彼女が恋におちた日

 * * *


 クウィルが書斎を出ると、廊下でニコラが待機していた。様子を尋ねるだけのつもりが、有無を言わせぬ強引さでリネッタの部屋に押し込まれる。それからニコラは、扉をぴたりと閉めて去っていった。


 ふたりきりになった部屋は静かだ。風が木々を揺らす音だけが届く。重い静寂を破るように、あえて足音をたて、ベッドへ向かう。


 クウィルがベッドの端に座ると、リネッタはうっすらとまぶたを持ち上げた。

 今朝の彼女とは別人のようだ。虚ろな。精神をごっそりと聖堂に置き忘れてきたような顔で、ぎこちなくクウィルを見上げてきた。


「ラングバート家の皆様に、ご迷惑をおかけして」

「貴女が詫びるようなことは、何もありません」

「ですが……」

「大丈夫。王都に魔獣が出たことで町の皆が動揺しているだけです。時間がたてば落ち着きます」


 リネッタが、身体に掛かるキルトをよけて起きようとする。そんな彼女を押し止めて、クウィルは隣に寝そべった。天蓋を見つめながら、吐く息で張り詰めた空気を散らす。


「どうやら、私だけが無知なようなのです」

「クウィル様は、剣のことも魔術のこともご存知ではありませんか」

「貴女について、です。父も殿下もあれこれ知っているようなのに。婚約者の私は何も知らない」

「それは……聖女の秘匿義務があって」

「わかっています。でもせめて、私たちがどこで出会ったのかぐらい、教えてくれてもいいとは思いませんか」


 リネッタはぱっちりと目を開けて、それからぎゅうと目を閉じた。


「セリエス嬢」


 頑なに隠そうとするリネッタの耳をいじる。


「は、わ、ぅ」


 キルトを握るリネッタの手に力がこもる。


「セリエス嬢、ほらほら。白状してしまいなさい」

「~~~~ッ!」


 耳で駄目ならと、クウィルはリネッタの白い首筋を人差し指でなぞった。


「ッ!?」

「もしくは、手帳の破られた部分を教えてくださる、でもいいのですが」


 あまり交渉ごとは得意ではないクウィルだが。

 確か、絶対選びたくないものと多少譲歩できるものを並べるといいとか。そういうことをザシャが言っていたのを思い出した。

 問いをふたつ用意して、リネッタの首筋をくすぐりながら答えを待つ。彼女の肌は本当に弱く、指を上下するたびに、はっひゅはっひゅと奇怪な息づかいで顔を赤くしていくから面白い。


「クウィル様、が。こんな意地悪な、ことをなさるっ、なんて」

「これまで婚約者としてずいぶん手を抜いてきたなと、反省しましたから」

「手抜、きっなん、て……………っ森ですっ!」

「森?」


 手を止めると、リネッタはその隙にばふっとキルトをかぶって逃げた。


「森って、どこの?」

「クウィル様が子どもの頃に大怪我をなさった、あの森です」


 十二歳。クウィルが魔獣の血を浴びた日。今しがた、父とその話をしたばかりだ。

 予想もしなかった返答に困惑していると、リネッタがキルトの端から青い目をのぞかせた。


「両親を食い殺した大きな魔獣に追いかけられていて。クウィル様は、わたしと魔獣の間に飛び込まれたのです。クウィル様がいなければ、きっとわたしも食われていた」

「……申し訳、ない。私にはまったく覚えが」

「お気になさらないで。わたしが覚えていればいい話です」


 あの日の記憶はぼやけていて、あまり思い出せない。生死の淵を彷徨ったのだから、無理もない。

 ただ、当時の自分を思えば。それはリネッタをかばったのではなく偶然飛び込んだだけに違いない。そこを感謝されるのは複雑だ。


 そういえば、と。リネッタが少しいたずらめいた笑いかたをする。


「ギイス様はご存知なんですよ? しばらくたってから、クウィル様が全快なさったとセリエスの家にお知らせくださいましたから」


 あの団長め、ひと言も話さなかったじゃないかと、心中で悪態をつく。婚約者に指名された理由がわからないとぼやくクウィルを、ギイスは心中で愉しんでいたに違いない。


「これで、ご懸念は晴れましたか?」

「え?」

「わたしがクウィル様に婚約をお願いした理由です。急にお聞きになったのは、何か、不審に思われたのでしょう?」


 彼女の鋭さに苦笑する。


 リネッタの感情はベツィラフトの呪術によって封じられていた。父の言葉が真実なら、リネッタはクウィルの持つ血筋に期待したのではないか。

 だとすれば、感情を取り戻した今、リネッタにとってこの婚約はすでに不要なものかもしれない。

 想像は暗いほうへと伸びて、クウィルを弱気の沼に引っぱった。これはまずいと、リネッタで遊びながら、気がかりを晴らそうとした。

 ……反省は、している。リネッタの頬が真っ赤だ。


「たったそれだけのこと。どうして公開試合の日に明かしてくれなかったのですか」

「困るかなと、思って」

「は?」

「クウィル様が、なんだこの面倒な女はと、お困りになるといいなと思って」


 なぜか眩しそうに目を細め。そして、ふふ、と声をもらしてリネッタが笑う。


「なんと意地の悪い……」

「そう。実はわたし、いじわるな女なのです」


 そこで誇らしげになるリネッタが可笑しい。クウィルは盛大に声をたてて笑った。

 ひとしきり笑ってから息をつくと、隣のリネッタが嬉しそうにこちらを見ていることに気づいた。急に気恥ずかしくなって、ふいと目を逸らす。


 すると、リネッタがクウィルの袖を引っ張った。


「お聞きになりましたか? わたしの巡礼のこと」

「先ほど父から。行くつもりですか」

「拒否はできません。アイクラントに魔獣が押し寄せてきているのは事実なのです。ずっと声が聞こえています」


 クウィルは仰向けだった身体をリネッタに向け、寝乱れたシルバーブロンドの髪を整えた。そして、頬に軽く触れる。クラッセン侯爵邸で彼女にしたのと同じ。こうすれば、彼女の感情を守れるような気がして。


「夜会は、次の機会になりますね。ドレスが仕上がったらお預かりしておきます」


 リネッタは微笑んで、それから「あ」と声をあげた。


「どうしましょう。四ヶ月も歩かずにいたら、ドレスが入らなくなってしまう」

「それはいけない。白騎士団には、馬車を極力使わないよう通告しましょうか」


 ほろほろとこぼれ落ちるように、彼女が吐息で笑う。

 胸にしまった鍵が、ずしりと重い。呪術を正しくを知れば、彼女の笑顔を守れるのだろうか。そんなことが頭をよぎる。


「クウィル様。手帳をひとつ攻略してもよろしいでしょうか」

「私にできることでしたら」

「わたしが眠るまで。抱きしめてくださいますか」


 どこまでもささやかな、彼女の願い。


 リネッタの身体をキルトごと引き寄せる。布越しの身体は柔らかく頼りなく、いつも凛と伸びていた背は丸く縮こまる。


 クウィルが背中を撫でると、リネッタはくすぐったそうに身をよじって笑った。

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