第2話-③ 「何をした! それは私のたいせつな息子なんだ!」
■アシュワード連合王国 北都グレルサブ デミトフ伯爵家屋敷 3階子供部屋 ジニア大月(1月)1日 17:30
重々しい黒い扉が開いていた。その奥でノーチが吠えている。その後ろには泣いている少年。その前にはかすれた色のドレスを着た夫人。そしてそのそばにメイドがふたりいて、下をうつむいていた。
夫人が腕を振り上げた。細い皮のベルトのような鞭を手にしていた。言葉にならない怒りの声をあげながら、ノーチたちに向かって振り下ろそうとする。
「失礼します!」
私はできるだけ大きな声を上げて部屋に入った。
ノーチはちらりと私を見ると、また少年を守るようにうなりだす。
夫人は私を見ると腕を下げた。それから静かにたずねる。
「誰ですか、おまえは?」
「その犬の飼い主です」
「このような無礼をされるとは、私もなめられたものですね。どこの家の者ですか? 王家に伝えてしかるべき罰を与えてもらいます」
「この少年をどうするつもりですか?」
「どうする? それは私の息子です。何もできない、ぐうたらな息子をしつけているだけです」
「おびえるほど暴力をふるうのがしつけですか?」
「これはしつけだッッ!!」
突然夫人が激高する。私を威嚇するように、床を鞭で叩きつけた。
「おい、誰か! こいつらをつまみ出してちょうだい!」
誰も動けない。
「聞こえないの!」
メイドたちがびくりとする。
私は彼女たちに聞こえるようにはっきりと言う。
「フェリクス・ユスフを呼んでください。あなたの妹から言われたと。今日は屋敷にいるはずです」
顔色が変わる。夫人も不思議そうに私を見つめだした。
私はもう一度強く言う。
「お願いします」
メイドのひとりが「はい!」と助けの手が得られたかのように返事をして走り出した。
私はそれを見届けると、ノーチのそばへ歩いていく。
夫人が私を目で追いかける。
「ユスフ? ユスフだと? こんな娘がいるなんて聞いたことがない」
少年は泣くこともできず、ただうずくまるようにして震えていた。
「やめてあげてください。あなたの息子なんですよ?」
「それはマナーがなっていません。本も読まず、楽器を弾けず、誰とも話すことができないのです。このまま皆の前に出したら恥をかきます」
「あなたが、ですか?」
夫人が押し黙る。その隙に私はしゃがみこみ、少年に声をかける。
「君がアドラス君?」
「……うん」
「ジェーニャから言われたよ。君を助けて欲しいって」
私の言葉を聞いて、ようやく少年は泣きだした。それでも声を上げないようにしながら、ただ大粒の涙を床へと落としていく。
「何をした! それは私のたいせつな息子なんだ!」
鞭が振り下ろされる。とっさだった。少年をかばうようにして抱え込む。
背中に衝撃が走る。あまりの痛さで頭がかき乱される。
「ノーチ、だめっ!」
夫人へ飛び掛かろうとしたノーチのしっぽをひっぱる。これ以上、事を大きくしたら、この子を守れなくなる。
フェリクスが来るまで、がんばらないと……。そうしたら、きっと……。
何度も鞭に打ち据えられる。
走る痛みといっしょに、頭の中にあの日の光景がちらつく。
あのときといっしょじゃないか。
誰も助けてくれなかったじゃないか。
フェリクスも、エルヴィラさんも。
どんなに待っても……。
そう……。
そうだった。
あのときは、ノーチだけが私を助けてくれた。
「殺してやる!」
夫人がとどめを刺そうと、力いっぱい鞭を振り下ろす。
ノーチが飛びつく。鞭の先を噛みついて受け止めた。
ばちんという大きな音がした。
痛かっただろうに、悲鳴ひとつ上げず、鞭を噛んだまま離さなかった。
「こいつ! 離せ!」
怒った夫人が、ノーチの口を蹴ろうとした。
もうだめだった。
あの日と同じ匂いと味と想いが復元されてしまう。
ノーチが……、ノーチが、殺されてしまう!
だめ……。お願い、お願いだから!
私のたったひとりの友達を殺さないで!
「やめてぇぇぇぇッ!!!」
光が爆発した。
巻き上がった強い風が部屋を圧倒した。
部屋にあった花瓶が粉々に壊れた。
窓ガラスが砕けて外に飛び散った。
天井にあったたくさんの水晶ランプが、床へ砕け散った。
みんな呆然としていた。
みんな何が起きたのかわからなかった。
みんな暗い部屋で立ちすくんでいた。
私だけが自分が引き起こしたものだとわかっていた。
震える体がそれを告げていた。
「何をしている」
フェリクスの声がした。震える体を見せたくなくて、私は自分自身を抱えるように抱きしめ、その場に座り込んだ。
「これはどういうことだ?」
フェリクスは自分の手で照明の魔法を生み出し、すっかり暗くなってしまった部屋を照らした。
風に揺れるレースのカーテンが、ガラスのかけらをひとつ落とす。似合わない澄んだ音がした。
夫人がフェリクスへ静かに話し出した。
「ユスフ様のよう大貴族が、こんな掃除も行き届かない我が家へ何のご用事でしょうか?」
「私の妹が世話になっていると聞いてな」
「なら、すぐに引き取りなさい。こんな化け物……」
「化け物? 迷惑をかけたようだな。ああ、でも」
「でも?」
「妹や自分の子供をいくら打ち据えても、気は晴れないぞ」
「貴様ァ!」
夫人が腕を上げる。フェリクスが大きな声ではっきりと告げる。
「私に手をあげるな。わかっているだろ? それをしたらおまえは破産する。北方の戦場で一生働く羽目になるぞ」
夫人の動きが止まる。
ゆっくりと上げた腕を降ろしていく。
「派手に金を使いすぎたな。もっとも、大半は工作資金のようだったが」
「新興貴族が、あの古臭い連中相手に意地を通すつらさをおまえは知らない」
「知りたくもないさ。融資ぐらいは応じてやる。傾いた貴族を支援するのは我が家の仕事だ」
「そうやって乗っ取るつもりなんだろう」
「ふふ。それがどうした? 死ぬよりマシだろうよ」
夫人の手から鞭が離れる。すぐに磨きこまれた木の床からカツンという音が響いた。
震えが止まらずしゃがみ込んでいる私へ、フェリクスがやってくる。いっしょに叱られようと、ノーチが私のすぐそばでお座りをした。
「ネネ。なんで言わなかった」
「それは……」
「エルヴィラさんからすぐ連絡をもらったんだ。迎えに行って欲しいと。走っていたこの屋敷のメイドが、うちの紋章を見て馬車を止めたのも運が良かった」
「その……」
「なぜ、こんなことになる」
「ごめんなさい。私は……」
うつむいたままの私に、フェリクスは静かに告げる。
「話は聞いている。その子は家から離す。寄宿学校にでも入れておくよ。それでいいな?」
「……はい」
「そしてネネには罰だ。手続きが終わるまで、その子をコーシュカで預かれ」
「……え?」
ノーチと私は、そう言ったフェリクスの笑顔をじっと見つめていた。
■アシュワード連合王国 北都グレルサブ スネグラチカ通り近くの路地裏 占いの店『コーシュカ』 ジニア大月(1月)1日 22:00
温かい暖炉の前で椅子に座り、ぼんやりとしていた。考えることができなかった。
あのあとフェリクスの馬車で、アドラスといっしょに家まで送ってもらった。
エルヴィラさんにはフェリクスから説明があった。アドラスのことも、私が屋敷の部屋を粉々にしてしまったことも。
フェリクスは部屋の惨状を一目見て、あの日と同じだとわかったようだった。
フェリクスが帰ったあと、早速エルヴィラさんは暖炉の前にたらいを持ってきて、なみなみと沸かした湯を注ぎいれた。中庭から雪をすくって放り込み、湯を適温にすると、とまどうアドラスの服を引ん剝いた。
「取って食うわけじゃないよ。そのままだと傷に障るからさ。おとなしく脱がされてちょうだい」
すぽんという音がするように、シャツが逆さまになって頭から脱がされた。アドラスの背中がちらっと見えた。そこには古い傷も新しい傷も、青あざも赤い腫れもたくさんあった。とてもたくさん……。
「これじゃ痛かっただろうね。ちょっと染みるかもしれないけれど我慢できるかい?」
アドラスがこくりとうなずく。
エルヴィラさんが何見てんだという顔で私に言う。
「ほら、あんたはそっち向いとき。アドラスが恥ずかしがるだろ?」
あわてて反対のほうを向く。ノーチが困った顔をして、私を見ていた。
傷を洗うと、新しい布で背中を覆い、包帯で丁寧に巻いていった。
エルヴィラさんは手慣れている。それは私のときと変わらない……。
新しい寝巻を着せると、アドラスは疲れ切ったのか、薄緑色のソファーでうとうととしだした。
毛布を掛けてあげると、こらえきれなくなったように横になってしまった。
そこに私にしか見えない母猫が飛び乗る。アドラスに寄り添うように丸くなる。そうしているのが当たり前のように。
アドラスは母猫を抱えるようにして寝返ると、静かに寝息を立て始めた。
エルヴィラさんが手をエプロンで拭きながら「やれやれ」と言う。
「あんたはやっかいごとばっかり持ってきて」
「……すみません」
「怒ってはないよ。こういうのはいいことさ」
エルヴィラさんはそう言って私に笑いかける。
私はそれにぎこちなく笑い返す。あのときだってエルヴィラさんは怒らなかった。血の海の上でたたずむ私にすら……。
ノーチがソファーで寝ている人と猫を、不思議そうに見つめていた。
■アシュワード連合王国 北都グレルサブ スネグラチカ通り近くの路地裏 占いの店『コーシュカ』 ジニア大月(1月)2日 8:00
朝ごはんはアドラスの容態を考えて、カーシャというお粥にしてみた。香ばしい実を柔らかくなるまでじっくり煮込み、去年の秋に森で取って塩漬けにしたキノコを添える。これなら消化がいいし、傷にも良いはず。ノーチにも冷まして少し分けてあげた。
普段は私とエルヴィラさんしかいないので、この家には小さなテーブルしかなかった。3人ぶんもお皿が乗らない。私とエルヴィラさんはあきらめて、居間の椅子をテーブル代わりにして、ごはんをいただくことにした。
アドラスが、ひと匙すくって口に運ぶ。それを無表情に何度も繰り返していた。
エルヴィラさんが「おいしい?」と呼びかけても返事がない。
きっとあの日の私と同じなのだと思う。だから、私から声をかけてみた。
「アドラス君。少しお姉ちゃんとお話ししようか?」
「……」
「お母さんは大丈夫だよ。大丈夫だから」
アドラスがようやく反応をした。匙をそっと皿に置く。
「僕が悪いから……。もっと僕がちゃんとしなくちゃいけないのに……」
「何をして叱られていたの?」
「難しい単語の発音がうまくできなくて……。それにお辞儀が震えちゃって……」
エルヴィラさんがあきれたように言う。
「まだ子供なんだろ? できなくて当たり前だよ。どう考えてもそれって母親が悪いと思うけど?」
「それでも、お母さんが好きなんだよね」
「はあ?」
エルヴィラさんが続けて言いたい文句を私は手で制した。
アドラスが私のことをじっと見つめる。泣きそうな顔で見つめられる。
「お母さんつかまらない? 痛いことされない?」
「大丈夫だよ。ひどいことにはならないから」
「でも……。きっとお母さんは怒ってる」
「いつかお母さんの機嫌は治ると思う。それまで待てるかな?」
「うん……」
いつかわかる。わかって欲しい……。
私もそうだった。
だけど、それはもう……。
私はその想いを飲み込むと、アドラスを励ました。
「広い世界が君の傷を薄めてくれる。なくなりはしないけど薄くなる。私はそう信じているから」
「そうなの?」
「うん。そうだよ。きっとそう……」
アドラスの表情が少しだけ柔らかくなる。
朝日に照らされ、影が消えていく。
アドラスの右足には、母猫が愛おしそうに体をなすり付けていた。その感触はずっと息子には伝わらないのに……。
-----
よろしかったら☆や♡を押していただけたら嬉しいです!
反響が大きければ連載させていただきます!
よろしくお願いいたします。(*- -)(*_ _)ペコリ
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます