Fiore[連作短編]〜「立葵」
車椅子の白猫
第1話
立葵 令和四年三月二日起筆鈴木茂雄
僕は夏になると背だけ高くなるあの立葵という花が好きじゃない。
それはまだ小学生のころの記憶が原因かもしれない。
僕は休みの日になると、息子を連れてよくバイパス沿いのホームセンターを訪れる。
そんなとき必ず息子に引っ張られて、ペットコーナーを見学に行く。
近づくにつれて僅かな獣臭と鳴き声が聞こえ始める。
ガラス張りの小箱の中には驚くほどの犬や猫が絡まり合うように戯れていた。
ガラスを突いたりしながら眺めるのは心が少し暖まるようで、僕も息子も夢中になってガラスにかぶりついた。
流石に近づくと、匂いが気になるが、可愛い動物の匂いとなると不快な感じがしないのを、ちょっと不思議に思いつつも目は動物の姿を追いかける、不意に子供の頃の記憶が蘇った。幼稚園児の頃は汲み取り式の便所が水洗式に変わっていたので、多分小学生低学年の頃だったと思う。僕はその頃昔ながらの木造住宅に住んでいた。トイレは水洗式に代わっても夏の盛りの熱気は変わりない。
昔の住宅に換気扇はなかった。
代わりに天井近くと床の近くに窓があり、明かり取りと換気機能を兼ねた作りが一般的だったと思う。我が家も同じ作りで、大人になってから「重力換気」という方法だと知って相槌を打ったものである。
その日は学校から帰って直行したトイレでいつもと違う気配を感じたのは間違いない。
何かの気配が窓の外にいるのを感じた。
窓の外には何かが蠢く気配がしていた。
それと僅かな獣の匂い。
僕はちょっと怖かったが、好奇心に負けて、恐る恐る背伸びをして、上の窓から外を覗き込んだ。窓の外には隣家の壁が一メートルもないくらいに迫っていたので、最初は薄暗さもあって何も見えなかった。
そのとき消え入りそうな鳴き声が聞こえなかったら、あんなことはしなかったのかもしれない。
視界の隅に小さく動く猫の親子が目に止まる。思わず僕は「にゃー」と呟いた。
小さな頃から動物は好きだったが、僕の家は商店で犬猫を飼うのは躊躇われていたのである。
第一母が「動物は死ぬから嫌い」と嫌がっていたのが大きな理由だったと思われる。
だから、動物を拾ってきては再び手放すことも一度や二度じゃなかった。水槽で金魚を飼うのが精一杯だった。
気配の正体は猫らしいと分かったが、姿が見えなくては満足できない。
今度は床に這いつくばるようにして下の窓から外を伺った。
頬に当たる豆タイルの感触がひんやりと冷たかったことを覚えている。
しかしどんなに覗き込んでも猫の姿は見えなかった。
それでも猫の方でもこちらの気配を察したのか、ニャーともフーとも言えない威嚇の声が聞こえてきた。耳を澄ますと、消え入りそうなニャゴニャゴといった仔猫の声らしきものも聞こえるのであった。
僕はおやつを食べるのも着替えるのも忘れて、なんとか猫の姿を観ようと四苦八苦した。
不意に頭上からの親父の声で我に返った。
「慎二、便所の床に這いつくばって何をしてる?」
大きな声で怒鳴られた。
親父の目の前にはランドセルも下さない僕が這うように便所の床に伏せっていたので、
さぞや、驚いたことだろう。猫を見たいのは山々だったが、怒られては便所から退散するしかなかった。便所から退散する僕の目にちょっと曲った猫の尻尾らしきものが横長の窓で翻ったのを今でも忘れない。
それからは便所に行くのが楽しみに変わった。
用を足すわけでもないのに折を見ては便所の床に這いつくばる日々が続いた。猫は窓の直下、家の壁際にいるらしく、覗き込んでもほとんど空振りの日々が続いたが、見えないとなるとますます見たくなるのが人情である。
そのうち彼らは食事をどうしているのか気になり出した。
子猫を抱えた母猫が餌を調達できるのだろうか?
一度気になりだすとそのことだけで頭はいっぱいになってしまった。
そこで子供の浅知恵である。子供の小遣いでは猫缶(あの頃あったのかは覚えていない)も他の餌も買えはしなかった。
そこで親に内緒で調達できるトースターの上の食パンに目をつけた。親猫はパンを食べられるかもしれないけど、子猫が食べられるとは思えなかった。
だからパンを牛乳に浸したものを便所の上の窓からべチャリと落としたのである。
妙なものが天から降ってきたことに驚いた猫は再びフーっと威嚇の鳴き声を上げたことを覚えている。
それだけで一仕事終えた気分で満足げに便所から出てきた僕を母が目聡く見つけるや否や「宿題は?」「おやつ食べた?」などと日常的な声をかけてくるので僕の小さな幸福感はあっという間に消えてしまった。
数日はあっという間に過ぎていき、猫の姿は見られずじまいの日々が続いた。
「この頃トイレ臭くない?」母が夕餉の食卓でボソリとつぶやいた。
「そういえば、腐ったような臭いがする時がある。」晩酌の徳利を傾けながら父が同意の声を発した。僕は猫とパンのことがばれたのかもしれないと、急いでご飯を掻き込むと
「ごちそうさま」の声も早々に便所の扉を開けたのである。
確かに開けた途端に牛乳を吹いた後の半乾きの雑巾のような臭いが便所の中に溢れていた。思わず「やべえ」と呟くと和式便器の上に乗り、上の窓から首を出し眼下の様子を伺うも、相変わらず猫の姿は見えないが、据えた臭いが鼻をつく。
どう考えても僕が投げ入れた牛乳まみれのパンが原因としか思えなかった。
ここはやはり現地に行くしかないと考えたが、一人で行くのはちょっと怖くもあるので、思案の末に同じ商店街の金田酒酒屋の正ちゃんと一緒に行こうと考えた。幼馴染の正ちゃんは通学班も一緒だし、毎日のように彼の酒屋の倉庫でかくれんぼなどして遊ぶ仲間だったこともあるが、金田酒屋にはネズミよけのためかカウンターの上にいつも太った猫のニャン吉がいるので、猫というと反射的に彼のことが頭に浮かぶのであった。
ニャン吉は煮干などを持っていくと撫でさせてもらえるけれど、招き猫のくせに基本的に無愛想な奴だ、でも、そこが僕には猫っぽく感じられて、遊びに行くたびに煮干を忘れないように気をつけていた。夕方過ぎに金田酒屋に行くと奥のカウンターは角打ちになっていて、赤ら顔の親父たちが酒臭い息をして、僕たちをからかってくるのでちょっと怖かったことを覚えている。件のニャン吉は親父たちの魚肉ソーセージがもらえるからか、僕たちが来た時と明らかに対応が違っていたので、少し憎らしくもあった。
そんな正ちゃんのところに行ってもすぐに相談するのはなぜか躊躇われた。
「あのさ、正ちゃんのとこって昔から猫飼ってたの?」
「慎ちゃん、また猫の話?」そういえば、ここ数日登下校の間僕はずっと猫の話ばかりしてたのであった。無意識に便所の猫が気になっていたのだろう。
「実は正ちゃんに相談というかお願いがあるんだ」
普段より多少持って回って言ったのは明らかに面倒な頼みだったからに違いない。
「実は、例の便所の猫を一時預かってもらえない?」
一息で頼みを口にすると、なんだか大仕事が終わったようで、軽くため息ともつかないような息が僕の口から漏れ出ていた。
しかし正ちゃんの答えは軽いものだった。
「うちの倉庫で良ければ構わないと思う」
あっさり答えを返す正ちゃんの瞳がイタズラっぽく光っていた。
僕が以前から猫好きでできれば飼ってみたいと思っていることを知っていたからかもしれない。
「じゃ、見せて」正ちゃんは当然のことを口に出した。
ここで実は見たこともないとは言えはしなかった。
誤魔化すように早口で
「じゃ!一緒に観に行こう」
正ちゃんの右手を持ちながらいうのが精一杯だった。
そこからは出たとこ勝負である。
正ちゃんを引っ張り、家の裏手まで駆け出した。
夏のひざしと真っ赤な夕日が照りつける僕の家の壁が真っ赤に染め上げられていたことを今でも覚えている。そして、そこに奴が立っていた。
僕の背丈より遥かに高い淡いピンク色の花が咲いた立葵である。
やつは隣家との間の隙間に通せん坊をするように立ち塞がっていた。
ヒラヒラした花弁が嘲笑うように咲き誇っていた。
ここまでくるともう異臭が僕らの鼻に届いていた。
正ちゃんは大袈裟に鼻をつまんで眉間に皺を寄せて
「ひどい臭い!」と抗議の声を上げるのだった。
僕は軽く頷くが、原因を口には出せなかった。
頷いた勢いで立ち塞がる立葵を払おうとするが、雑草のくせに根ガしっかりとしているのか子供の力では倒れはしなかった。
両手に渾身の力を込めてやっと子供一人が通れるくらいの隙間ができた。
正ちゃんと僕は悪臭にもめげず競うように隙間をすり抜けて奥の隙間に足を踏み入れた。
すぐに見えたのは大きな鯖猫と数匹の子猫たちだった。
子猫と親の間には毒々しい青い何かが落ちていた。
僕は背筋を嫌な汗が伝うのを感じた。
ボソリと「食パン」とつぶやくのを正ちゃんが
頭に疑問符を浮かべながら
「あれが臭いの?」と、他人事のように尋ねてきた。
僕は答えがわかっていたけど「さあね?」
と答えるしかなかった。
そこで急に正ちゃんは踵を返すとどこかに走り去ってしまった。
取り残された僕は青かびが生えている食パンらしきものを眺めていた。
しばらくすると、正ちゃんがカチカチと何かを鳴らしながら帰ってきた。
得意顔の正ちゃんの片手にはゴミ拾いに使う火バサミが握られており、それがカチカチという音の正体だった。
正ちゃんのもう片手にはお店のカゴが握られており、カゴの中のタオルと紙袋が少し覗いていた。
流石は正ちゃんと感心する僕に向かってニヤリと微笑むとゴム手袋に包まれた両手を見せ、マジンガーに出てくる敵ロボットのようにガオーとポーズを決めてみせるのだった。
そして完全防備の正ちゃんと丸腰の僕は立葵の防衛戦を突破して、ようやく隙間へと進軍を始めた。
完全防備の正ちゃんがいつの間にか先頭になっていた。
カチカチと火バサミを鳴らし続ける音を聴きながら、おっかなびっくりへっぴり腰で
ついていく僕の目にはやたら正ちゃんの背中が大きく見えた。
ズンズンと歩く正ちゃんのズックについていくように僕の運動靴が泥棒のように忍足で続いた。
先に食パンにたどり着いた正ちゃんがパンを火バサミで持ち上げると
「こりゃぁ死んでるわ」と、不吉な宣言をひと言漏らした。
僕の心臓が飛び上がるように大きく動いたのを覚えている。
Fiore[連作短編]〜「立葵」 車椅子の白猫 @ikuzuss
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