王太子妃の優しい依頼
* * *
聖堂に入っていく聖女の背中をまぶたに焼き付けながら、ギチギチと奥歯を噛み鳴らす。マリウスはやはり聖女の婚約に納得がいかなかった。
聖女は王家に嫁ぐという伝統があるから。だからマリウスは
伝統さえなければ、今すぐ
それがなぜ黒騎士に。それも、蛮族赤目の養い子に。
「聖女様も、同じ思いのはずだ」
この婚約は、新派貴族をさらに盛り立てたい王家の
護衛隊長に任命された日、マリウスはセリエス伯爵より直々に頼まれたのだ。どうか娘を護って欲しいと。
セリエス伯爵は旧派の中でも広く顔のきく人物だ。その娘だから王家は聖女をないがしろにするのではと、セリエス伯爵は自身の危惧をマリウスに語った。
伯爵の不安は的中した。王家は
「お救いします。必ず、私が」
マリウスは剣の柄を握り、誓いをたてるようにつぶやいた。
* * *
セリエス伯爵の強襲を受けたその夕刻、なんとなくタウンハウスに足が向いた。そんなクウィルを待っていたのは王太子夫妻だった。王家の人間がひょいひょいと伯爵家に足を運ぶものではないだろうに。
レオナルトは昼間の詰所での一件をギイスから聞き、クウィルがここに戻ると踏んだのだという。たいした
応接間にはクウィルとリネッタ、ラングバートの両親、そして王太子夫妻が集う。持ち込まれたのは、頭を抱えたくなるような話だった。
「夜会ぃ!?」
王太子妃ユリアーナが、クウィルの叫びに喜色満面で首肯した。
「
さて、見せびらかすほどの仲だろうかと。隣の人形姫の様子をちらりとうかがう。
ギイスが話していたとおり、御前試合での姿がずいぶん好評だという。異例の婚約に反対の声も多かったが、あの日のリネッタの様子を見て王都では好意的な声が増えた。
だったら今度は地方貴族を集めてということだ。王家としても、地方での噂は気がかりなのだろう。
「それで、夜会ですか」
「わたくしが主催ですから人選には配慮します。どうかしら。その……手帳の項目にもあったことだし」
ユリアーナは、リネッタの望みが書かれた手帳の中を知っている。どうやら聖女と王太子妃は立場を越えて大いに親交があったようだ。リネッタの手に重ねられたユリアーナの手がそう語っている。
どうかしらと問われたリネッタは、少し考える素振りをみせた。
「わたしは構わないのですが。エスコートはどなたにお願いすれば良いものか」
クウィルの肘が椅子の肘置きからずるんと落ちた。我が婚約者は何を言い出すのか。
「婚約者をひとり夜会に送り出すような恥知らずでは無いつもりですが?」
「え、クウィル様がお出になるのですか? 夜会ですよ?」
そろそろわかってきた。リネッタのこういう
いい具合に肩の力が抜けたところで、クウィルはリネッタに尋ねた。
「セリエス嬢の手帳の中で、夜会に関するものは何があるんですか」
リネッタは腰のスリットから、ポケットにいつも忍ばせている手帳を取り出して広げた。まるで今日の訓練工程を確認するように、淡々と。
ワルツを踊る、ドレスを選んでもらう、お酒に挑戦するといった定番が並ぶ中に、宝飾品を贈ってもらうという項目がある。
「これは、誓約錠で攻略済み、ということには」
「なりませんわね」
「ならんだろう、それは」
「クウィル、それはないぞ」
ユリアーナ、レオナルト、父の順で全否定される。母にいたっては、こめかみに筋が浮いているように見える。
当のリネッタが「そういうものなんですね」と感心したようなことを言うから、壁際で待機するニコラが「おいたわしや」という目をしている。この場にクウィルの味方はいなくなった。リネッタ本人は誓約錠で満足していそうなのに。
彼女の望みを叶えるというより、彼女をもてなしている姿を周りに見せろということなのか。婚約者としてあるべき姿を、クウィルはまだまだ理解できていない。
「わかりました。非番に合わせて明後日の夜はこちらに戻ります。少し遅くなるかもしれませんが」
「お忙しいのですか?」
王都周辺での魔獣被害が増えている。この時期にしては珍しいが、繁殖期で狂化しやすい秋に比べれば楽なほうだ。
ただ、数よりも気になることがある。なぜか魔獣はアッシュフォーレン山脈からの道中に一切被害を出さず、まっすぐ王都に狙いを定めるような動きを見せている。これまでには見られなかった行動傾向だ。
そしてもうひとつ。魔獣の眼が、クウィルに集中している。黒騎士の中で、明らかにクウィルに向かってくるのだ。赤目が魔獣を誘いでもするのだろうか。
リネッタと目があって、クウィルにしては珍しく作り笑いで誤魔化した。
「春は事務仕事が立て込むので。気になさらず、三日後。町を見て回りましょうか」
リネッタは少しの間黙ってクウィルを見ていたが、やがてうなずいて手帳を閉じた。
夜会を三週間後と定めて解散となり、王太子夫妻を見送る。馬車に乗り込む手前で、レオナルトがクウィルを手招きした。
いざ駆け寄ると、口を開いたのはユリアーナのほうだった。
「今日は、できれば屋敷に留まってくださいな」
「元々そのつもりでしたが、なぜです?」
「リネッタは今日も、聖堂に行ったのでしょう……甘やかしてあげてくださいませ」
表情を
「それは我々が強制することじゃない」
「そう、ね。本当にそうだわ。ごめんなさい」
憂いの意味するところがわからないまま、ユリアーナの謝罪に会釈を返す。するとレオナルトがクウィルの肩を叩いた。
「思ったより上手くやれているようで安心した」
「やれているとは思えませんが」
「少なくとも、クウィルが彼女をただの令嬢として接していることはわかる。正しい人選だった」
満足げにそういって、さっさと馬車に乗り込み走り出してしまった。
取り残された気分で馬車を見送っていると、リネッタが隣に並んだ。
「殿下と親しくていらっしゃるのですね」
「産みの母が殿下をお助けしたことがあるとかで。目をかけていただいています」
ともすれば、兄弟のように気安く。
クウィルの実母、オルガはかつてふたつの命を救った。兄のラルスと、王太子レオナルト。
詳しいことは知らないが、母の功績のおかげでクウィルは伯爵家に迎え入れられた。
「セリエス嬢も、妃殿下と親しいのですね」
「こどもだけのお茶会でよくお会いしていたのです。姉のように慕っていて。そのご縁で、厚かましく婚約のことをおねだりしました」
この場で王太子妃から頼みごとをされるとは思わなかった。それも、甘やかせなどと。
姉のように慕ってくるリネッタを相手に、まるでいたましく思っているかのような。ユリアーナの
「聖女の務めは厳しいのですか」
聖剣とともに二年間の旅をする。浄化の祈りを捧げる。今も、聖堂できっと祈りを捧げ続けているのだろうと思っていた。
リネッタの務めがどのようなものなのか、実態を知らない。
クウィルが尋ねると、リネッタは目を伏せ、それから笑みを貼った。
「慣れてしまえば、どうということもありません」
彼女の両腕が、おのれの身体を浅く抱くように見える。春の夜は、風しだいで肌寒くもある。
クウィルは騎士服のジャケットを脱いで、リネッタの肩にかけた。
「入りましょうか。ニコラにお茶でも頼みます」
「そうですね」
リネッタは一瞬笑顔を作ろうとして、すぐに表情を消した。代わりに左手を軽く上げて、クウィルに差し出す。
彼女の両手は誠実で、クウィルはどこか浮わついた気持ちになる。
「ところで、クウィル様はワルツはお得意ですか?」
浮わつきが一瞬で地に足をつけた。
「……せめて、最初の三拍子の間ぐらいは。貴女が左手をあげたくなるよう努めます」
クウィルは正直に答えた。するとリネッタは誰もいない庭園を見回してから、クウィルの腕をくいくいと下に引く。何事かと腰を屈めると、彼女の柔らかい息遣いが耳朶を撫でてきた。
「わたしもなのです。ですから、これは駄目だと思ったら、わたしを抱えてくるくるっと回ってください」
生真面目な顔のリネッタが、ワルツの姿勢でくるりと回る。
こんなとき、彼女に感情があったなら。
やはり真面目な顔なのか、あるいはいたずらめいた顔なのか。見てみたいものだと、クウィルは笑いを噛み殺しながら思った。
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