嘲笑こそが相応しい部屋

* * *


 聖堂というには、空気のよどみが強すぎる。

 ラングバート家の風通しの良さとはあまりに違う、重く、ねっとり絡めとりに来るような気配。

 この気配を感じているのは、リネッタただひとりだ。


「お帰りなさいませ、聖女様」


 すれ違う聖堂官たちが拝礼の姿勢をとる。たかだか十八の娘に皆がこうしてへりくだる姿は、一般的に見て、気持ちよくないものに分類されるだろう。


 正しい、間違っている、相応しい、そぐわない。


 十八年の経験と、十六歳までの自分が持っていた感覚のなごり。それを引き出し手繰たぐり寄せ、編み直して、今取るべき態度を導きだす。


「そんな風にかしこまらないでください。わたしはもう聖女ではないのですから」


 聖堂官は穏やかな顔で微笑みを返してくる。

 リネッタの導き出した正しい反応に満足したのだろう。感情が無いはずの聖女がこんな振舞いをするのを見て、不気味に思わないのだからおめでたい。

 

 感情が無くとも、生きていくのはそれほど難しくない。探り合いの夜会と同じだ。リネッタが夜会に出たのは、あの一夜限りだが。



 * * *



 十六歳になってすぐ、デビュタントとなった夜会。

 バルコニーにひとり立っていたリネッタの胸に、降るような星空から離れたまばゆい光が落ちた。


 もちろん星ではなく、確かな形も熱もなく。


 左右の鎖骨の間。そこから指三本ほど下がったあたりに光が落ちて、リネッタの体温で溶かされたように消えた。すぐにちくりとした痛みが刺して、花びらのようなあざが浮かび上がった。


 遠いアッシェフォーレン山脈で魔獣たちが歓喜の遠吠えを上げる。どうしてか、その叫びがアイクラント王都にまで届いた。声がリネッタにしか聞こえないのだということには、ずいぶん後になるまで気づかなかった。


 遠吠えにぎょっとして周りを見回すと、リネッタはたくさんの人に取り囲まれていた。セリエス家はすでに中枢を追われた名ばかり伯爵家だ。いかにデビュタントとはいえ、ここまでの注目を受ける者ではないはずなのに。


 何か粗相そそうをしたのかと焦る。しかし囲い立つ人々は笑顔ばかり。

 誰かが声を上げた。


「おめでとうございます、聖女様」


 それを皮切りに、皆がリネッタを聖女と讃え始める。


 自分に起きたことを理解した。すがる先を探して辺りを見回し、笑顔の群れの向こうに伯父を見つけた。

 伯父は好機に目がくらんだ黒々くろぐろしい笑みを浮かべていた。両親亡き後伯父がリネッタの養父となったのはこの瞬間のためだったのかと悟った。この男は、聖女を踏み台にして王宮に返り咲く気だと。


 途端、指先が震え、温度を失っていく。なぜ自分がと叫びたい気持ちは、歓声に圧倒されて声にならなかった。


 人々に押されるように、バルコニーの硝子ガラス扉に背をついた。

 硝子に映る自分の姿を見て、リネッタは愕然とした。亡き両親から受け継いだ髪も瞳も、星はリネッタから奪っていった。

 シルバーブロンドの髪を揺らす青い瞳の見知らぬ女が、憐れなリネッタを硝子の中から見つめかえしていた。



* * *



 聖剣の間は、いつもと同じように冷えている。ここだけが春から隔絶かくぜつされた永遠の冬だ。聖女の装いは生地が薄く、外界との差も相まって身震いする。

 靴を脱ぎ、冷たい床に足をつける。

 リネッタが一歩進むごとに歓喜の声が大きくなっていく。声はあの夜会で聞いた獣の遠吠えに似て、それがだんだんと人の言葉に変わっていく。

 聖剣が呼んでいる。聖女の帰りを知り、生贄いけにえを求めてく。


『よく戻った。我が花嫁』


 花嫁とはもっと祝福にたる存在だろうに。リネッタは何も答えず、すぐ側の寝台に向かった。

 もたもたと寝台に上がり、仰向あおむけに寝転ぶ。胸のボタンをふたつほど外して呼吸を楽にする。そして、目を閉じた。

 ぞわり、ぞわりと。足先から触れられていく感覚。目を開けたところで誰もいないことはわかっている。初めてここに通された日は、混乱して喉がかれるほど泣き叫んだというのに。

 どんなことにも、二年もかければ慣れるのだ。


 聖剣のつばの中心にはまった暗赤色の石が鈍く光る。まぶたを閉じても割り込んでくる光に、うっすらと目を開けた。

 その石はクウィル・ラングバートの瞳に似ている。それだけが、唯一のなぐさめになる。


 ふ、ぅ、と吐息を漏らして耐える。何ひとつ実際には触れられていないのに、心を支配されて身体をあばかれていく。この不可解な感覚。どれほど感情を喪失しても、身体は応えてしまう。

 肌を這う幻が脚を上がり、太股ふとももを撫でる。同時に、頬をなぞり、首筋をたどって下りてくる。

 胸に刻まれた聖女の印が、焼けるように熱い。

 きつく歯を食い縛り、蹂躙じゅうりんに耐える。ただただ、時を数える。


 三つ数えれば、不快は消える。その先に待つ新たな不快も、三つ数えれば消える。消して、消して。襲い掛かる不快の連続を、幾つも消して。

 そうして、リネッタは感情を消していく。

 喜びを。心踊るような楽しさを。この理不尽に抵抗するための原動となる怒りを。心を保つため、洗い流すための涙を。


 ここまで汚されたものを聖女と讃える人々の気が知れない。

 どんなに殺しても口からこぼれ出てしまうあえぎ声を耳でとらえながら、リネッタは自分を嘲笑わらう。この表情が、今、ここに相応ふさわしい。


『社交用に笑顔を作ってくださるより、私にはそのほうがいい』


 ふいに頭をよぎった声に、両目を開けた。

 暗赤色の石に向かって、リネッタは乞うように右手を上げた。

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