第2話-② 「いつかまた会うその日に乾杯を」


 「アドラス?」

 「私はデミトフ伯爵の屋敷で暮らしていましたジェーニャと申します。アドラスはデミトフ伯爵の子息です」

 「うん? それって人の子じゃ……」

 「そうです。それでも私はあの子の母親です。赤ん坊の頃から見守ってきたんです。ずっとそばにいて寄り添っていたんです。実の子よりも……」

 「何か危険が迫っているのですか?」

 「このままではアドラスが殺されてしまいます! 産みの母親であるジナイダ夫人から、ずっと責められているんです。使用人の前で鞭を振るわれたり、水をかけられたり、食事を抜かされたり……。ふがいない息子をしつけると言って、毎日のように……」

 「そんな息子さんを、あなたはずっと慰めていたんですね」

 「はい。声をあげずに泣くあの子のそばにいました。すがりついておびえているあの子に私は何もできず、歯がゆくて、悔しくて……」


 うなだれるその母猫に、私はそっと声をかけた。


 「それで屋敷を抜け出したのですか?」

 「はい……。私の声を聴いてくれる人間がいると息子は話していました。だから雪の日にそっと外へ出ました。大勢の人間と会いました。でも誰も話を聞いてくれず……」

 「そのまま街を彷徨われて、力が尽きたのですね?」

 「はい……。お願いです! 私はどうなってもかまいません! どうか息子を助けてあげてください! 息子はきっと、まだ泣いているんです……」


 私はうつむく。

 この母猫は、人の母親より愛情にあふれている。それは私の母よりもきっと……。


 私の想いに気付いたのか、エルヴィラさんが「猫はなんて?」と私にたずねる。


 「デミトフ伯爵のご子息が夫人に虐待されているそうで、助けて欲しいと……」

 「ああ。あの家、悪い話しか聞かないのよね。武器と奴隷の調達で儲けた成り上がりのくせに」

 「そうなんですか……」

 「で、助けるんでしょ?」

 「……はい。そうしないと母猫のジェーニャさんはずっとこのままですし……」


 それを聞いた猫が、「ありがとうございます! 本当にありがとうございます!!」と叫ぶように言う。

 猫は泣けない。それでも鳴くことはできる。張り裂けそうな鳴き声で、私に何度も何度でも礼を言う。


 そばに来たノーチが私の左腕を鼻で突く。


 「わかってるよ。私と似てるけれど、違うと思う」


 ノーチの頭をなでながら、私は考える。

 さて、どうやったら息子さんに会いに行けるのかな……。


 「ネネ。今日は何日?」

 「ジニア(1月)の1日めですけど……」

 「だったら、屋敷の中へ行けるわよ」


 エルヴィラさんが誇ったように笑う。ああ、そうか……。私もようやく気が付いた。「お呼ばれ」のことを。



■アシュワード連合王国 北都グレルサブ デミトフ伯爵家屋敷 大広間 ジニア大月(1月)1日 17:00


 雪が降るこのあたりでは、新年に近隣の屋敷にいる貴族の子供たちを集めて、お菓子や温かい飲み物をふるまう習わしがあった。冬の間はなかなか外で遊べない子供たちにとっては、楽しみにしている行事だった。私の周りではこれを「お呼ばれ」と言っていた。


 私はデミトフ家の屋敷になんなく入ると、ノーチと二手に分かれて屋敷を調べることにした。私は人が多いほう、ノーチは人目が届かないところを探している。


 そうして私は、貴族のふりをしながらデミトフ家の大広間の壁に寄りかかっていた。

 右腕を少し上げ、濃紺の袖を見つめる。縁には複雑な模様の白いレースがのぞいている。


 おせっかいな兄がいつでも社交界に戻れるようにと贈ってくるドレスが、役に立つなんて思ってもいなかった。エルヴィラさんが喜んで編んでくれた髪もかわいらしかった。

 それでもこうして壁に咲く花を演じているのだから、私はどうにもひどい人間のように思えてくる。


 目の前には幸せそうな光景があった。


 同い年ぐらいの女の子たちが笑いながら話している。

 男の子たちは剣を振るう真似をして遊んでいた。

 小さな子たちは、赤い絨毯の上をあちこち走り回って、兄や姉たちの手をわずらせて笑っていた。


 グラスに注がれたソーダの泡が抜けていく。


 「ノーチはアドラス君を探せているかな……」


 この寂しさはノーチがそばにいないせい。

 きっと、そうだから……。


 「失礼。レディには少々退屈ですか?」


 声をかけられて振り向く。黒髪を三つ編みにして腰まで垂らした人が、私の隣にいた。静かにグラスの中身を飲み干す。妙に色気のあるしぐさに、最初は女の人かと思った。服装は男性用の礼服だけど……。


 「あの、どこかで……?」

 「それを聞くのは、貴族としては無作法ですよ。記憶に留めなかった程度の人だと言われたようなものです」

 「わかっています。ですが、初めてお会いする方だと……」

 「私は知ってますよ。ネネさん」


 とっさに身構えた。逃げるしかないと思い、大広間の出口のほうへあとずさる。


 「逃げるならここで大声をあげますが、いかがですか?」


 この……。

 憎らしく笑っているその人に、私はきっぱりと言う。


 「私は逃げません」

 「それは良いことです。どうも僕はこの場では不釣り合いでね。これで寂しさもまぎれる」

 「どうして私を知っているんですか?」

 「ネネさん。ああ、失礼ながらいまはどの姓を名乗っているかわからないから、名前で呼ばせていただきますよ」

 「……かまいません」

 「たぶん、こう言えば君に伝わると思う。アンナさんは残念だった。リシチュカ君にとっても」


 私はその人の笑顔をじっと見つめる。


 「……父の使いですか?」

 「うーん。なかなか言いづらい関係でね。共同事業者でもあるし、師弟関係でもある……。いずれにしろ、いまは君と同じ壁の花さ」


 その人は右手を顔のあたりまで持ち上げる。


 パチン。


 指を鳴らす。鋭い音が大広間の隅々まで響き渡る。

 気づいた若いメイドが、銀のトレーを持って私達の近くまでやってきた。


 「こちらのレディに飲み物を。ああ、少し甘くないほうがいいな。大人びた味に。僕にはペルツォフカを」


 少し顔を赤らめたメイドが返事もせず奥へと走って行った。


 「少し話せるかい?」

 「はい」

 「いい度胸だ」

 「私を殺そうと思えば、瞬きするうちに殺せるでしょうし」

 「それではまるで私が魔族みたいじゃないか」

 「違うんですか?」

 「ふふ。さて、どうかな……」


 その人は目を細めて笑っている。

 私は少しいらいらとしながらその人へたずねた。


 「お話しはなんですか? 私には話したいことなんて何も……」

 「僕にはちょっとあるんだ。君のお父さんは、アンナさんから君のことを知ってしまった。あとはわかるね?」

 「……それはおかしいです。アンナさんに私のことを告げて寄越したのは、父ではないのですか?」

 「それは僕なんだ。そんなに愛犬が死んだことが気になるなら、亡くなった動物の降霊をしている者がいるから聞いたみたら、ってね」

 「あなたは……」


 メイドが「あの……」と言って、私達の前に銀のトレイを差し出した。そこにはグラスがふたつ置いてあった。

 琥珀色に透き通る液体。少し緑がかった濁る液体。


 その人は琥珀色のグラスを手に取り目線まで持ち上げると、嬉しそうにグラスを回しながら眺めていた。

 私がもうひとつのグラスをトレイから受け取ると、互いにそれを向けあった。


 「では、君と酒を酌み交わせる日が来ることを願って」

 「あなた方の野望が打ち砕かれますように」

 「おっと、それは手厳しいな」


 グラス同士が重なると、キンという澄んだ音がした。

 口をつける。それはほんのり甘くて、少しだけ苦い味がした。


 手にしたグラスをもてあそぶように回しながら、その人は言う。


 「僕はできるだけフェアでありたいんだ。君のお父さんにとっても、君とノーチさんにとってもね」

 「それはどういうことですか?」

 「ああ、その前に。どうやら君の相棒が呼んでいるようだ」


 耳を澄ます。わずかに犬が吠えている低い音がした。ノーチだ。


 「失礼します」


 私は持っていたグラスをその人に押し付けて走り出した。「いつかまた会うその日に乾杯を」という声が後ろから聞こえた。



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