誓約を断つ刃

 * * *


 謹慎明けの朝は曇天どんてんで、まるでクウィルの今の気分を映したかのようだった。久しぶりに騎士服を身に付け、タウンハウスを出る。

 リネッタの身の回りの品を詰め込んだ鞄はずっしりと重い。本当にこんなにたくさん必要なのかと本人に何度も確認をとる。これでは、彼女の部屋を空にする勢いだ。


「女の四ヶ月は、なにかと物要ものいりなのです。クウィル様のように剣ひとつとはいきません」

「な、なるほど」


 馬車に乗り込もうとするリネッタに、アデーレが飛び付いた。


「帰っていらしてね、ぜったい、ぜったいよ! 花冠をたくさん作ってお迎えしますから!」


 ラルスがアデーレをなだめて引き離す。リネッタは泣き顔のアデーレのひたいに口づけを落とし、一度抱き締めて微笑んだ。母ともしばしの別れの抱擁ほうようを交わして、ようやくリネッタは馬車に乗り込んだ。



「今日、そのまま出発が決まるとは限らないのですよね」

「護衛隊の編成が終わっていれば、すぐにでも動くことと思います。聖堂の威信いしんに関わる事態ですから」

「まさか……クラッセン卿がまた隊長を務めるということは」

「どうでしょう。卿相手なら、すでに転がしかたを存じていますから、わたしも案外気が楽かもしれません」


 軽口ながらリネッタの表情はかたく、クウィルもしだいに口を閉ざした。

 やがて聖堂が見えてきて、門前で馬車は止まった。立ち上がろうとしたクウィルの手を、リネッタが強く握ってくる。不安なのかとクウィルはその手を握り返してから、馬車の扉を開けた。


 先に降りたったクウィルの背に硬いものが投げつけられた。

 足元に転がったそれは、例の張り紙で包んだ石だ。辺りを見回すと、昨日張り紙を集めてきたあの少年が、泣き出しそうな顔でクウィルを見ていた。


 少年の後ろ。同じ年頃の子どもたちが、物陰から少年の動きを見張るように顔をのぞかせている。いずれも身なりがよく、上位貴族の子息だとすぐにわかる。


 実にわかりやすい。


 こうなるだろうから張り紙を放っておけとクウィルは言ったのだ。少年はあの後も悪意を剥がして回ったのだろう。


 大丈夫だと伝わるよう、できる限り柔らかい視線を少年に送る。

 そして、馬車の中のリネッタに手を差し伸べた。


 リネッタは、きつく眉を寄せてクウィルを見ていた。まるで、涙を堪えるかのように。


「どう……されましたか?」


 クウィルが尋ねると、リネッタはぎゅっとまぶたを閉じた。気持ちを鎮めるようにゆっくりと息を吐く。


 そして、もう一度まぶたを開いたとき。

 彼女は、ラングバート家に迎え入れた日と同じ、美しい人形の顔をしていた。


 クウィルの手を払いのけて、馬車を下りる。

 重い荷物を自分で抱え、凛と背を伸ばし、聖女の装いの長いすそをひるがえした。


「セリエス嬢?」


 リネッタは足を止めない。門前に立ち、門番に荷物を押し付けるようにして、ようやくこちらに向き直った。その手には、小さなナイフが握られている。


「クウィル・ラングバート様」


 微笑みは社交用の飾り物で。クウィルの名を、まるで別物のような冷たさで呼ぶ。


「なぜわたしがあなたを選んだか、お尋ねでしたね」

「それは、昨日貴女から――」

「あなたがわたしを助けなければ、聖女にならずに済んだからです」


 こくりと、喉が鳴った。

 物陰からうかがっていた子どもたちも、物言わず悪意のある視線を投げていた大人たちも。皆、何が始まったのかと門前に集いだす。


 空が暗くなる。一滴の雨が、クウィルの肩を叩いた。


「聖女の役目は、聖剣に宿る魂に抱かれることです。毎日、毎日、目覚めてから眠るまで、身体無き意思に、心の内を通して全身をなぶられ、汚されることです」


 門番が慌てたように聖堂へ叫ぶ。聖堂官が飛び出してきて、リネッタの腕を掴んだ。

 その途端、リネッタは笑いだした。高く、気でも触れたかのように。聖堂官の手を振り払い、ナイフを抜いてさやを投げ捨てた。


「あなたが死なせてくださらなかったから、わたしは蹂躙じゅうりんされ、正気でいられないほどの苦痛を二年も味わった。その御礼に、わたしの惨めな運命に、あなたを巻き込んで差し上げたかったのです」

「……セリエス嬢」

「セリエスの家名もあなたがくださった! すべてあの日、あなたがわたしに与え、何もかもをわたしから奪った!」


 リネッタが笑う。雨の中で。

 そして左手を上げ、ナイフの先で誓約錠をすくう。


「待って!」


 門前広場に高い声が響いた。石畳に溜まりだした水を跳ね上げながら、王太子妃ユリアーナが駆けてくる。


「駄目よ、諦めては駄目! わたくしが必ず叶えると約束したじゃない!」

「妃殿下にこれ以上何ができるというのですか」


 突き放すような声が、勢いを増した雨に消されていく。

 膝から崩れかけたユリアーナを支え、クウィルはリネッタの内側を見抜こうとした。そこにあるはずの感情を。


 けれど、雨が彼女を隠してしまう。彼女の感情を、洗い流してしまう。


「さようなら、クウィル様。残酷な夢をありがとうございました」


 ぷつりと、誓約錠が切れる。

 頼りない革紐は抵抗もせずリネッタの手首を離れ、石畳に落ちた。彼女の瞳の深さに全く足りない青い石が、二度、三度と跳ねてクウィルの足元に転がった。

 リネッタがこちらに背を向け、門が閉まる。聖女の住む世界とクウィルの世界が、鉄格子のような門ひとつで隔てられた。

 クウィルは門に駆け寄り格子を掴んだ。がしゃりと音を立てる門にすがるようにして叫ぶ。


「セリエス嬢……リネッタ!」


 リネッタは振り向くこと無く、わずかに左手を震わせた。




 雨が勢いを増す中、集まった人々は誰ひとり広場を離れなかった。


 リネッタが聖堂の扉の奥へ消えるまで、クウィルもまた、その場を動かず見届けた。扉が閉ざされると同時に身体の硬直を解いてきびすを返す。


 門前近くにいた誰かが「悪女だ」とつぶやく。クウィルが鋭い視線を向けると、その声はざわめく人の中にまぎれて身を隠した。


 いつの間にか、レオナルトが馬車の側に立っていた。肩を抱えられたユリアーナは震える手でクウィルに封筒を差し出してくる。


「ラングバート卿……違うのです。リネッタは本当にあなたを」

「わかっています」


 彼女の名を呼んだ瞬間。門の向こうで確かに左手が震えていた。不快の右手をあげるぐらい造作もない。それを彼女はしなかった。


 リネッタの手は、決してクウィルに嘘をつかない。

 

 封筒を受け取り、雨からかばいながら開く。中から出てきたのは、リネッタの手帳から破られた最後の一枚だ。


「欲深すぎて持っていられないと言ったの。だからわたくしが預かったのです。卿、どうか」

「リア、大丈夫だ」


 レオナルトがユリアーナの言葉を止める。

 雨の音だけになった中で、クウィルはリネッタの最大の望みを手にした。


『琥珀石の誓約錠が欲しい』


 ――ああ、本当にまだ自分たちは。


 始まってもいなかったのだ。


「クウィル。最後にもう一度聞く。リネッタ・セリエスとの婚約を受ける覚悟はあるか」


 捨てられるかと、レオナルトがクウィルに問う。

 騎士服の上から、胸に忍ばせた鍵を握りしめた。足元の水溜まりに昨日のリネッタの笑顔が浮かび、雨に打たれて消えていく。


 彼女の抱えるものを知りもせずに、いったい何が守れる。


 クウィルは馴染んだ黒の騎士服から階級章を外し、レオナルトに突き出した。


「拝命します」


 雨ひと粒の迷いを振り切り。何の飾りも不要と、短い言葉ひとつで答える。


 レオナルトは、今度は笑みを浮かべなかった。静かにうなずき、雨音を払うように強く宣言した。


「クウィル・ラングバート。本日この場をもって、貴公を騎士団から除籍する」


 そして、レオナルトはクウィルの手から階級章を取り上げた。そのまま耳打ちで告げてくる。


「明日には許可状を下ろさせる。おまえの身は俺の近衛隊として預かれるよう手は回した。今日のところは屋敷に――」

「今すぐ、許可を」


 レオナルトの言葉に割り込む。一日も待ちたくない。走り出したい気持ちを押さえるので精一杯だ。


「……そう、だな。良い。許可状は後追いでかまわない。禁書庫を開けろ」


 恩情ある決定に騎士礼を返そうとして、ぐっと踏みとどまる。

 強く拳を握りしめ、貴族式の礼でレオナルトに頭を下げた。

 

 * * *


 青ざめる聖堂官の手を荒く振りほどき、リネッタは真っ直ぐに正面を見据え歩きだした。

 回廊を歩く聖女をまるで腫れ物のように見る彼らに、いつもどおりの微笑を投げ掛ける。すると、彼らは皆気まずそうに目を逸らす。


 リネッタは知っている。彼らのうち幾人もが、扉の向こうであえぎに耳をそばだてていたことを。

 尊き者と口々に褒めそやしながら、その内側で、汚れたいけにえを憐れみながらもわらっていたことを。


 聖堂と旧派貴族が手を組みつつあることも。そこに伯父が絡んでいることも。

 彼らは皆、リネッタのことを何もわからない小娘だと思い込んでいる。


 略式巡礼は好機だ。旧派は白騎士団、中央新派の子息を取り込む気でいる。逆に王家は、旧派一掃の口実を作らせようとしている。聖女を盾に思惑が飛び交う。


「聖女様、ご出立の日取りをお伝えします」

「なりません」

「は?」


 聖女には聖女の戦いかたがある。


「聖剣はアイクラントに留まることを望んでいます。わたしが説き伏せるまで、どなたも手出しなさいませんよう」

「しかし!」

を怒らせて、アイクラントを焦土にするおつもりですか」


 聖堂官がびくりとして口を閉ざす。驚いたのはリネッタの言葉にか、あるいはリネッタが口ごたえしたことにか。

 その間抜け面に溜飲を下げ、聖剣の間の扉に手をかけた。聖女の反抗に怒り狂う聖剣の声が、リネッタの耳だけにやかましく響く。


 胸の中に怒りと痛みがあることを確かめる。

 大丈夫だ。クウィルのくれた感情があれば。

 決して、自分は負けない。

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