14 玉砕(1)
いよいよ最後の授業となった。その時間は現代文の授業に当っていた。幹生は授業でその小説を読んだ森鴎外に関するビデオを見せることにした。漢字や言葉の知識についてのプリントに対する生徒の反応は鈍く、予想よりやる気を見せないので、目先を変えて視聴覚教材にしたのだ。
黒板の左横の隅に置かれているテレビにビデオテープをセットし、上映を始めた。幹生は教壇を下りて、教卓の前の席が空席だったので、そこに教師用の椅子を置き、テレビの方を向いて座った。最前列の生徒以外には背を向ける形になった。振り返って生徒達の様子を見ると、まともにビデオを見ている者は数人しかおらず、多くは話をしたり、志望理由書を書くなど近づいたそれぞれの入試に向けての作業をしていた。
上映を始めて十分ほど経った時だった。突然生徒の笑い声が起き、幹生がテレビ画面に目をやると、画面の下部に音量調節のための緑色の目盛が表れていた。その値が大きくなったり、小さくなったり変化していた。幹生は慌てて教卓の上を見た。テレビとビデオデッキのリモコンは二つ並べて置いてあって異常はなかった。ということは、リモコン以外の何かを使って、生徒の中の誰かが音量を操作しているのだ。幹生はショックを受けた。これでこの時間のビデオ学習は覚束無くなったと観念した。テレビに面している端から二、三列の席に座っている生徒に向かって、「誰か、操作しよるのは」と幹生は声をかけた。この列の中に例の手の焼ける三人がいた。その三人の中の一人であるTが、「先生、リモコンはそこにあるでしょ。だから操作できないです」と薄笑いを浮かべて答えた。幹生は、これはだめだ、と思いながら、「つまらんことはやめて、ちゃんと見ろよ」と注意をした。幹生の目には窓際の端の列の後部で下を向いているTが、どうも机の下で操作をしているように見えた。持っているはずの携帯電話にそんな機能があるのかもしれないと幹生は思った。
「携帯電話にこんな機能があるのか」
幹生は生徒達に問いかけた。俺は携帯電話を使ったイタズラだと見抜いているんだぞ、という気持を籠めていた。生徒達は無反応。しかし、テレビの画面にはなおも音量調節の目盛が表れたり、消えたりを繰り返している。
「つまらんことを続けると、一人一人調べるぞ」
幹生は怒りと苛立ちに駆られて、語気を強めて言った。すると音量調節の表示は消えて、表れなくなった。幹生はほっとして、しばらくはおとなしくなるだろうと思った。
携帯電話は学校に持ってきてはいけないことになっていた。しかし、多くの生徒が所持していた。授業中にMがよく、「先生、〇〇君がメールしています」と告げてきた。幹生はほとんど無視していた。すると、関わりを避けたく思っている幹生の心中を見透かすように、なおもMの告げ口は続くのだった。幹生は現在の社会状況で携帯電話の所持を禁ずるのは不可能だと考えていた。禁ずるよりもその適正な使用について生徒に教え、考えさせるべきだと思っていた。しかし、校則である以上、守らせる義務が教師にはある。
「俺はチクリは嫌いなんだ」
と幹生はしつこく言うMに言った。Mは、えっ、というような表情をした。
「チクリは嫌いだって」
とMは言ってTと顔を見合わせた。Tもその種のチクリ(告げ口)をした。Mの反応を見て、こんなことを言う教師はいないのだろうと幹生は思った。それで、補足のつもりで、「昔はクラスメートは互いに庇い合ったものだ」
と言った。そして、腑に落ちない顔をしている彼らに、
「君らは校則を守らない者は許せないという正義感からそうするのかもしれないが」
と付け加えた。
「いや、それほど真面目な気持でもないんだけど」
とMがニヤリとして言った。
しかし、Mらの告げ口は続いた。特に学年末考査が終った後の消化授業においてそれは頻繁になった。Mらの告げ口には、授業中の態度が悪いのは自分たちだけではないことを示したいという気持と、摘発を避けようとしている幹生を困らせてやろうという心理が働いているように思われた。幹生は仕方なく、
「誰それが携帯を使っているという告げ口があった場合は、その人を調べ、携帯があれば取りあげる」
とクラスに宣告した。Mはそれを聞いて、
「ああ、そういうことね」
と言って、納得したように頷いた。
携帯電話の所持が発覚した場合は、初回は取り上げて注意の上、保護者に来校してもらって、保護者に返す。二回目は、それが生徒名義の携帯電話であれば解約させ、解約を証明する文書と引き換えに返す。三回目は謹慎処分。学校ではそんな手続きが定められていた。幹生はなるべく目をつむるつもりだった。摘発に大して意味があるとも思えなかったし、卒業の近い、まもなく授業の縁も切れる生徒との間に、煩わしい事は起したくなかった。しかし、相手のある問題だ。立場上、目をつむれない状況になれば、摘発もやむを得ないと思っていた。幸い、宣告の後、幹生が摘発の意思を表明したためか、携帯電話についての告げ口はなくなった。
手の焼ける三人の残りの一人であるOがトイレに行った。幹生は授業中、生徒がトイレに行きたいと申し出れば、「早く戻って来い」と言うくらいで、無条件で認めていた。トイレを終えたOが後ろの戸口から教室に入ってきた。Oは席に戻らず、何を思ったか、教室の後ろの壁を拳で叩き始めた。幹生はそれを見て、また馬鹿なことを始めたな、と思った。Oは他の二人と同様、一学期、二学期と考査の度に欠点を取る生徒で、授業中は全く勉強する姿勢を見せなかった。いろいろと注意し、問答を試み、反省を促してきた生徒だった。しかし、学期末が近づくにつれて、次第に反抗的な態度を昂じさせてきていた。幹生は注意に倦んだ気持で、しばらく叩けばやめるだろうと思っていた。最後の授業もあと二十分たらずで終る。トラブルを起すなよ、と願いながら。
吉崎が現れたのはその時だった。教室の後ろの戸を開けて入ってきた吉崎は、壁を叩くOを見て、
「どうしたんだ」
と声をかけた。そして幹生の顔を見た。吉崎は隣のクラスで授業をしていたのだ。幹生はうっかりしていたと思った。そのことは全く考慮していなかった。柔道部所属の、体重百キロを超える大男のOの拳は、軽く叩いているように見えても、かなりのインパクトを与えていたのだ。Oは驚いた顔で吉崎を見ていた。その表情には狼狽の色が出ていた。
「どうしたんか」
と吉崎はまた訊いた。
「いや、別に」
とOはバツの悪そうな笑いを浮かべて、すまなさそうに言った。その表情にはOの本来の素直さが表れていた。俺には見せなくなった顔だな、と幹生は思った。
Oは一学期当初から学習意欲はなかったが、それでも注意をすると、勉強する恰好を一応はしていた。それが二学期に入り、幹生があまり注意をしなくなると、放縦な態度を示すようになった。図体に似合わず、気弱な、優しい面が覗く生徒だったが、だんだんと傲岸な態度を示すようになっていった。
「静かにしとけよ」
吉崎は厳しい口調で言った。Oは「はい」と答えた。「静かにしとけ」と幹生も声を発した。それは多分に吉崎の手前を意識した、体裁を繕う発言だった。吉崎は教室内を見回してから出ていった。
くそ! と幹生は思った。Oの馬鹿があんなことをしなければ無事に授業を終えることができたのに、と忌々しかった。潮見の子分の吉崎に知られたことは幹生にとって気掛りなことだった。吉崎がこのままで済ますとは思えなかった。確かに自由教育の実践に踏み出す時、こういうことも予期していた。しかし、後二十分足らずで最後の授業が終るという時に、こんなことが起きたのが残念だった。幹生は吉崎の今後の行動を推量した。彼と潮見にとって、この一件は幹生を批判する好材料であるはずだった。吉崎はこの件をどのように扱おうとするだろうか。幹生はこの事件の行方に考えを回らした。大した問題にはならないようにも思われた。幹生の顔は熱く火照ってきた。自分が今危機に瀕しているという意識。生徒の乱れた授業態度を見られてしまったという恥の感覚。そんな負の意識に取り囲まれると、なにくそ、来るならこい! と開き直るような気持も生まれてくる。そうした思念が幹生の頭を熱くさせていた。
ビデオの音量がまた大きくなった。そして小さくなった。テレビの画面下部に音量を示す緑色の目盛と数字が再び表れていた。やはり、また始めたな、と幹生は思った。幹生はTに目をやった。Tはさっきと同じように下を向いて、机の下で手を動かしている。どうしたものかな、と幹生は思った。疑わしいが、確証はないのだ。
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