星夜の秘密に口づけを
そっと、大切に、密やかに、秘めやかに。
星影はその表情を照らすにはあまりにひそかに光は遠く、ただその声がとても静かで優しいことだけを伝えるのでした。
星を映した水面に手を伸ばしても掴むのは澄んだ水、光に触れることは叶いません。
暗く淡い星の夜、岸辺の白い花がさわさわと涼やかに風に揺れます。
男と子どもはこの花を知っていました。沢山の色を纏い太陽の元できらきらと笑う花屋の娘が教えてくれた、花でした。
『その花は、シロツメクサって言うんだよ。ちっちゃいころは花冠とか指輪とか作って遊んだなぁ。そうだ、その子の花言葉はね……』
あの娘を太陽と例えるのなら、目の前の女性は月でしょう。淡く微笑み溶けて消えてしまいそうな儚さを纏った女性は、白く小さなその花にそっと触れました。話にきいた女神というものがいるのならきっとこのような人なのだろうと思います。そしてその推測はきっと間違っていないのでしょう。
「私の名を、あなた方はご存じですね。」
そう言って、女性は伏せていたまぶたをあげて、男たちをみるのでした。
森を抜けた先は村というには賑やかで、町にしては少しばかり小さな場所でした。
賑やかでカラフルな市場を通り、淡い色合いの煉瓦でできた家々の間の路地を歩いていましたが、やがて行き止まりにぶつかります。戻って別の道をゆきますが、また行き止まってしまいました。こんなこともある、とまた別の道をゆきますがどの道も行き止まり、行き止まり。五つ目の行き止まりの前で二人はついにその足をとめました。
「迷路だね……。」
「あぁ……さて、どうしたものか。」
目の前の壁を見つめて唸る二人の肩に、ぽんと突然誰かの手が置かれます。驚きでひゅっと息を吸いこんで、おそるおそる振り返ると、そこにいたのは三つ編みをさげた十五、六の娘でした。
「ごめんね、驚かせちゃった?お兄さんたち、もしかしなくても……道に迷ったんでしょ。」
にかりと真っ白な歯をみせて娘は笑いました。あぁ、と答えようと口を開きかけましたが、娘はあー、と、ため息に声をまぜたような言葉を発しながら、男たちの目の前にぐっと差し出した手のひらを大きく振りながら、顔を横にそむけます。
「言わなくてもわかるよ……っ。大変だったね、でももう大丈夫!私が来たからには!もう安心!」
どん、と自分の胸を自分でたたき、豪華客船に乗ったつもりでお任せあれ、と娘は鼻息も荒く言いきりました。
急な坂道を猛スピードでころころ転がっていくかのような娘の話について行けず、目をぱちくりさせるばかりの二人の手をがっしりと握って、娘は歩き始めます。
娘に引きずられるように歩きながら、これは本当にどうしたものか、と二人は顔を見合わせるのでした。
いりくんだ道を迷いなくすいすいと歩いていく娘について、何度道を曲がったのでしょう。もう彼女と会った場所に帰ることさえこの娘がいなければできないだろうと男はおもいました。
娘は歩きながらも、ここが古物店、ここが雑貨屋、と次々に通る、看板をかかげた家が何をしているかを教えてくれます。ですがあまりのスピードと複雑さに二人の頭にはよく入ってきません。
「で、ここが我が町で一番大きい、市場の通りだよ!」
今まで通っていた道の何倍かあるカラフルで賑やかな通りには二人とも見覚えがありました。
「あ、ここ最初に通ったところだ。」
町に着いたときに通った市場に少しだけ胸をなでおろします。子どもの言葉に、なあんだここは知ってたのか、じゃあ次に行こう、とまた歩き出そうとする娘を男と子どもは必死に止めます。この分では一日かけて町中を歩き回ることになってしまいそうです。
「私たちは、旅をしているんだ、それでこの町に立ち寄ったのだけれども……。」
「え、そうなの!?なんだあ、みかけない顔だったから、てっきりここに引っ越してきた人かと思っちゃったよ!」
はやく言ってよ恥ずかしい、と言いながら娘はばしばし男の背中を叩きます。もはやどうするのが正解なのかも皆目見当がつかない男と子どもは、娘が落ち着くまで、待つしかありませんでした。
やっと娘が落ち着く頃には、家々の間にみえる空に浮かぶ雲は全て違うかたちの雲にかわっていました。ふぅと一呼吸して少女が申し訳なさそうに口を開きます。
「この町ね、どこの町からも遠いからほとんど外から人がこないんだ。新しくここに来る人は大体引っ越してきた人だから、ついお兄さんたちもそうだとおもっちゃった。」
ごめんね、と謝る娘に、大丈夫だと伝えて、今度はゆっくりと話しながら三人で歩いています。
「うち花屋だから腹の足しとかにはならないんだけどさ、お詫びに好きな花あげるから寄っていってよ。」
からりと笑う娘に、ではお言葉に甘えて、とこたえ三人は市場の奥へ奥へと歩いていくのでした。
人々で賑わう市場を奥に向かうと、だんだんと人の数がまばらになっていきます。
「奥の方はあんまりお店がないからね、ここまで買い物に来る人は少ないんだ。」
うちの花屋に宝石屋、時計屋に小さなパン屋、と指をおりながら娘は店の名前をぶつぶつと呟いています。
「あそこ、そこの手前の角がうちの花屋だよ!」
娘が指さした右の通りの角には、小さな花屋が確かにありました。母さんだといいんだけど、と娘が言っているのが、小さくきこえました。
「ありがとうございました!」
ちょうど店から花束を抱えた老紳士がでてきます。そのあとを見送りに店から出てきたのは、花屋というよりはパン屋にいそうな体格の良い男性でした。
「おぉ、おかえり!その方々は?」
「げぇ、父さんかぁ……ただいま、この人たちは旅の人だよ!」
きこえないように娘は小声で言いましたが、父親にはしっかりきこえていたようで、げぇとはなんだ、げぇとは、と父親が腕を組んでいます。
「どうも、ようこそ旅のお方!うちの娘がなにかご迷惑おかけしませんでしたかね?」
「いえ、娘さんには町を案内してもらって……」
助かった、迷惑なんてそんな、と男は続けようとしたのですが、父親はそこまで聞くと、き、と眉を鋭くあげます。まさかお前またか、と怒ったように娘に向けて放たれた声に男の言葉の後半はかき消されてしまいました。
「ち、ちがうよぉ、道に迷って困ってたから案内してただけだもん……。」
だんだん声が小さくなっていく娘に、やっぱり、またやったんじゃないかと怒りを通り越して呆れたようにため息をついて、父親は男たちに向き直りました。
こちらを向いたと思ったら、しゅば、と深く頭を下げます。親子そろって動きが唐突だなぁと、ここ数時間で慣れたのか達観したように考えている子どもの横で、相変わらず慣れない様子の男はびくっと肩を震わせました。
「うちの娘に町中をものすごい速さで連れまわされたんでしょう、本当に申し訳ない!」
何度も言ってるんですが懲りずに、と、花をつついている娘の頭を父親がぴしりとたきました。
「いてっ父さんひどおい!叩くことないじゃん、母さんに言うからね!」
「おーおー言え言え、母さんにも後でたっぷり叱ってもらうからな!」
わあわあと親子は店先で口喧嘩をしています。またもや男たちは置いてけぼりをくらい、外に立っていることしかできません。花屋の隣の時計屋のおじいさんが、今日も元気にやってるねぇとほけほけ笑いながら店先の掃除をしています。
穏やかな風に吹かれてのんびりと白い雲が町を覗いて流れていきました。
「いやぁ、本当に面目ない。つい娘を叱ることばかりが先立ってしまいまして……。」
頭を掻きながら男と子どもに頭を下げます。
「お詫びの心も含めまして……男性お二人とは言えど野宿はやはり危険です。もし今夜の宿がお決まりでなければ、うちにどうぞ泊まっていってください。」
普通の狭い家なんですが、ちょうど部屋も一つあまっておりますし、いかがですかと眉を下げて父親が言います。宿も決まっておりませんでしたし、断る理由もない男たちは、ご迷惑でなければ一晩お願いしますと、ぺこりと頭を下げました。
「やったぁ、そしたら今日は私と一緒に……。」
目を輝かせる娘に、こら、お疲れだろうにお前は全く、と父親が睨みつけます。
「いや、私は構わないよ。」
「うん、僕も。」
男と子どもの言葉に、娘はぱちんと指を一つ鳴らしてやったね、と喜びます。じゃあ早速、と言って男たちの手をとり歩き始めました。
「夕飯までには帰るから!いってきまーす!」
手を振って嬉しそうな娘の姿に全く、と息をつきつつも少しだけ顔をほころばせた父親は一つ手を振り返して三人を見送りました。
「こんにちは、お友達の誕生日に花を贈りたいんですけど、花束お願いできますか?」
「こんにちは、いらっしゃい!もちろんですよ、ご友人さん好きな色とか、好きなお花は……。」
やってきた若い女性に向き直りながら、小さな花屋の昼下がりはゆっくりと過ぎていきます。
複雑な町の道を進む娘を男と子どもがついてゆきます。
「昔はこの町もっと小さかったんだって。だんだん人が増えて、家を増やしていたら道がこーんな迷路みたいになっちゃったんだってさ。」
家も似てるし、わからなくなるよねぇと娘はけらけら笑います。
「町の人でも迷うくらいだからね。ま、その点私はこの町を隅から隅まで知り尽くしてるから何の心配もいらないんだけど!」
そう言いながらも娘はどんどん角を曲がっていきます。もうどの辺りにいるのかは男たちには全く分かりませんでしたが確かに、娘と出会ってから一度も行き止まりにあっていません。
「凄いな。ところでこれからどこに行くんだ?」
素直に感嘆をもらして、男は疑問に思っていたことを口にしました。
その言葉に、ふ、ふ、ふ、と小さく声を漏らして笑いながら、娘が体ごと振り返ります。男たちの方を向きましたがその足は止めず、後ろ向きのまま歩いてゆきます。器用なことに曲がり角はちゃんと曲がりながら、男たちに人差し指を揺らしました。
「町を探検するんだよ!私は知り尽くしてるけど新入隊員たちの為にね、今はスタート地点に向かってるの、ゴールはもちろん我が家。目標は日没前!」
もちろんヒントも出すから安心してね、と言って、娘はくるりとターンしてまた前を向きます。丁度道の曲がり角、くるりと回った娘に、小さなこどもがとん、とぶつかりました。
「わ。」
「ひゃ、ごめんね!大丈夫!?」
ぺちりと尻もちをついた小さな少女の手からぱらぱらと白い花がおちました。慌てて少女を助け起こす娘に、だいじょうぶ、と少女は笑います。
「あ、はなやのおねえちゃんだ。」
お尻の布をぺちぺちと払った少女が娘を指さして言います。ごめんねぇ、と言いながら少女がおとした花を拾っていた娘は、少女の言葉ににこっと笑いました。
「そうだよ、本当にごめんね、はい、これお嬢ちゃんのお花!」
ううん、大丈夫、と首をふるふると振る少女は、娘の差し出した花を嬉しそうにうけとりました。
「ありがと!このおはなね、ままにあげるの!ね、このおはなのなまえ、わかる?」
こて、と首をかしげる少女に、娘はもちろん、と笑顔でこたえます。
「その花は、シロツメクサって言うんだよ。ちっちゃいころは花冠とか指輪とか作って遊んだなぁ。そうだ、その子の花言葉はね、"幸運"っていうんだよ!お母さんとお嬢ちゃんに幸せがいっぱい来ますように、っていうお花なの。」
娘の説明を大きな目を輝かせてうんうんと頷きながら少女はきいています。最後まできいた少女は、おねえちゃんすごいねぇと声をもらしたかと思うと、あ、と何かを思い出したように娘に話しかけました。
「これね、めがみさまからわけてもらったの!だからもっといっぱいいっぱい幸せくるね!」
「そうだったんだね、すごい!もうすーごいいっぱい幸せがくるよそれは!すごい!」
わーと嬉しそうに頬を染めながら、少女が笑います。早く母親に渡したくなったのか、ありがとじゃあばいばい、と手を振って少女は道をかけてゆきました。それを見送って三人はまた歩き出します。
「ふぁー焦ったぁ……でも怪我なさそうでよかったよう。」
息を吐いて娘は胸をなでおろしました。あ、そうだ、と今度は体を前に向けたまま、娘が男たちを肩越しにちらりと少しだけみました。
「さっきのシロツメクサね、お嬢ちゃんにはちょっと早かったから言わなかったんだけど、"私をおもって"っていうのと "約束"っていう花言葉もあるんだよ。」
お兄さんなら想い人の一人や二人いるんじゃないの、とにやにや娘が笑いますが、心当たりもない男はいやいないな、と返しました。
「ちぇー。でも花好きなのあげるって言ったし、なんかおもい当たったらすぐ言ってね!小さい花束とかなら作れるからさ、花言葉も含めて最高の花をあげるよ。」
そう胸を張る娘に、考えておくよと答えます。良く知ってるなぁ、と驚きつつ、先ほど気になったことを男は娘に尋ねました。
「なぁ、さっきの子が言っていた、女神様っていうのは……。」
男の問いに、ああそっか、と一つ頷いた娘は、目的地へと足を動かしながら説明してくれます。
「この町には女神信仰があるんだ。町の市場の通りは一方が森に向かって、一方が他の町に向かってまっすぐのびてるんだけど、森の方にまっすぐ行くの。その森の中に綺麗な泉があってね、そこに森と町を守ってくれる慈愛の女神様がいるんだ。この町ができた頃からずっといるらしくて、昔、この町の人が迷わないように泉までの一本道を作ったから、さっきくらい小さな子でも、道をはずれさえしなければ泉まで行って帰ってこられるんだよ。」
まぁでもあの子は多分内緒で行ったんじゃないかな、あれだけ小さい子を一人で行かせるってなかなかないし、と娘は言います。
「ちょっと脱線しちゃったね。それで、町ができた時からずーっと変わらずにいる女神様なんだ。私も会いに行くけど、すっごい若くて綺麗で優しいんだよ。本当に、理想の女神様そのもの、て感じなの。」
あぁなりたいなーと頬に手を添えて言葉を切った娘に、子どもが疑問に思ったことを口にしました。
「会いに行く、て、そんなに簡単に会えるものなの?」
うん、と迷いもなく頷いた娘は、子どもにこたえます。
「いつも泉のところにいるよ、それ以外の場所では見たことないけど。ご加護をもらうとか何とかで、五つになると絶対親に連れていかれるんだ。あとは結婚した夫婦が行くとか、子どもが生まれたときも行くってきいたよ。祝い事の時には行くみたいだね。まぁ私は祝い事とか関係なく遊びに行ってたけどね、いつ行っても女神様に会えたよ。行って会えなかったって話はきいたことない。そういえばシロツメクサの編み方教えてくれたのも女神様だったなぁ。」
娘の話はまた脱線していましたが、おしゃべりは止まりません。
「すごく博識だしね、本当に凄いの。それでびっくりするぐらい綺麗な人なんだけど、なんてったって夜が一番綺麗なんだよ。夜は獣もいるし駄目だってみんな言うんだけど、一度だけこっそり抜け出して会いに行ったことがあるんだ。儚げで美しくて……あーあんな人になりたいなぁ、そしたら私も町中の男をとりこにできるんだけどなぁ。いやむしろもう国、国狙えるよね、そうなったらどーしよー。」
男たちに話してくれていたはずがいつの間にか自分の世界に入ってしまった娘に、男と子どもはこそこそと後ろで一緒に話しています。
「あれはもうきこえてないね……。」
「あぁ、私たちは彼女の何か、引き金をひいてしまったのかな……。」
「まぁそういうこともあるよ。本人が楽しそうだしいいじゃない。ところでさっき出てきた女神様だけどこの町を守ってるっていうなら挨拶しに行った方がいいよね。」
「あぁ、しかも彼女の話通りならその女神の森を通ってきたんだろうしな。」
男と子どもはこの町に来る前、広い森を歩いてきました。道なき道を歩んできた彼らですが、森を抜けた時に、確かに一本だけ人が手入れをしている道が近くにあり、伸びた草をわけてその道を辿り、彼らはこの町に辿り着いたのでした。
「この様子だと、今日と明日、彼女が起きている間は解放されそうもないね。」
「となると、やはり夜行くしかないな。」
「でもさっきの彼女の話しぶりだと夜は行ったらいけないんじゃない?花屋のおじさんに言ったらとめられるかもしれないよね。」
ならば。やはりここはこっそりと森に向かうしかないな、と二人は頷きあったのでした。
娘は二人が話していることには特に気付かず、ひたすら一人話し続けていましたがその足はしっかりと目的地に向かっておりました。
「んでね…あ、着いた!」
段々と歩く道に傾斜がついてきたとは思っていたのですが、いつの間にか大分高くまでのぼってきていた男たちの目にはあれだけ迷った町が映ります。そこは町を一望できる高台の広場でした。先が少し尖り円を描くように一周した屋根の下に、ベンチが屋根におさまるよう丸く設置された休憩所がぽつりと設置されています。
町は上からみても入り組んでいて、壁があって行き止まったその先は別の道になっているところまでありました。町全体が淡い煉瓦で彩られる中、人々の服や店の装飾がカラフルなこの町の市場の通りは遠くからみても色鮮やかです。相も変わらずのんびりと水彩の空をまっしろい雲が流れていきます。
太陽はてっぺんを少し過ぎて、ゆっくりと西へ傾き始めていました。
「あの太陽が沈む前に、うちの花屋に辿り着くこと!出発は町が一望できる手掛かりいっぱいのここだよ!ゆっくり見てから出発していいからね、それじゃあはじめ!」
カラフルな服をまとう人々の往来を綺麗だなぁと見ていた二人は、娘の突然のスタートの合図に慌てて道を覚え始めます。
花屋も見えていますがここからだと大分距離があるようです。ゴール地点から逆算しながら二人は言葉もなく町を見つめます、まっすぐ曲がらない道がメインストリートしかないため、一筋縄ではいきません。彼らが道を覚えている間、娘は軽快に口笛を吹いてスキップしたり、ベンチに座ったりして暇を持て余していると言わんばかりです。
結構な時間目の前の町を覚えようと見つめていた二人が、小さな声でよしと言うのを耳ざとくとらえた少女がぴょこ、と寝そべっていたベンチから飛び起きます。
「待たせた、行こう。」
「よしきた!私は後ろからついていくからね、それじゃしゅっぱーつ!」
腕を振り上げる娘の声を背に、男と子どもは迷路の町へと戻るのでした。
上から見て道を確認し、出発してはじめはすいすいと進んでいたものの、あまりにも入り組んでいる町に何度か行き止まりながら、それでも確かに男と子どもは進んでいきます。
途中で後ろから、へぇ、だとかほぉ、だとかなるほどねぇ、だとか惑わせるような娘の声がきこえますが、男たちはその度に、太陽と建物から伸びる影のかたちをみて、これで大丈夫、と前へ進みました。
何度も行き止まり、そのたびに曲がり角まで戻りながら男たちは進んでゆきます。時々娘が、ここは靴の修理屋さんなんだ、とか、ここは服の仕立て屋さんだけど、営業してる日はそんなにないの、とか説明をしてくれるのをききながら、石畳の道を三人は散歩する様に歩きます。
ゆっくりと、けれども確かに流れていく時間は町を柔らかな赤色に染め上げていきます。
やがており始めた昼の幕引き、紫紺のカーテンにあいた小さな穴の向こうからきらきらと光が漏れ始める頃、曲がった角の先には花屋がみえました。からからと音を立てて下げられてゆく店先の雨戸の方へ三人が走りよると、それを引っ張っていた娘の父親が足音に気がついてこちらを振り返りました。
「おお、おかえり!ちょうどもうすぐ夕飯だ。」
「ただいま、やったね!今日の夕飯なんだろー。」
間に合ってよかったなぁ、と笑う父親に、ギリギリね、と娘が返します。
「旅の方たちもどうぞゆっくりしてってくださいね。」
そう言って父親は少しだけあいていた戸をがしゃんと下までおろしました。
「ほら入り口はこっち!この花屋の上がうちなんだ。」
手招きする娘についていくと上の階へとつながる外の階段があり、のぼった先に扉がみえました。とんとんと階段をあがる娘に二人はついていきます。
「日が落ちたか落ちてなかったか微妙なとこだったけど、夕飯に間に合ったしお兄さんと少年の勝ちでいいよ!」
いやぁうちの新入隊員は優秀だなぁと笑う娘に、一度顔を見合わせた男と子どもは笑いながら、はい隊長、と娘に返すのでした。
「おかえり、あぁ、いらっしゃい。主人から話はきいております。」
扉の音に出迎えに来てくれた娘の母親は、どうぞゆっくりしていってくださいね、と二人を笑顔で招き入れました。すぐに戻ってきた父親も一緒に、夕飯を全員で食べます。
温かいスープとパンからは白い湯気がのぼり、どれも体に美味しく染み渡りました。和やかに話しながら夜の時間は過ぎていきます。
あれだけ昼間に駆け回ったのもあってか、ご飯を食べて話しているうちにうとうとと眠そうにまぶたをこする娘に、父親と母親がもう寝なさいとうながします。
はじめはそれを突っぱねていましたが、どうしても眠気に勝てなくなったのか明日また話そうね、と男たちに念をおして娘は自分の寝室へと向かいました。
「今日は娘がどうもすみませんでしたね、しかも一日遊んでもらったようで……。」
「いや、むしろ私たちが遊んでもらっていたので……。」
すまなそうにする母親に笑顔で男が返せば、ありがとうございます、と母親も笑顔になります。
「あの子には歳の離れた兄がおりましてね。いつも一緒に遊んでいたからか女の子がするような遊びより外で駆け回る方がずっと好きになってしまったんです。」
ほぅ、と息をついた母親の言葉を、温めたミルクのカップを持ってきた父親がそれを手渡しながら引き継ぎます。
「その兄が昨年結婚し、大きな町の方へとお嫁さんと引っ越して、娘のやんちゃを受け止められるのがいなくなってしまったのです。」
私たちは夫婦で花屋を経営してるから中々構ってあげられなくて、と困ったように父親は眉をさげ、ずずとミルクを飲みました。
「それからです、町を歩く知らない顔を見かけると連れまわすようになったのは。多分寂しかったんでしょうね、兄の面影を探しているんでしょう。」
だから今日はあの子と遊んでくれて本当にありがとう、と夫婦はそろって男たちに頭をたれます。いや、そんな、と男も子どもも言いますが、夫婦はありがとうと返すばかりです。
「あの子に付き合って、今日は疲れたでしょう。これを飲み終わったらお部屋に案内しますね。」
そう笑ってカップを傾ける母親にならうように、男と子どももカップを傾けます。はちみつが入っているのかじんわりと甘いミルクはなんだかとてもほっとしました。カップが空になったのを見計らって夫婦が二人を部屋へと案内します。
「何にもないところですが、ゆっくりしていってくださいね。」
優しく笑う夫婦が扉を閉めれば、ベッドと布団が敷かれた部屋に男と子どもは二人だけ残されます。
「さて、どうする?」
男の言わんとするところを正確に受け止めた子どもは一度考えるように瞳を閉じてから、また目を開けました。
「まだ日が落ちてそこまでたったわけではないし、みんなが寝静まる頃でないとばれずに抜け出せないと思うから、一度ここは眠った方がいいんじゃないかな。」
子どもの言葉に、そうだな、と男も頷きます。
夜もまだ浅く、どこの家もあかりを灯しているうちは動きづらいと、二人は昼間休みなく歩き回った疲れを癒すように眠りにつくのでした。
ゆらゆらと、光が揺れています。それをぼんやりと見ていた男は、不意に、揺れているのは光ではなく自分の体なのだと気がつきました。
ゆさゆさと、揺らされる振動にまぶたを開いた男の視界に子どもが映ります。
「良かった、全然起きないからどうしようかと思ったよ。」
そう言って男を揺らすのをやめた少年は立ち上がって窓の外をみます。
「もうみんな寝てしまったよ。今夜は月のない夜だから正確な時間はわからないけれど。」
いつ朝が来るかわからないから急いでいこう、と子どもが男を振り返ります。ありがとう、そうだな、と返して男は立ち上がり子どもとそっと部屋を抜け出すのでした。
深夜の町は灯りもほとんどなく、月のない夜空に小さな星がきらきらと瞬いています。
昼、あの高台から町を見下ろしたときに森がどちらかも確認していた二人は暗い夜の道を迷うことなく進むことができました。暗く、音もない町は、まるで自分たちの他に誰もいなくなってしまったかのようです。
「この中を、一人で泉に行ったのか…彼女はすごく度胸があるな。」
しかも結構小さいときに行ったようだったしね、と男の呟きに子どもが返しました。
あまりに静かなので自分たちが話すこともためらわれるな、と男と子どもはそのあとは何も言わずに、森の泉へと向かうのでした。
町の外へと続く道は娘の言うとおりにどこまでも一本道で、森に入って闇が深くなっても足元の道を頼りに彼らは進みます。
唐突に、ずっと木々に隠されて見えなかった星空が見えました。それは自分たちの頭上ではなく、道の続く地上に大きく広がっています。そっと足を進めた二人は、近づいてやっと、それが星空を鏡のように映した泉だと気がつきました。そして、その泉の岸辺に立っている、一つの影にも。
「こんばんは。こんな遅くに、大変だったでしょう?」
星影はその表情を照らすにはあまりにひそかに光は遠く、ただその声がとても静かで優しいことだけを伝えるのでした。
星を映した水面に手を伸ばしても掴むのは澄んだ水、光に触れることは叶いません。
暗く淡い星の夜、岸辺の白い花がさわさわと涼やかに風に揺れます。
男と子どもはこの花を知っていました。沢山の色を纏い太陽の元できらきらと笑う花屋の娘が教えてくれた、花でした。
『その花は、シロツメクサって言うんだよ。ちっちゃいころは花冠とか指輪とか作って遊んだなぁ。そうだ、その子の花言葉はね……』
あの娘を太陽と例えるのなら、目の前の女性は月でしょう。淡く微笑み溶けて消えてしまいそうな儚さを纏った女性は、泉に触れたその細い手で、白く小さなその花にそっと触れました。話にきいた女神というものがいるのならきっとこのような人なのだろうと思います。そしてその推測はきっと間違っていないのでしょう。
「私の名を、あなた方はご存じですね。」
そう言って、女性は伏せていたまぶたをあげて、男たちをみるのでした。
思わず飲み込んだ息を意識してふ、と吐いた男は、はい、と口を開きます。
「こんばんは、泉の女神様……はじめまして、慈愛。」
ええ、その通りです、と穏やかに微笑んだ女神は、こっちへいらっしゃい、と二人を手招きしました。招かれるまま、女神の横に座ります。
「旅人よ。あなた方のことは知っています。この森は私の体の一部のようなものだから。」
「挨拶もなく森を通ってしまってすまない。」
女神の言葉に申し訳なさそうに謝る男をみて、女神は小さく声をあげて笑いました。
「謝ることなんてないのですよ、森はみんなのものですもの。」
でも、そうね、と考えるように男たちから目をそらし、目の前の泉をみつめる女神は、そっと口を開きます。
「もしそれでも悪いと感じてしまうのなら、私の話をきいてくださいますか?」
じっと泉を見つめたままの女神に、はい、と男と子どもはこたえました。
「ありがとう。こたえがほしいわけではないのです、ただ、きいてほしいの。」
そう続ける女神にこくりと頷いて、男たちは女神の言葉を待ちます。
「あなた方が知るように、私は慈愛。生まれてからずっと、ここに生きる女神です。でもね。」
名前を、くれたのです、と女神は嬉しそうに笑いました。
「泉を守り、町を守る女神でもなく、慈愛でもなく、あの人は私自身の名前をくれたのです。」
慈愛や女神としての役目しか持たなかった私に、初めて私自身であることを許してくれた人がいたのだと、静かな泉の水面を見つめながら女神は微笑みました。
「こんなことを初対面のあなた方にいうのは可笑しいですよね。」
すみません、でも、と女神は哀しそうに目を伏せました。
「この町のものではない、旅人のあなた方だったから。」
女神は、町の人たちのことを、一人残らず平等に愛していました。町の人たちも、女神のことを大切におもい、とても愛していました。けれど彼らの関係は、どうしたって平等ではなかったのです。たとえそれを女神自身がのぞんでも、町の人たちはそんな恐れ多いと、一歩下がるばかりでした。彼らは、慈愛の女神は平等に皆を守り愛を注ぐべきだと信じて疑いませんでしたし、神や悪魔を信じている彼らの町では、彼女は揺るぐことなき崇高な主だったのでした。
「私は町の人々と共に生きてきた慈愛の女神です。だから誰か一人を特別に想ってはいけない。」
けれど、と。言葉を続ける女神の頬を静かに涙が流れていきました。
「私は特別を知ってしまった。一人の人を、愛してしまいました。」
鏡のような水面に女神の涙がゆるやかな波紋を描いていきます。
「ここがこの町でなければ、もしかしたら誰かを愛してもよかったかもしれない、そんなことを考えてしまうのです。」
慈愛とはもともと平等であることを前提とするものではないことを、女神は知っていました。それでもこの世界に生まれた時からずっと慕ってくれる町の人たちを裏切るまいと、彼女は平等であり続けてきたのです。
愛しているのに、大切におもっているのに、芽生えてしまった町の人たちへの感情に、一番嘆いているのはほかならぬ彼女自身でした。
しかも悪いことは重なるもので。
「そして、私が愛した人は、町の人々が忌み嫌う姿をしていました。」
女神が生まれた時から女神であったように、人が生まれた時から人であるように。悪魔もまた逃れようはなく悪魔なのでした。それを信じるものたちにとっては、その個人の性情などは関係ありません。どんなに心は清く優しくとも、この町では種族が全てを、司るのです。
「本当に神がいるのなら、なぜこんなことをしたのかと、問いたい。」
次から次へと零れ落ちる涙をぬぐうこともせず、女神はぽつりと呟くように言いました。
「旅人よ、できるだけはやくここを発ちなさい。ここはきっと遠くない未来、戦いがおきます。町の人々に背を向けることも、愛する人を逃がすこともできなかった私の意思の弱さを火種として。」
苦しげに、哀しげに顔をゆがめた女神はそれでもなお、微笑もうとしながら男たちを見ました。
「密やかに、秘めやかに。でも隠していた真実は、どこかで綻びをもたらします。」
「きいてくれてありがとう。こんなことを言える資格はもうないのだろうけど……どうか、あなた方に愛の加護がありますように。」
両の手を祈るように組んだ女神はしばらくの間そうした後に手をほどき、男と子どもを一人ずつ抱きしめました。
「さぁお戻りなさい。」
今夜は月のない夜だから、気を付けてと言って女神が二人に手を振ります。
「うまく言えないけどな、愛することが悪いことだなんて、ないとおもう。だから……あなたにも、愛の加護がありますように、そう祈るよ。」
じゃあまたいつかどこかで、と背を向けて男と子どもは町へと帰っていきます。
その背を見送り、泉を静寂が包むころ、女神の頭上の星あかりが突然遮られました。
「本当に、良かったの。」
優しい低音が空から響き、音もなく悪魔が女神の横に舞い降ります。えぇ、と返しながら、女神は悪魔を一瞬みたあと、また男たちの消えていった闇へと視線を戻しました。
「私がいなくなれば良いとわかってはいるんですが、少し欲深くなってしまったようです。」
またそういうこと言うの、俺泣いちゃうよ、と泣き真似をする悪魔にくすくすと女神が笑います。泣かないで、とぎゅっと抱きしめたその耳元で、大丈夫、全部まもるよ、と囁くように誓うように告げる声がきこえました。
「そう、そうね……。でも今はまだ、秘密はどうか星灯りに隠しておきましょう。」
揺れる瞳を隠すように閉じられたまぶたにそっと口づけを落として、そうだね、と悪魔は女神に微笑みました。
暗い森を抜け、静かな町へ戻った男と子どもは、特に言葉を交わすこともなく、そのままもう一度眠りにつきました。それからどれほどの時間眠れたのかはわかりませんが、窓からさしこむ朝の光が夢を見る間もなくさしこんできたので、あまり長い時間ではなかったのではないかと思います。
娘の朝ごはんだよ、という声で目を覚ました二人は、娘の母親が作ってくれた熱々の朝食を食べて昨夜の約束通りに娘とたくさん話した後、太陽が空のてっぺんに届く頃にもうそろそろ出発することを彼女に伝えました。
少しだけまだいいでしょうと娘は食い下がりましたが、近くにいた父親に言い含められ、しぶしぶ二人を見送る、と首を縦に振ったのでした。
「出発する前に、昨日、花をあげるって約束したでしょ?なにがいいか決まった?」
少しすねながらも、女に二言はないからね、と言う娘に、子どもは僕は大丈夫だからその分はこの人に足してあげて、と返します。
ううん、と悩んだあと、男は、あ、と声をもらし、口を開きました。
「こう……愛、みたいな花言葉の花ってあるか?」
ひゅう、と口笛を吹いた娘は、やるじゃん、と男をひじでつつきました。
「そしたらやっぱ赤いバラの花だよね!本数で意味も変わるよ。」
あんまりいっぱいは使えないけど、と娘が教えてくれた薔薇の本数の意味をきいた男は、少し悩んだ後、じゃあ小さいのでいいから七本はできるか、と娘に尋ねます。
「いいねぇ、最高だよお兄さん!もちろん、任せて!」
すぐ出来上がるからちょっと待っててよ、と腕まくりをする娘を、男が慌てて止めました。
「いや、いいんだ。私じゃないんだ。今度時間があるときでいいから、それを泉の女神に渡してきてくれないか。」
思いがけない言葉にぽかんと口を開いて言葉を失っていた娘でしたが、え、え、と顔を赤らめ始めます。
「ええお兄さん女神様に……!?え、そんな本当!?」
きゃーと楽しそうに笑っている娘が何か勘違いしていることに気がつかない男は、ああ、よろしく頼む、と娘にいいました。
「そういうの凄い好きよ!任しといて、ちゃんと最高の花束渡すからね……!」
今までにない興奮と瞳のきらめきかたをしている娘に、助かる、と男が短く返します。
「ちょっと、鈍すぎるかな……。」
子どもの小さな呟きに、どうした、と男は言いますが、何でもないよと子どもは笑顔で返すばかりです。
花屋の夫婦に礼を言い、力いっぱい手を振る娘に手を振り返して、男と子どもはその町をあとにするのでした。
町を出発してからしばらくして。
「きいていいものか、悩んだんだが……。」
男の言葉に、うん、と子どもが返事をします。
「君は、少年か、それとも少女か。」
お姉さんと呼ばれていたことと、少年、と呼ばれていたことを思い返しながら、男はそう尋ねました。
その問いにふふ、と楽しそうに笑った子どもはこたえます。
「全ての謎に答えがあるとは限らない。僕は男でもあるし、女でもある。少年だと思えば少年だし、少女だと思えば少女だよ。」
どっちがいいとかあるの、と問い返された男は逡巡してから、口を開きました。
「いや、どっちだって君は君だろう。それでいいんじゃないか。」
まっすぐに子どもを見つめる瞳に曇りはなく、子どもは、うん、そうだ、と短く返して話は終わりました。
町をこえて、草や時々木々が生える一本道を歩いてゆく二つの影は、町から遠ざかり、やがて見えなくなったのでした。
それから程なく、女神の元には、旅人からとの伝言付きで赤いバラの花束が届けられたということです。
ことほぎ 青原凛 @rin-o
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