16 トワイライト(1)
改築されて駅ビルは巨大化した。その腹にはモノレールが乗り入れた。以前の駅の方が幹生には好ましかった。一番よかったのはホームから空を仰げたことだ。視界を遮蔽するものが少なく、隣のホームばかりか、その向うの向うまで見通すことができた。開放感があった。改築された駅は全てのホームをすっぽり駅ビルが覆ってしまった。頭上にある鉄とコンクリートの巨大な質量に、頭を押えつけられている感じで重苦しい。陽の差さない空間は照明があっても何か暗い感じがする。ホーム上にも階段やエスカレーター、キオスク、うどん・ラーメン店などが作られ、横方向の見通しも悪くなった。幹生はこのK駅で乗り換える。
列車から吐き出されると、エスカレーターへ向かう。エスカレーターは二列になって乗る。左側の列は歩かなくていい。右側の列はエスカレーターの段を階段のように上っていく。ゆっくりしたい幹生は左側の列に入ることが多い。逆進したとか、挟まれたとか、エスカレーターの事故が続発した頃、幹生はテレビの解説で、エスカレーターは一段に一人、立ち止まって乗ることを基本に設計されていることを知った。とすれば、通勤者が日常的に行っている乗り方は適正ではないのだ。それが咎められないのはなぜか。こんな乗り方をするのは日本だけではないのか。しかし、幹生にもその乗り方は既に身に付いていた。空いているエスカレーターで下る時も、つい歩き下りてしまう。目当ての電車が既にホームに入っている時はもちろん、間もなく入ってくる時も、座る席を確保しようとして急いでしまうのだ。
階上が改札階だ。横一列に七台の自動改札機が並んでいる。自動改札機に向う通路の両側にキオスクがある。幹生に縁があるのは右側の売店だ。ここで彼は出勤時、ペットボトル入りの水を買う。時には昼食のサンドイッチを買うこともある。帰宅時には肉饅を買うこともある。
カウンターの向うに立つ女性は日によって入れ替わる。ちょっと肥った、ふくよかな顔をした娘がいる。この娘の応対は外見に似ず、てきぱきとしている。目の大きな、顎の先の尖った、お下げ髪の娘がいる時もある。顔は小さくほっそりしていて、痩身の印象を与えるが、その顔と不釣合いに胸が大きいことに幹生は最近気づいた。紺の制服を着ているので目立たないが、かなりの角度で制服を押し上げている。白粉を塗ったような白い顔で、目尻の上がった目を濃いアイラインで縁取った娘もいる。髪はアップにしている。
ローテーションにはさらにもう一人加わる。これは年配の女で、立てた髪の毛を茶色に染めている。大きめの顔には白粉をたっぷり塗り、目にはアイラインを施している。上まぶたはラメのような艶のあるアイシャドウで光り、唇もエナメルを塗ったようにぬめっている。口が大きく、しゃべると並びのいい前歯が歯茎まで見えた。
幹生はこの女の顔を初めて見た時、しげしげと見つめていたい欲求に駆られた。どうしてキオスクにこんな派手な化粧をした女がいるのだという思い。キャバレーにでもいるのが相応しい、男を誑かす享楽的な女の典型的な顔ではないかという思い。しかし、幹生は決して嫌悪感を抱いたわけではなかった。逆だった。彼はこの場違いな化粧の女に興を覚えたのだ。面白いと思ったのだ。それが女にも伝わったのだろうか。女は幹生の目を見てにっこりと笑った。それからは幹生が物を買う時、女はいそいそという感じで対応した。幹生は自分に対する女の好意を感じた。それは擽ったい気持を起させた。幹生は女に抱く自分の感情がまともなものではなく、例えて言えば、珍しい動物に対する興味・関心に似たものであることを意識していた。それは女に対して失礼な気持であり、それを女が好意と受取ることは申しわけないことであった。そう思う幹生は、女の誤解を生まないよう、ことさら素っ気ない、事務的な態度で女に接するようになった。ただ欲しい品物を言い、受取って金を払うだけ。笑顔も見せず、余計な言葉もかけない。すると、それまで幹生の顔を見ればにっこり笑っていた女が、出ようとする笑顔を引っこめるようになった。それはそれで幹生の気持を傷め、淋しい思いをさせることだった。
自動改札機を抜けると広いコンコースに出る。東西に三十メートル、南北に五十メートルほどの広がりがある。突き当たりの西端にはモノレールの券売機と自動改札機が並び、階上に目をやるとモノレールの駅がある。コンコースの中央に立って真上を見上げると、天井にはいくつかの同心円が内側になるほど窪むように穿たれている。北端は駅の北口に出る通路につながり、通路の入口上部の壁には4×5メートルほどのスクリーンがあって、絶えず映像を流している。南端は階段とエスカレーターにつながっている。コンコースの天井の上にはステーションホテルが乗っている。コンコースの東西は様々な店が入ったショッピングビルにつながっている。
改札機を抜けた幹生は左に折れ、南口に向う。コンコース南端の階段を下る。下り立ったフロアは地上ではない。まだ二階だ。このフロアはそのまま駅ビルと駅前のデパートをつなぐ通路につながる。通路は三十メートルほどの長さがある。デパートの建物は十六階まであるが、十一階から上は円筒形になっている。この建物の建設は駅ビルの改築と同時進行で行われ、駅前再開発の目玉となっていた。ところがオープンすると、中央から進出してきた大手デパートの売り上げは振るわず、高い賃貸料も負担となり、遂に撤退を余儀なくされた。次に進出してきた二代目のデパートも、これも全国的に店舗を展開している大手だったが、やはり業績不振で撤退した。そして現在は戦後長く地元に根を張り、隆盛を誇ってきたデパートが請われる形で建物に入っていた。幹生は今宵はこの建物に向うのだ。
通路はデパートの二階につながっている。入口を入ると右手にエレベーターが三基ある。幹生は三つとも上りのボタンを押す。三基のどれかが近い階にあればラッキーだ。例えば、上りのマーク(▲)が点灯していて、「1」とか「B1」にエレベーターがあれば。しかし実はこれも確かではない。(▲)で「1」であっても、どういうわけかさっぱり上がってこないことがある。下りのマーク(▼)で「7」だった隣のエレベーターが忽ち(▲)に変り、「2」となることもある。だから幹生はエレベーターの表示が(▲)で「1」となっていても、騙されないぞという気持でそのエレベーターの前には進まない。苦い思いは繰り返したくないのだ。ごく稀にだが、エレベーターの前に着いた途端に上りのエレベーターの扉が開くことがある。この幸運にはまだ一、二度しか巡り合っていなかった。
幹生が目指しているのは十階のスポーツクラブだ。エレベーターが停止し、「十階です」と案内の女声が告げる。幹生は「モーゼの十戒」と呟いてエレベーターを出る。ジュッカイ、の語呂合せだ。それは殆ど条件反射のようになっている。学校のエレベーターで五階に到着して、「五階です」と告げられると、「それは誤解です」と呟かずにはいられないのと同じだ。ちょっとしたギャグ。だが笑う者はいない。
スポーツクラブの入口に入り、「こんにちは」と声をかけてくるカウンターの中のスタッフに、「こんにちは」と挨拶を返し、会員証を渡す。相手の笑顔に幹生も笑顔をつくって応じる。すれ違うスタッフは大抵挨拶をしてくるので、話を交わすことがある者は殆どいないのだが、これにも努めてにこやかに挨拶を返す。学校で生徒に対するのに似ている。
幹生は〈ピラティス〉のレッスンを受けるつもりだ。午後六時十五分のレッスン開始まで十分ほど時間がある。ちょうどよい余裕だ。幹生は男子のロッカー室に入り、着替えを始める。冬場は厚着のうえ、外套まで着ているので、着替えが手間取る。ロッカーにはハンガーが二本しか入ってないので、服を内外の二つに区分し、着る時の便宜を考えて、ハンガーに掛ける順番にも工夫が必要だ。着替えていると、インストラクターの彼女のアナウンスが始まった。
「館内ご利用中の会員の皆様にお知らせ致します。間もなく六時十五分より、第二スタジオにおきまして、ピラティス入門のレッスンを行います。このレッスンは…… 」
彼女のアナウンスには言い方や抑揚にこれという特徴がない。スタンダードなアナウンスだ。ただ声はあの愛らしい声だと幹生は思って耳を傾けた。
スタジオに入ると彼女がすかさず挨拶の声を掛けてくる。幹生は思わず笑みを浮かべて挨拶を返す。彼女は他の人と話をしていて、幹生に声を掛けられない時も、幹生を見ると会釈をする。それも頭を大きく振る会釈を。幹生は彼女と顔を合わす時、彼女の肢体がいつも眩しい。上半身にはキャミソールかタンクトップのスポーツウェア、下半身には膝までのスパッツ。胸元は開き、乳房の谷間が覗く。スパッツは腰から臀部、大腿に密着し、彼女の肉体の曲線を忠実になぞっている。
幹生は彼女との間に特別な繫がりを感じている。幹生が彼女と出会ったのは〈アロマストレッチ〉というレッスンだった。芳香のなかでゆっくり体の伸縮を行うソフトなレッスンだ。それは幹生が参加を始めて二、三回目のことだった。参加者が座った状態で、彼女が前に立って模範動作をしてみせていた。幹生は前から二列目あたりで、彼女と向き合う位置に座って、彼女を見上げていた。幹生の視線が彼女のスパッツの股間に流れた。エっと彼は思った。そこに彼は亀裂をみたように思った。女性器を象ったような亀裂を。幹生はさりげなく再びそこに視線を当てた。その時彼女はしゃべっていて、動いてはいなかった。彼女の股間にはやはりくっきりと亀裂が表れていた。スパッツの皺が亀裂を作っていた。幹生の頭がふっと熱くなった。瞬間だが、そこから目が離せなかった。幹生は彼女の顔を見た。彼女も幹生を見ていた。彼女の目が大きく見開かれたような気がした。幹生はこの
彼女はクラブで幹生を見かけると声をかけてくるようになった。昼食の弁当を食べていた幹生の側に座って、しばらくの間、話を交したこともあった。幹生はプールもよく利用した。プールはスタッフが交代で監視に立つ。彼女が当番でプールサイドにいると、幹生は彼女に話しかけ、プールの縁で二人はしばらく話を交す。彼女の顔で特に愛らしいのは目だと幹生は思っている。ある時、プールで出会うと、その目の印象が変っていた。化粧が濃くなった感じで、しっとりとした大人びた目になっていた。好きな男でもできたのかなと幹生は思った。幹生は思い切ってそのことを口に出した。
「目のまわりの化粧が変ったね。美しくなったね。いや、もちろん前から美しかったけど」
幹生には珍しく軽口めいた言い方になった。彼女は微笑み、そうかな、というように小首を傾げ、別に変えていない旨を答えた。そうだろうか。一月ぶりくらいに会ったからそんな印象を持ったのかな、と幹生は考えた。しかし、そう考えても、変ったという印象は消えない。そして、自分の娘よりも年下になるような女に、化粧が変ったとか、美しくなったとか言っている自分に面映さを感じる。特別な感情を抱いていることを白状しているようなものではないか、とも思う。何となく幸福感のようなものが幹生の心を温めている。
〈ピラティス〉のレッスンは学校からの帰りにちょうどいい時間帯にある。週一回のレッスンに参加を始めて一年以上になっていた。
「息を吸って、口を半分開けてハァーと吐きます。フーではなくハァーです」
「吐いて、吐いて、吐き切って。お腹をひっこめて。おヘソのスイッチを押して」
「息を吸って。吸ってもお腹は膨らまない。おヘソを背骨に近づけて。お腹をうすーくします。吸う時は背中の方にも息が入るのを意識します」
胸式ラテラル呼吸。ピラティスの呼吸法だ。
「肋骨に手を当てて、息を吸う時、肋骨が膨らむのを感じてください。吐くときは両手で肋骨を押して萎ませるように。お腹はいつもぺったんこ。お腹にはいつも力を入れて」
「息を吸って、肋骨を開いて。息を吐きます。吐いて、吐いて、肋骨を閉じて閉じて」
彼女の声がしだいに甲高くなる。
「息を吸って右手を上げて、吐いて下ろします。肩甲骨をお尻のポケットにしまいこむように」
「肩を上げない。耳と肩の距離を十分長くして。正しい姿勢を作ってください。背骨の一つ一つを伸ばして、骨盤を立てて」
正しい姿勢。これも彼女が強調することだ。
「息を吸って。吐いて。骨盤を後傾させます。恥骨を上に向けて。息を吸って。吐いて。今度は反対。反り腰を作ります。骨盤の柔軟性を高めてください」
このレッスンは運動量が少ないのが幹生の不満だ。彼女がヨガを指導してくれたらいいと幹生は望んでいた。ヨガはもっと体を動かす。しかし、近頃は、これはこれでよいかとも思いだした。アウターマッスルではなく、インナーマッスルを鍛えるトレーニングだ。体の奥深くにある、日頃使わない、意識もしない筋肉。それを鍛える運動は普通の運動と異なるのは当然だ。その運動は外見的には普通の運動で腹筋を鍛える形に似ている。しかし、鍛えられているのは表層にある腹直筋ではなく、内部の腹横筋なのだ。見た目には激しくなくても、インナーマッスルに対してはかなりの運動量なのかもしれない。
動作をしている参加者の間を彼女が巡る。幹生の側を彼女は何度も通り過ぎる。体に触ってくれないかなと幹生は思う。「ちょっと触りますよ」と断って彼女は参加者の体に手を触れ、動作や姿勢を矯正する。幹生の体に彼女が触れないまま、レッスンが終ることもある。触れてもそれは一レッスンに一度だけだ。幹生の肩に彼女の手が触れ、膝を幹生の背中に当てて、背筋を伸ばそうとして、「脚を当ててごめんなさいね」と彼女は断った。幹生はその言葉に彼女の優しさを感じた。
仰向けに寝た姿勢から腹筋を使って起き上がることが幹生はできない。三十度くらいに背中を上げるのが限度だ。ウーンと歯を食いしばる幹生に、「もう少し、ガンバレ」と彼女は声をかける。毎回に近い。彼女の声に他の参加者が自分を注視するのが恥ずかしいので、幹生は声がかかる前に適当に脚で弾みをつけて起き上がる。
レッスンの間、彼女と幹生の目は頻繁に合う。彼女は自分を特別に意識していると思って幹生は満足する。
レッスンが終ると、彼女は出入口の脇に立って、退出する参加者一人一人に、「ありがとうございました」とか「お疲れ様でした」と声をかけて頭を下げる。幹生は彼女と向き合う時、できるだけにこやかな表情で彼女に微笑みかけようと努める。
ロッカー室に入ると、シャワーを浴びる。体を洗いながら学校での生活を思う。きつい日々だ。その割に内面的な充足はない。いつまで自分はもつだろうかと思う。だから、せめてこうして体に手当をしていると思う。体を労ってやっているのだと思う。彼女を思う。彼女との触れ合いは淡くてもまさに癒しだ。干乾びる心に注がれる慈雨。時間割係の彼女と同じだ。幹生は彼女らを心の裡で〈マドンナ〉と呼んでいた。彼女らはまさしく砂漠を歩く自分にとってのオアシスだと彼は思っていた。カフカにも周囲にそんな女性がいた。ソルジェニーツィンも収容所の中で、そんな女性を見出していた。ブレヒトにも彼を励まし支えた何人かの女性がいた。自分にもいていい。文学者にはそんな女性が必要なのだ。幹生は自分を文学者になぞらえて、少し微笑んだ。
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