第三章 婚約者たるもの
セリエス伯爵の訪い
案の定というか、なんというか。
そうザシャに呆れられながらも、クウィルは結局宿舎に引き返した。
ラングバートの家族を大切に思っている。だからこそ十二歳の祝いの席での一件以来、クウィルのほうから壁を作ってしまった。リネッタのことを気にしないわけではないが、あっさりと生活を向こうに移すのは抵抗がある。
王宮図書館の管理をしている兄ラルスがたまに訪ねてくる。ラルスはいつも通りの態度で、立ち話程度に最近のリネッタの様子を知らせてくれる。リネッタからの手紙と、妹アデーレからの
ラルスは帰ってこいと決して言わない。ありがたくも申し訳なくもある。
アデーレの書付には『薄情な兄さまに、突然天から苺トルテが降り注ぎますように』と書かれている。実際に降り注げば
気が付けば婚約から半月あまりが過ぎていた。その間リネッタは四度も聖堂に足を運んだという。クウィルの想像よりも頻繁に聖剣の元に通う必要があるらしい。
宿舎の硬いベッドに寝そべって、リネッタからの手紙を読む。
そこで、扉を叩きながら開けるという無遠慮なザシャに邪魔をされた。
「返事ぐらい待てないのか」
「あによぅ、オレとクウィルの間に扉なんてあってないようなもんだろ。お客人が来てるって団長が呼んでるから伝えに来てやったのに」
「客人?」
まさかリネッタが訪ねてきたのだろうか。クウィルがすぐに身体を起こすと、ザシャがニタニタと目を細めた。
「気になってんなら、たまには帰ればいいのに」
「婚約者を気にかけるのは当然のことだろう」
「別に責めちゃいないって。ま、客人は残念ながらハズレ。ちょっとややこしい人だ」
ややこしい、とは。
クウィルが
「セリエス伯爵だよ。団長も立ち会うってよ」
* * *
団長室にいたのは、リネッタとは似ても似つかない
歳はギイスより遥かに上、五十に届くのではないか。広がりつつある額。眉間には深い
「先触れもない
相手の切り口に遠慮がないことで、クウィルは事態を察知した。だが、こちらからは何も答えず先方の出方を見る。
「単刀直入に申し上げる。婚約を破棄していただきたい」
盛大なため息はクウィルではなくギイスの口からだ。セリエス伯爵が耳ざとく、鋭い視線をそちらに向ける。だが百戦の
どうにも、クウィルはそわそわと気持ちが波打つ。ギイスが親代わりのつもりで同席していることがわかるからだ。
二十五なのに。
二十五、なのに。
その二十五歳は膝に手を置き、背筋を伸ばす。ラングバートの息子として、ギイスに見出だされた騎士として、いつも以上に
「婚約は、セリエス嬢の望みであると
「そう難しく考えてくれるな、ラングバート卿。これは貴公の立場を守るための提案だ」
「私の立場ですか?」
「ただでさえ
「噂……とは」
「想像がつこう? すでに王都の外では出回っている」
膝の上で、きつく
またベツィラフトの血がまとわりつく。おおかた、クウィルが手を回し婚約を
予想しなかったわけではない。リネッタ・セリエスの婚約者がクウィル・ラングバートと知れれば、勝手なことを
わずか半月。その間にもう、貴族は好き勝手にクウィルのことを陰で
「噂は、あくまでも噂。御前試合でのあれこれもあって、王都じゃあ好意的に受け止められておりますがね?」
ギイスが口を挟むと、セリエス伯爵はいかにも
「王の
「さすが、旧派のかたがたは現王陛下に手厳しいことで」
この噂が広まれば、婚約を後押しした王家にも
ふと、クウィルは思う。この噂は、使いようによっては自分に好都合ではないかと。
王家を巻き込んで聖女を手に入れようとした男となれば、たとえ婚約が破棄されたとして、二度と縁談など寄ってこないのではないか。
少なくとも、クウィルには
「破棄となりますと、今後のセリエス嬢の行き先が難しくはなりませんか」
「クラッセン侯爵のご子息が、娘を気に入ってくださっている」
あごが外れるかと思った。
隣ではギイスがげんなりした顔で天を仰いでいる。
「まさか、マリウス様ではないですよね?」
クラッセン侯爵家には息子が三人。奇跡を信じて尋ねると、セリエス伯爵はしたり顔で口を開く。
「侯爵家ご嫡男でありながら、娘の護衛隊長という危険な任を受けてくださったのだ。感謝してもしきれない」
クウィルの脳裏に、キャンキャンと吠えたてる男の斬撃が浮かぶ。婚約当初、素直に彼を選べばよかったものをなどと思いはしたが。
いざ、婚約破棄してマリウスがリネッタの隣に立つのかと考えると、無性に腹が立つ。もう少しでいい。ましな男はいないのか。白騎士にはそれなりの家格の貴族令息が揃っているだろうに。
いまだに聖女様聖女様と
「娘の今後については安心して、貴公は気楽に婚約を破棄してくださればいい」
「お断りする」
「ほ……」
セリエス伯爵の厳めしい顔が、どことなく気の抜けたタヌキのようになる。
クウィルは反射的に出た言葉に自分で動揺しながらも、席を立った。
「私はセリエス嬢に誓約錠をお渡しした。あの腕輪を断っていいのはセリエス嬢だけだ。間違っても伯爵閣下と私で決められることではない」
「お、おおい、クウィル……」
「訓練の時間ですので、私はこれにて!」
バタンと扉を閉めて足早に離れる。
後ろでは、ギイスの大笑いが扉を抜け出て廊下で跳ね回っている。
笑い事じゃない。何をこんなに意地になったのか、クウィル自身にもわからない。
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