18 パニック
学校最寄りの駅から電車が出て、K駅に着くまで十二、三分かかる。K駅で乗り換えの電車を待って、乗り込むまで幹生は本を読まないことにしている。頭を休ませるためだ。彼は学校を出る直前まで本を読んでいる。あるいはインターネットで検索して出てきた文章を読んでいる。学校を出てくる時の幹生の精神状態は良くない場合が多い。周囲の人間と話を交さないからだ。周囲といっても五、六メートルでも隔たっておれば少しは楽なのだが、幹生の場合、すぐ隣、すぐ前の席に嫌な奴が居ることが多い。話をする気は起きない。しかし気にはなっている。対立的な関係が出来上がっている人間だ。そういう人間とは内心で張り合っている。張り合いながら黙っている。それに神経を消費する一方で、読んでいるものの内容を理解しようとして頭は熱くなっている。会話でもすれば気晴らしになるだろう。しかし、側に居る人間を飛び越えて、その向うの人に話しかけるのもおかしいだろう。身を拘束されたような息苦しさのなかで幹生は耐えている。一時間以上、そんな状態が続いていることもある。だから学校を出る時は神経的にクタクタになっていることが多いのだ。ひどい場合は、十二、三分歩いて駅に着いても、まだ頭はジンジンと痛み、目はしょぼついている。ホームへ上がる階段に躓きそうな感じがする。だから頭をそんな状態から回復させるため、せめて乗り換えの電車に乗り込むまでは、読書を控えて神経を休ませようとしていた。それを幹生は自分を守るための戒めと意識していた。
ところが、電車の座席に座って五分ほど目を閉じていると、もうムズムズとして、鞄の中から本を取り出したい欲求が起きるのだった。頭の痺れはまだ癒えていないと自分で分かっているのに。こんな時は〈活字中毒〉という言葉が浮かぶ。いかんな、と幹生は思う。それでまた瞑目する。しかし、二、三分後にはもう目を開けている。その時、幹生は遂に抗い得ず、本を取り出してしまった。読み始めて数分すると、心理的な圧迫感が生まれてきた。ヤバイ、と彼は思う。やはりやめようと思い、本を閉じて、目を瞑る。
こういう時だ。それが起きるのは。幹生には既に予感がある。〈ヤバイ〉と思った時にそれは生じていた。
乗り換えの電車に乗り、禁を解かれた幹生は本を取り出して読み始める。読み始めて五分ほど経った時、それは始まった。始まり方はいろいろある。顎の下、喉仏のあたりがむず痒くなる感覚から始まることもある。この感覚は幹生の弱点で、寝ているときにこの感覚に襲われると、喉に触れている衣類や夜具を遮二無二払いのけたくなる。他人の存在が引き金になることもある。隣に座っている男と大腿が接触していて気持が悪い。もう少し横にずれてくれればいいのに。前に座っている男の目がどうも自分を威嚇しているような気がする。あるいは、前に座っている女の、短いスカートからむき出しになっている両膝の、その間の闇の奥はどう見えているのか。等々。それらの気掛りをじっと抑えて本を読み続ける。しだいに集中できなくなる。苦しくなる。文章の意味が読み取れなくなる。ページがノッペラボーの空白に見えてくる。何かが内側からせりあがってくる。焦燥のようなものが衝きあげてくる。抑えろ、抑えろ、と内心で言う。ああ、苦しい。この切迫感は何なのだろう。幹生は自ら訝しむ。しかし衝迫は弛まない。苦しい。とても読んではいられない。パニックだ。幹生は目を閉じる。嵐が過ぎ去るのを待つ。しかし激しい苛立ちは治まらない。その昂まりが電流のように幹生の胸から頭へ二度、三度と突き抜ける。彼は叫び出しそうになる。今叫べばどうなるか。乗客が一斉に自分を見る。自分はおかしな人と見なされる。そう考えて幹生は必死で自分を抑える。歯を食いしばる。深呼吸をしようとする。だができない。隣の乗客はもう自分の異常に気づいたのではないかと懼れる。
二、三年前から表れてきた変調だ。幹生は職場でのストレスがその原因と思量していた。長期に渡る神経の緊張と酷使。それがもたらした神経症の一種と考えていた。そう考えると、職場にいるのも、もう本当に限界なのだと幹生は思うのだった。己が被る傷が深くならないうちにやめるべきなのだと。しかし、それもできないのだ。あと三年だ。あと三年で定年だ。幹生は何度もそう思った。だが、その三年間に良くない事が起りそうな気がして、彼は不安だった。対人的なトラブル。仕事上のトラブル。あるいは病気、事故などの一身上のトラブル。そのどれかが起りそうな気がするのだ。
もっと精神的にリラックスしなければいけないとも思うのだった。電車の中で、時には本を読まずにボーとしていてもいいのではないか。そんな時に幹生は自分の裡に根を張っている〈合理的精神〉と対面することになる。彼を読書に駆り立てる要因の一つは〈合理性〉への志向なのだ。通勤時間を読書に当てる。これは時間を有効につかう合理的な行為だ。ムダはなくそうと彼はいつも思っていた。それは〈意味のないことはしない〉という言葉で表される彼の生活信条と一体の考え方だった。それが自分でもせわしなく感じられることもあった。〈合理〉ではなく〈功利〉ではないかと思うこともあった。いつもガツガツしている自分を浅ましく感じることもあった。しかし幹生は、その〈合理性〉の枠から脱け出すことはできないのだ。だから彼にはこうしたパニックも、自ら選んだ生き方がもたらす不可避的な罰のようにも思われるのだった。
降車駅まで後数分となった。なんとかやり過ごせそうだ。幹生はほっと息を吐く。しかし、また昂まりが来る。もうすぐ楽になる、あるいは、もう楽になった、と思うと、その思いこそ撲滅すべきものだというように、自ら新たに苦を導き出し、その中に自分を追い込む厄介な己の心性を幹生は知っていた。彼は目を閉じ、拳を固く握り、爪の先を
了
擒の記 坂本梧朗 @KATSUGOROUR2711
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