17 トワイライト(2)

 外はすっかり夜だった。火照る頬に冷気を感じながら、幹生は駅ビルに向って歩いた。やはりシャワーを浴びると気持はいい。今日は終った。後は帰って、酒を飲んで、テレビを見て寝るだけだ。解放感、ちっぽけな。明日はどうなるかわからない。が、とにかく今はほっとしていい。


  多くの人々とすれ違う。忙しげに足早に歩く女性。飲み事の帰りなのか、三、四人で連れ立ち、声高に話す中年男性のグループ。若いカップル。幹生はその誰にでも自分を持して歩く。余計な関心はいらない。放縦は危険だ。他人に長く目を留めてはいけない。近づくにつれて自然と目が合い、そして離れる。滞ってはいけない。それでこそ平安は保たれる。このちっぽけな平安が。


 幹生は計算している。電車が出るまでの時間。発車時刻はスポーツクラブに掲示してある時刻表で確認していた。十分に余裕がある。肉饅でも買おうかと思う。ホームまでのショートカットの経路を捨てて、中央の改札口を通るコースに変更する。大回りだが、肉饅を売っているキオスクの前を通ることになる。来た時と逆コースだ。肉饅が売切れていないかどうかが問題だ。


 改札を抜けて、キオスクに近づいて、カウンターに目をやると、肉饅のパックが二つほど置いてある。大きな肉饅二つ入りのパックは売切れ、小さいのが十個入ったパックが残っているようだ。カウンターの向こうにはお下げ髪の、胸の大きな娘が立っている。年配の、化粧の派手な女でないことに幹生は少しほっとする。幹生はそこでちょっと引き返し、角を曲り、四台ほど並んだ公衆電話の前に立った。家に電話して、妻に肉饅を買うことを告げようと思っている。肉饅を買おうと思うがどうか、と問うのだ。妻はその日の夕食のメニューが淋しく、もう一品欲しいと思っている時は、買ってきて、と言う。品数が足りていれば必要ないと言う。もちろん、幹生の好きなように、という返答もある。夕食を作る妻の労力を軽減したいという意図を生かすとすれば、スポーツクラブに入る前に電話をした方がよい。レッスンの後では既に夕食は出来上がっている。しかし、クラブに入る前に買えば往復の荷物になるし、帰り着くまでに肉饅は冷たくなってしまう。この電話の目的の半ばは、今から帰るという連絡なのだ、と幹生は自分を納得させる。


 肉饅のパックをビニール袋に二重に包む娘の手先の動きから、幹生の視線は制服の胸の盛り上がりに流れる。


 ホームに下りる。電車の乗降口を示す印の位置にはまだ誰も立っていない。幹生は先頭に立つことになる。立っていると所在ない。


 幹生にとって電車を待つ時間ほど嫌なものはない。彼はその時間を短くしようといつも努めている。学校から最寄りの駅まで急ぎ足で歩いて十二分かかる。だから彼は電車の発車時刻の十五分前に学校を出る。駅に着いてもすぐにはホームに上がらない。電車が接近すると、「間もなく二番ホームに列車が到着します。危険ですから、黄色い線の内側でお待ちください」というアナウンスが二回くり返される。幹生はその二回目が終ってから十秒ほど待って、ホームへの階段を上り始める。階段を上り終えるころ、電車がホームに滑り込んでくる。


 これには別の理由もある。ホームに出れば生徒達がいる。その中には携帯電話を取り出して操作している者が必ずいるのだ。学校に持ってきてはならないことになっている携帯電話だ。その姿を見れば教師である幹生は注意しなければならない。そればかりか携帯電話を取り上げなくてはならない。それが煩わしいのだ。幹生を教師と知っている生徒は慌てて携帯をしまいこむ。隣の者に目配せする生徒もいる。こんな退勤時に携帯電話を取り上げれば、家に持って帰って一晩預かり、翌日、学校に持参して担任に渡すことになる。もし持参を忘れたり、紛失・破損したりなどすれば幹生が困ることになる。そんな煩わしいことはしたくない。それで幹生はぎりぎりまでホームに出ない。ホームに出たら、嫌なものは一切見ずに、即電車に乗り込むというのが最高なのだ。もっとも、電車の中で携帯を取り出している生徒を目にするという場合も少なくないのだが。生徒の中には、幹生が摘発しないことを見越して、彼の眼前でこれ見よがしに携帯電話を操作する者もいた。それが回を重ねると、幹生も体面上、見過ごすことができなくなるのだった。


 幹生は肩掛け鞄から本を取り出す。彼の鞄の中には常に本や雑誌が入っている。彼は出勤・退勤の電車のなかでいつも読書をしている。彼の読書計画が途切れることはない。しばらく読むと疲れを感じる。腕時計を見るとさっきから三分も経っていない。電車が来るにはまだ間がある。


 彼はふと思い起す。電車を待つ列の先頭に立っていて、後ろの人間から線路に突き落された男のことを。その男はホームに入ってくる列車に轢かれて死んだ。男を突き落した青年は、「誰でもよかった。人を殺したかった」と語った。幹生は後ろを振り向きたくなる。既に何人かが彼の背後に並んでいる。振り向いて、自分の後ろの人間の顔を見て、危険度を判定したいという思いに幹生は駆られる。しかしそれはしづらい。そんなことまでしなくてもという思いもある。とんでもない世の中だと彼は思う。もう落着いて本を読むことはできなくなった。気持を引き締めていなければならない。黄色い線の内側にはいるが、更に少し後退する。背中を押されても線路に落ちないように足を踏ん張ってみる。


 この国の駅では通り魔による殺人事件が頻発している。犯人の口からは「誰でもよかった」という言葉が常套句のように出てくる。列車から吐き出され、ホームへの階段を上りながら、この階段の上方でワァー、ギャー、という叫び声があがり、逃げ惑う人々が階段を転げ落ちるように下りてきて、その背後から刃物を振り回す通り魔が現れ、呆然と立ちすくむ自分の眼前に迫ってきたら、と想像して、現実のような切迫感に襲われたことが幹生にはあった。何が起きるか分からない世の中なのだ。非正規雇用で使い捨てにされ、一夜にしてホームレスに転落する人が数十万人も生まれているご時世だ。年間の自殺者は三万人を十年以上も越え続けている。人間がボロ屑のように粗末に扱われている世の中だ。いつキレる人間が現れても不思議ではない。だからいつも用心をしている。ホームで、電車の中で、人とのトラブルをいつも慎重に避けている。このちっぽけな平安、しかし、かけがえのない平安をキープしようとして。

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