毎日小説No.9 眠気貯金
五月雨前線
1話完結
眠い。ただひたすら眠い。
勤め先のオフィスの入り口から外に出た私は、人目を憚らず盛大に欠伸をした。20代後半のピチピチOLの仕草としてはかなりはしたない気がするが、そもそも人に見られる心配は殆どなかった。現在の時刻は夜の11時過ぎ。周りに人の姿は見当たらない。普通の人間ならとうに眠りについている時間に、私はようやくオフィスから解放されたのだった。
先に断っておくが、私が勤めている会社は決してブラック企業ではない。むしろホワイトというべきだ。給料は他の会社と比べて高めで福利厚生も充実しており、職場の雰囲気も明るくて仕事がしやすい。残業が多いという点を除けば、最高の職場だと言えるだろう。そう、残業が多いことを除けば。
会社が複数の企業とのタイアップ企画を打ち出した関係で、ただでさえ多い仕事の量がますます増えてしまったのである。加えて私は少し前からプロジェクトリーダーに就任していたため、想像を絶する量の仕事が舞い込んできたのだ。自分で選んで入った会社だし、仕事の内容はどれも楽しい。楽しいのだが、仕事をすると体力を消耗する。毎日の激務の影響で私の体力ゲージはほぼゼロになっていた。
眠い、眠い、早く帰って寝たい……。
重い足取りで深夜の街中を歩く私。晩御飯どうしようかな、と考えていたその時、「ちょっと、そこのお姉さん」と声をかけられた。
いつの間にか目の前にスーツを着た男が佇んでいた。眠すぎて気付かなかったらしい。高身長の若い男は大きなプラカードを手にしている。どうやら何かの呼び込みを行っているようだ。
「うちの店、寄っていきませんか?」
「すいません急いでるので……」
こっちは帰って早く寝たいんだよ、と心の中で毒づく。視線を逸らして通り過ぎようとしたが、男は再び私に声をかけてきた。
「お話だけでも聞いていきませんか?」
「結構です」
「そうですか、残念だなぁ……。その眠気、綺麗さっぱり消すことが出来るんですけどね」
眠気を綺麗さっぱり消す? その言葉が気になった私は歩みを止めた。
「あの、眠気を消すってどういうことですか?」
***
「ありがとうございます。こんな深夜に店に来ていただいて」
「いえ……」
ちょっと話を聞くだけのつもりだったのに、あれよあれよという間に男が経営する店に足を運ぶ羽目になってしまった。今私がいるのは裏路地にあるこぢんまりとしたカフェで、まるで世間から姿を隠しているかのような外観をしていた。深夜で暗いせいもあるだろうが、ここがカフェです、と言われなければ絶対に素通りしてしまうだろう。
薄暗い裏路地とは対照的に、店内は明るくて小綺麗だった。中にはカウンター席が2つだけあり、私は男の案内で席に腰を下ろした。座った瞬間に身体がいっそう重くなり、全身が疲労を訴え始めた。
「ふう……」
「随分お疲れのご様子ですね。まあ、だからこそこちらから声をかけさせていただいたわけですが」
「あの、そろそろ教えていただけませんか。先ほど言っていた、眠気を消すことについて」
「勿論です。とにもかくにもこちらをお飲みください」
小さな厨房で何やら作業をしていた男が、私の前にグラスを置いた。グラスの中には黄色い液体が並々と注がれている。
「これは?」
「当方が開発した特製ドリンクです。これを飲めば、今貴方が感じている眠気を外部に取り出し、別の場所に溜めることが出来ます。名付けて『眠気貯金ドリンク』です」
「???」
きょとんした表情を浮かべる私を見て、男は苦笑を浮かべた。
「では、銀行に例えましょう。貴方が持っているお金を、銀行に預けることが出来ますよね? それと同じことです。今の眠気を取り出して外に溜めることで、スッキリしつつ眠気をストック出来るというわけです」
銀行に例えられても尚意味が分からなかったが、眠くてたまらなかった私はグラスを手に取り、一気に飲み込んだ。濃厚なオレンジの果汁が口いっぱいに広がり、思わず
「美味しい……」と呟く。
「そうですか、それはよかった。眠気の方はいかがですか?」
「いかがですかって言われても……
あ、あれ?」
鉛のように重かった体が軽くなっている。割れんばかりの頭痛がいつの間にか消え失せている。まるで10時間睡眠をとった後のような
すっきり感が体中を包み込んでいた。
「何これ……? 私の体に何が起きたっていうの?」
「眠気が吹き飛び、すっかり回復したようですね。お役に立てて光栄です」
「このドリンクを飲んだから、私の眠気が取り出されて元気になれたってことですか?」
「その通りです」
「す、すごい! めちゃくちゃすごい技術じゃないですか!」
「そう言っていただけて嬉しいです。ただ、このドリンクには希少な成分が多数含まれておりまして、大量生産することが出来ないのが現状です。なので、このドリンクを求めて大勢の
お客様が来店されますとドリンクを提供出来ないのでかなり困ります。この店のことは他言無用でお願いしたいのですが、よろしいでしょうか?」
私はぶんぶんと首を縦に振った。
「勿論です! 絶対に誰にも言いません!」
「ありがとうございます」
「あ、そうだ、お金払わないと。料金はいくらですか?」
「初回のご提供ですので、お代はけっこうです。眠くてたまらなくなった時はまたこの店をご利用ください」
謎の『眠気貯金ドリンク』の効果はすさまじかった。飲むとたちまち眠気が消え失せ、身体中に力がみなぎってくるのだ。ドリンクのお陰でこなす仕事の量も質も向上し、関わった企画やプロジェクトは全て大成功を収めた。仕事を成功させれば社内での評価や信頼度が向上し、より大きな仕事や昇格へと繋がる。案の定すぐに別の大きな仕事を依頼された。
文字通り身を粉にして限界まで働き、限界寸前になったらまたあの店を訪れてドリンクを飲む。ドリンクを飲めば全回復出来るので、私はあの店に足繁く通うことになった。2回目以降は料金を請求されるようになったが、体力を全回復出来ることと比べたら安いものだった。
仕事をする、ドリンクを飲む、また仕事をする、ドリンクを飲む、新しい仕事を依頼される……。そんな生活が1年程続いた結果、なんと私は課長に任命された。この1年の私の働きを上層部が高く評価してくれたらしい。最年少課長就任記録を更新したようで、私はとても嬉しかった。これも全て、あの男が作ってくれる特製ドリンク、そして眠気貯金のお陰だった。
そういえば、最近やけに疲れが溜まる。体の震えが止まらないし、食欲がまるで湧いてこない。倦怠感もひどい。きっと課長になって新しい仕事をいっぱい任されたからストレスが溜まっているんだろう。昨日行ったばかりだけど、今日もまたあの店に行ってドリンクを飲もう。そうすれば、また元気になれるはずだから。
仕事を終えた私は、ふらふらになりながら再びあの店に向かうのだった。
***
「もしもし。ああ、どうもどうも、お疲れ様です。聞きましたよ、最近中南米のシンジケートでがっぽり儲けてるらしいじゃないですか。今度はヘロインですか? 羨ましい限りです……。
え、僕ですか? 貴方に比べたら本当にちっぽけなことしかやってないですよ。今は東京で細々と薬を売ってます。売ヤーじゃなくて、
カフェですね。『眠気を貯金する特製ドリンク!』って適当に名前をつけて、仕事で疲れてる社会人相手に薬物入りのジュースを販売してます。
あはは、確かに馬鹿みたいなネーミングですよね。でもでも、眠気を外部に取り出して元気になれる、ってでたらめを信じてうちに来る人、けっこう多いんですよ。この前もけっこう若いOLを捕まえました。今じゃ毎日店に来てますから、完全な中毒者ですね。
あ、そろそろそのOLが店に来る時間なんで、この辺で失礼します。ではでは、これからもお互い薬物でがっぽり儲けましょうね〜」
完
毎日小説No.9 眠気貯金 五月雨前線 @am3160
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