15 玉砕(2)
幹生は手の焼ける三人の中でTが一番苦手だった。OとMにはまだ話しかけようという気持が起きるのだが、Tには起きなかった。幹生はTが自分に対して激しい反発と拒否の感情を抱いていることを感じていた。それは出会いの当初からのものだった。だからTの反発と拒否は自分と接することで生まれたものではなく、Tが教師という存在に対して元から抱いている感情ではないかと幹生は考えていた。OとMとT、この三人が幹生の授業を掻き乱す元凶だった。三人は互いに大きな声で話を交わし、他の生徒にも話しかけ、教室内を動き回り、席を勝手に変った。席を変るのはTが最も多かった。生徒の行動についてあまり注意をしなくなっていた幹生だったが、席の勝手な移動については注意して元に戻らせた。教室内の秩序の維持にそれは最低限必要と思われたのだ。OとMは何度か注意を重ねると自分の席に戻った。しかしTは全く受けつけなかった。側にまで行って、その非を説いても、口では「はい、そうですね」「わかりました」などと言いながら、座ったままで、自分の座席に戻ろうとはしなかった。Tが潮見が顧問であるサッカー部のキャプテンだと知った時から、幹生にはきっと手を焼かせる生徒だろうという予測があったが、それは的中していた。教師を平然と無視する横着さではTは他の三人より勝っていた。若い時の幹生なら我慢できずに叩くか、教室の外に連れ出すか、職員室に呼び出すかしていただろう。しかし、現在の幹生にはそんなことの無意味さが思われた。にもかかわらず、Tに対してはその横着さと、目が細く、頬骨の張った、愛らしさのかけらもない顔つきのために、ややもするとそんな挙に出てしまいそうな気持になりかけるのだった。そのことへの危惧が幹生に、Tに対する憚り、遠慮、苦手意識を抱かせることになっていた。放っておくと、Tはいつのまにか自分の席に戻っている。注意には反発するが、放っておくとそんなに羽目を外すことはない。Tなりの判断をしているのだろう。これはTだけではなく、OとMにも言えることだった。
Tは放課後、よく職員室に現れる。キャプテンとして顧問の潮見にその日の部活の練習メニューを訊きにくるのだ。潮見の席は幹生の隣のブロックにあり、幹生の斜め前になる。Tは幹生の横を通って潮見の席に行き、帰りにまた幹生の横を通るのだ。横を通るTに、<おい、T。お前の授業中の態度は何とかならんか>と声をかけたらどうなるだろうかと幹生は思うことがある。Tは潮見の前で言われて恐縮するだろうか。潮見は自分が顧問である部活のキャプテンの、授業態度の不良を言われてどんな反応を示すのか。潮見は日頃、部活と勉学の両立をよく口にしている。その言葉と矛盾する実態が露わになるわけだ。よせ、よせ、と幹生は思う。俺は告げ口はしないのだと思う。「チクリは嫌いだ」と言った自分の言葉も思い浮かぶ。顧問の前で生徒の授業中の態度の不良を言い、圧力をかけて従わせる。そんなことは俺はしない、無意味だ、と幹生は思う。Tが自分に対して拒否的な態度をとっていることを思えばなおさらだ。それはTとの溝を深くするだけだろう。生徒に言うべきことがあれば、余計なプレッシャーのかからない状況で、一対一で言うべきなのだ。
潮見はTに部員の状況を質し、その答えの不十分さを指摘して、キャプテンとしての心配りなどを勿体ぶって話している。Tは潮見の一言一言に神妙な顔で「はい」と答えながら聞いている。その図に幹生は苦笑を浮かべる。Tはどんな気持で聞いているのか。授業中のTを思うと、真面目に聞いているとは思えないのだ。内心、口うるさい奴だと潮見を嫌っているのではないか。潮見もまたTが嫌いなのではないか。卒業アルバムに載るサッカー部の集合写真で、顔を上に向け、目だけを見下ろすようにカメラに向けているTの表情が傲慢だと、潮見は写真の差し替えを写真屋に求めたが、そこにもTを嫌う潮見の気持が覗いているのではないか。Tが入試旅行から帰って、土産としてその土地の名物の菓子を潮見にやったのだが、賞味期限が過ぎていた。本当に土産として買ったのかと潮見は疑い、Tを職員室に呼んで質した。Tは潮見に渡すのが遅くなったと弁明した。幹生はこのやりとりを苦笑しながら聞いたのだが、Tの潮見に対する冷めた気持が感じられるのだった。
潮見がサッカー部の顧問になって十年以上になっていたが、部は県大会より上の大会に出場したことがなかった。県大会でもベスト8が最高だった。それは頃末の弓道部も同様だった。生徒の力を引き出せない、二人の無能の証左として幹生はそれを見ていた。
ビデオの音量操作のいたずらは続いていた。
「いい加減にせんか。なぜこんなことしかできんのか」
幹生は生徒達に問いかけた。するとそれに答えるようにニ、三度音量が上下した。そしてプツンと音がして、画面が消えてしまった。
遂にビデオを打ち切ってしまった。ここまでやるかという思いで、幹生は軽いショックを受けていた。音量を操作するのはまだいたずらの域だが、ビデオの上映を打ち切ってしまうのは幹生の授業に対する完全な拒否であり、否定であると思われた。
「止めだ」
幹生はそう言って椅子から立ち上がった。
「お前たちには礼儀もクソもない」
幹生はテレビの前の列の生徒達に吐き捨てるように言い、ビデオデッキからテープを取り出し、テレビにカバーを被せた。
「止めるんですか」
生徒から声があった。
「ああ、止める」
幹生は答え、〈お前たちには豚に真珠だ〉という言葉を言おうとして呑みこんだ。幹生の観察ではビデオをまともに見ている生徒は一人もいないようだった。いつも一人だけ幹生の授業を真面目に受けていた生徒も、今日は問題集か何かを出して、それをやりながら、時折ビデオに目をやる様子だった。試験が迫っているのだろうし、教室の雰囲気を考えれば無理からぬことと幹生は思った。だから幹生はビデオ上映を止めることにためらいはなかった。
最後の授業も惨憺たるものだな、と思いながら幹生は教壇に立っていた。むしろ最後の授業で止めを刺されたという思いがしていた。後十分ほど時間があった。どうしようか。授業の締め括りとして何か話すか。その予定はなかった。ビデオの上映時間が授業時間ぎりぎりだったから、ビデオが終れば、内容について一言、二言述べて終るつもりだった。何を話したものか。幹生は教室を見回した。幹生の方を見ている生徒はほとんどいないのだった。何も話さず、放っておいてもいいのかもしれなかった。しかし、苦労したクラスの授業がこれで終るのだと思うと、何か最後に語っておきたい気持も動いた。
「今日が最後の授業なんだが」
幹生は切り出した。
「何しろこのクラスは週八時間も授業があって、どういうふうにやったらよかろうかと悩んだのだが」
幹生がそう言うと、生徒の一人が、
「先生、やめようと思ったん? 」
と声をかけた。幹生は咄嗟にその言葉を、自分が悩んで教師をやめようと思ったのかと訊いたのだと受取り、苦笑を浮かべた。彼らにはそのように自分は見えていたのかと思い、少し衝撃を受けた。俺はそんなに弱くない、と内心で反発した。幹生は、週八コマも授業があるので、どのように生徒の興味・関心を喚起し、授業の面白味や新鮮さを維持するかに悩んだということが言いたかった。そして結局それに失敗したと言うつもりだった。しかし、言葉が続かなくなった。彼は話を礼儀やマナーの話に変えた。それは授業のなかでも何度か話してきたことだった。
「お前たちは古文に興味・関心がない。それは仕方がない。俺にはそのお前たちの心をどうすることもできん。しかし、せめて、規律と礼儀はわきまえろ。たとえ興味はなくても、授業中は静かにして、人の話を聞け。それがマナーでもあるし、ルールでもある」
授業をしていて教室の騒がしさがさすがに気になると、幹生は注意かたがたこんなことを生徒に語ってきたのだ。卒業が迫る生徒たちなので、幹生はそれにつけ加えて、社会に出て必要になることとして、特に年長者に対する礼儀、先輩の話を謙虚に聞く態度の大切さを語った。
「今も私の話など聞かず、進路に向けての勉強をせっせとやっている者が半分以上いる。それはそれでよい。君たちもなかなか自分というものをしっかり持っていた」
それは教師の言いなりにはならないというところ示す者が多いスポクラの生徒の特徴を皮肉な形で述べたものだった。苦言ばかり言うのも気がひけるので、幹生はそんな屈折した形で生徒たちをほめてやった。実際、学年末考査では、古文、現代文とも、中間考査に比べて平均点が十点ほど上がっていたので、ほめてやるのにもさして抵抗は感じなかった。最後に、悪環境の中で、授業への集中を一人貫いた生徒を、「見事だった」と褒めて、幹生は話を終えた。その生徒の隣の者が、「こいつ、違うことをしていましたよ」と幹生に告げた。「いいんだ。いいんだ。今日はいいんだ」と幹生は笑顔で応じた。
授業を終えて、幹生が職員室への廊下を歩いていると、最後にほめた生徒が後を追ってきた。
「先生、ほめていただいてありがとうございました」
生徒はそう言って頭を下げた。
「突然だったので、僕は何を言われているのかわかりませんでした」
生徒は言葉を添えた。生徒の大きな目が幹生を見つめていた。
「いや、こちらこそありがとう。君のおかげで僕も助かったよ」
幹生は授業中いつも自分を見つめていたその瞳を、しっかり見返して言った。
職員室に入って、自分の椅子に座って一息入れていると、予期した通り吉崎が幹生の前に現れた。
「先生、さっきの時間、どうしたんですか」
吉崎はOが壁を拳で叩いていた件を訊いてきた。
「うん、ふざけて叩いたんでしょうね。困った奴だ」
幹生は、きたな、と思いながらそう応じた。
「僕は隣の八組で授業をしていたのですが、ドンドンと大きな音がするので、一体何が起ったんだと思って」
「う、うん」
幹生は頷いた。本来なら迷惑をかけた側である幹生が先に詫びの言葉をかけるべきところだったが、事件を問題にしようとする吉崎の意図を警戒するばかりで、そんな配慮をする余裕が幹生にはなかった。吉崎は七組の担任の姿を認めるとその側に行き、事件を伝えた。吉崎と担任が幹生の側に来た。
「先生、どうかしたんですか」
担任が幹生に訊いてきた。吉崎と同じく三十前後の年齢である。
「いや、Oがふざけて壁を叩いて」
幹生は苦笑いをしながら答えた。
「ふざけて?」
担任は訝しげな顔つきで訊き返した。
「うん、ふざけてだな」
幹生は頷いた。
「授業中にですか」
担任は呆気にとられたような表情をして、呟くように言った。
「あいつが便所から帰ってきて、席に着かずに壁を叩きだした。注意しようかと思っているところに吉崎先生が入ってきた」
幹生はそう言って吉崎を見た。吉崎は頷いた。
「僕は八組で授業をしていたんだけれど、大きな音がするんで、何かあったんだと思って顔を出したんですよ。そしたらOが壁を叩いていました」
「Oは何か言いましたか」
担任が訊ねた。
「いや、特別には」
吉崎は答えた。
幹生は自分の顔が火照っているのを感じた。耳まで赤くなっているだろうと思って、自分を不様に感じた。
「分かりました。Oに後で訊いてみます」
担任は言った。
Oは担任に訊かれても、ふざけていたとしか答えないだろうと幹生は思った。自分の言葉と一致するので、注意を受けて、一件落着となるだろうと彼は推測した。授業中の生徒管理ができていないという例証にはされるだろうが、それは仕方のないことだと幹生は苦く思った。
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