。まだ湿りを持ったままの脚が震えた。
リネッタはクウィルの手を振りほどき、自分の身体を抱きすくめた。もたつく指で胸のボタンをとめていく。
憐れ、憐れと。惨めな聖女を聖剣が
誰にも渡したくない。あらゆる祝福を受けて、傍にいたい。
憂いのない、恋を。
けれど。
――わたしに、それが許されるのだろうか。
たとえ内を侵されようと、自分には一片たりとも傷はないのだと。精一杯張り続けた虚勢が
「お目汚しを……お詫びします」
「セリエス嬢?」
「どうか、目を閉じていてください。こんな、汚らしい」
「リネッタ!」
両肩を掴まれ、強引にクウィルと向き合わされる。
瞬時にリネッタはきつくまぶたを閉じた。彼に同情を向けられるぐらいなら、このまぶたを縫い付けてしまうほうがいい。
憐れみを聞くのは堪えられない。耳を塞ぎたくて、自由にならない両腕を暴れさせる。すると、クウィルから聞いたこともないほど巨大なため息が飛んできた。
「申し訳ないが……貴女の頼みでもそれは承諾しかねる。堅牢な氷壁などと呼ばれている私でも、大切なものを目で追いたい欲はあります」
思わずまぶたをぱちんと開いた。
目の前にある琥珀の瞳が、まるで焦がれるようにリネッタを見ている。太い指がまぶたを
「貴女の不安を消せるというなら、今すぐ寝台にお連れしたいほど。この場所で貴女に触れるのは
いったい自分は今、何を言われているのだろう。
頭の中で何度も彼の声を
クウィルが頬に朱を走らせ、悔し気に目を逸らした。
「我ながら品の無い……忘れてください」
そう毒づいた彼の指が、唐突にリネッタの胸のボタンにかかった。
「何を!?」
「すぐに終わらせます」
たった今閉じたばかりの襟を開かれ、両肩をあらわにされる。彼はリネッタの胸にある聖女の証を凝視し、剣を抜いた。自身の親指の腹に傷をつけ、血をふくりと湧かせる。
彼がその血をぱくりと口にくわえた、次の瞬間。
「んッ」
散々踏みにじられて敏感になった身体が
「これでは駄目か」
ぽつりとこぼしたクウィルが、今度は右手をリネッタのあごに添えてくる。
リネッタはふるふると、小さく首を振った。
「だめです、クウィル様。解呪は命を削るかもしれないのでしょう? わたしなら平気です。きっと、もう、大丈夫」
彼の生母オルガがどんな最期を迎えたか、聖剣は何度もリネッタに教え込んだ。転移術を解くために、オルガは途方もない代償を払った。
それなら、魂に刻まれた契約を完全に解くのに払う代償はどれほどのものか。
誰も、聖剣に眠る王ですら知らない。
そんな恐ろしいものを使わせたくない。
賭けに出るなら、自分がいい。
だから事を急いだ。クウィルが解呪を完全に手にする前に、リネッタの炎で終わらせようとしたのに。
クウィルを突き放そうとした手は、強く掴まれる。うつむいた顔は、彼の手で強引に上向かされた。
どうしてか、悔しげにクウィルが眉を寄せる。琥珀の瞳の奥に、燃え盛るような熱がある。
「分の悪い賭けなのは、貴女も私も同じです。なぜそうやって、貴女ひとりで何もかも試したがるのですか」
「だって、これは。この契約は……わたしの」
「貴女のその運命に、私を巻き込んでくださるのだろう!」
噛みつくように口を塞がれる。クウィルの琥珀の瞳はすぐそばにあって、半分ほど伏せた彼の瞼にリネッタが鼻からもらした息がかかる。
彼の長い睫毛が揺れて。舌が、彼の血の味を知る。
「ん、ぅ」
漏れ出た自分の声がリネッタの
は、と彼の吐息が聞こえる。互いの唇が離れ、リネッタはやっと息のしかたを思い出す。
ふわりと、胸が温かくなった気がして視線を落とした。
烙印の花が消えている。
「解、けた……?」
十六歳からリネッタを縛り続けた鎖がほどけている。思わず視線を上げると、心底から安堵したようなクウィルと目が合った。彼の頭がぐらりと揺れ、リネッタの肩にとすりと降りる。
「クウィル様っ」
「平気、です。セリエス嬢、早く……秘術を」
びしり、と聖剣の刃にひびが入る。
『お、お』
鍔に嵌め込まれた赤い石に、ビキビキと亀裂が走っていく。
『おおおおおおおおおおっ!!』
石がはじけ、聖剣から黒い霧が吹き出した。
クウィルが身をひるがえす。彼の手で弾き飛ばされたリネッタは、床に倒れ込みながらそれを見た。
闇が。
真っ黒な悪意が、クウィル・ラングバートの身体を飲み込む瞬間を。
「クウィルさまああああああああ!」
霧が聖剣に吸い込まれる。
闇から解放されたクウィルの身体が、糸の切れた人形のようにその場に倒れ伏した。
リネッタは駆け寄り、重い身体を掴んで引き起こす。
瞼をうっすらと開いた彼の琥珀の瞳は、光を失くしていた。
* * *
王都を囲う城壁の上。強い西日の差す中、ギイス・キルステンは北の空を睨んだ。
アッシュフォーレン山脈の方角に、黒い霧が上がっている。
時が定めたのだと、ギイスは思う。
ベツィラフトの中でも希少な解呪。
そして、リングデルの血筋に繋がる、新たな器。
解呪で削り切った魂を、新たな器に移す。器が自我を保てなければ、器ごと魂を捨てる。
それが、アイクラント現王の描いた図。
遠い歴史のかなた。アイクレーゼンは生まれ変わりを恐れ、多くの犠牲を払って魂を聖剣に封じた。
現王は恐れない。未知の生まれ変わりより、目の前の夢を追う。
為政者はいつの世も、力に取り憑かれる。
オルガを失い、クウィルにベツィラフトの瞳が無いことを知った現王は、一度夢を手離した。
器となるために人生のほとんどを禁書庫で過ごしてきたザシャは、書庫を離れ、ギイスの元に預けられた。
転移術と呪術を、アイクラントが握る。現王のおぞましい夢は、クウィルの解呪で息を吹き返す。
――さぁ、どうなることか。
若き王太子がどこまで王に対抗できるか。
ギイスは愉悦に目を細めた。時代の節目を特等席で楽しむために、堅苦しい侯爵位を持っている。
平原の果てに、黒い波が見える。
いよいよかと構えるギイスの元に、ご機嫌な鼻歌が近づいてきた。
ザシャが城壁の階段を陽気に上がってくる。
「おいおい、聖堂はどうした?」
「白騎士に任せてます」
「任せた……って、おまえなぁ……」
「大丈夫、大丈夫」
ザシャとクウィル。騎士としてふたりを育てる内に、ギイスの中に芽生えた親心がある。
自身を割りきりのいい人間だと思って生きてきた。そうでもなかったと自覚したのは、ふたりが正式に騎士になった頃からだ。
「万が一ってことがあるだろう。今からでも、ちらっと見てきてやらんか」
「オレも、クウィルが出る前にそう言ったんですけどね」
ザシャは両手に火を灯し、空に打ち上げる。上空で花のように咲いた火は、城壁外の各所に配備した騎士に始まりを告げる。
北平原に、魔獣の姿あり。
小型の魔獣が群れをなして駆けてくる。
剣を手に、ザシャは首をひねってぽきりと軽い音を鳴らした。
「婚約者に粉をかけた馬鹿を殴りに行くので、半刻くれとのことです」
生真面目なクウィルらしい言葉に、ギイスはむせるほど笑って脇腹を押さえた。前線が半刻しか持たないと思われたのなら、 ずいぶん見くびられたものだ。そこは欲張って一刻もぎ取ればいいものを。
人に頼らずひとりで生きるのだと意固地になっていたクウィルが、命を張ってくれと仲間に頭を下げた。いつの間にか大人になったものだと感心する。
「それはそれは、たっぷりのんびりさせてやらにゃぁならんな」
ギイスは振り向き、声を張り上げた。
「無事に帰るまでが狩りだ。我らがクウィル・ラングバートの恋に、思う存分華を添えてやれ!」
おおお、と。地を揺るがすほどの
その声を聞きながら、やはり、時が定めたのだとギイスは笑う。
今ここに到るために、アイクラントの魔術と剣術は研ぎ澄まされてきた。
遥か彼方、苔むした勝利の上で、いつまでも胡座をかいていられると思うな。
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