忘れた瞳の宝石
忘れたことがあるんだ。でも、いつか忘れたことさえ忘れていく。
そうやって、きっと傷は癒えていくんだとおもうよ。
男と子どもは穏やかに輝く森を二人、旅していました。朝の光で目覚めて、夜の暗闇に眠る生活は心地よく、鳥のさえずりも雲の流れも、何もかもが優しく彼らを包むようだと、そんなことをおもっておりました。
雨が降ると大変だということはわかっているのですが、あの一晩以降はそんな様子もなく毎日森を照らす太陽に、彼らは少し慣れてしまっていたのかもしれません。
ただその慣れをも肯定するような晴れた日は続き、ある日の昼下がり、森の中にぽかりとあいた木々の切れ間を見つけた二人は、そこの柔らかな草の上に寝ころびました。
彼らはそっと瞳を閉じます。木々のさざめき、鳥の声に川のせせらぎ。
小さく、ですが確かに生命が息づく声が聞こえました。
その中に流れるように、ともすればあまりに馴染んで消えてしまいそうな音楽が鳴っています。きゅう、と心を抱きしめられるような、音楽。
不意に頬を伝う一滴。
雨だろうかと瞳を開きますが、晴れた空を流れる雲間に、輝く雫はみあたりません。
ほろりとそれが伝い落ちてやっと、男は自分が涙を流しているのだと気がつきました。
確かに、鳴っている音楽に心がきゅう、とはしましたが、なぜ涙が流れているのかがわかりません。切なく、哀しく、柔らかく、優しい。それが混ざったような感情が旋律がきこえるたびに生まれてきますが、それでも何かが思い浮かんでくるわけでもなく、ただただ瞳から訳もわからずに涙がこぼれていくのです。
「泣いているのか。」
穏やかな声が聞こえて、そちらに目を向けると、男と同じくらいの背丈をした男性が、こちらを心配そうにのぞき込んでいるのでした。
「わからないけど、涙がとまらないんだ。」
どうすればとまるだろう、と尋ねる男に、男性は首を一度振ります。
「それは、とめなくていいんだ。そういうものだから。」
一緒においで、と男性は寝ころんでいた男をぐい、とひっぱり起こしました。
男性は隣の子どもも同じようにひっぱり起こしましたが、やはり子どももその瞳から静かに涙を流しているのでした。
男性について、男と子どもは歩いてゆきます。その間も零れる涙はとまらず、歩いてゆく道にぽたりぽたりと落ちては消えていくのです。
遠くからきこえていたはずの音楽はいつの間にかゆっくりと近づいています。
音楽が近づいてきているのかとも思いましたが、近づいて行っているのは自分たちの方だと、男は気がつきました。
「この音楽は、一体なんなんだ?」
前を歩く男性に問いかけますが、じきにわかるよ、と男性は男のことをみることもなく返します。
そうか、とそれ以上の質問はせずに、二人は鳴り続ける音楽に耳を澄ませながら、男性の後をついていくのでした。
木々の間を抜け、小川を越えて、男性は歩き続けます。
そうしていつの間にか、先ほどまで男たちが寝ころんでいたような木々の間にぽっかりとあいた空間に、彼らは辿りついたのでした。
そこは先ほどの場所よりももっと広い場所で、彼らの他に先客が何人かきていました。
ハープやフルート、ビオラなど、それぞれに楽器を手にしたその人たちは、ずっときこえていた音楽と同じものを演奏しています。近づいていた音楽の源は、ここだったようです。
澄んだ音色と不思議な旋律、それを奏でている人たちは、ほんの少し体が透けて見えました。
見間違いかな、ともう一度見ますがやはり楽器を持つ人々の体は一人残らずほんの少し透き通り、その向こうの景色がぼんやりと映っているのでした。
男性たちがやってきたことに気がついた一番手前でハープを演奏していた人がその手をとめました。
「やぁ、こんにちは。新しい人かい?」
「やぁ。いいや、彼らは違うよ。」
そう男性が返している間に、ハープの音が途切れたことに気がついた他の人たちも演奏をやめ、音楽はとまりました。
それと共に、ずっと頬を流れていた男と子どもの涙がすぅ、ととまります。
やぁ、こんにちは、と口々に挨拶をしてくる透き通った人たちに、こんにちは、と男たちは返事をします。
「この人たちは迷いこんだ人たちだよ。」
透き通った人たちにそう言って、男性は、男たちを振り返りました。
「彼らは、精霊たちだ。音楽が得意でね、とても素敵な音楽を奏でる。君たちもきいたろう?」
それがきこえたからここに君たちはきちゃったんだけどね、と男は言います。
「でもきこえたってことは、君たちは来るべくしてここに来た、ということだ。僕の名前は記憶という、よろしく頼むよ。」
そう言って差し伸べられた手は太陽の光にうっすらと透けています。よろしく、と言いながらその手を握ろうとした時、男はやっと気がつきました。自分の手も男性ほどではないもののかすかに自分の向こう側の景色を映していることに。
「ところで、ここはどこなんだろうか。」
聞きたいことは山のようにありましたが、まずは順を追って、と男は男性に一つ質問をしました。
「ここは君たちがいた森さ。でも今ここにいる君たちは、体のない記憶だけの状態だ。」
実体はさっきの場所に置いたままさ、と男は言います。
「体が離れるから、透明になる。離れれば離れるほど、体の透明度があがっていくんだ。だからほら、みんな透明度が違うんだよ。」
そう言われてから精霊たちをみると、男性の言うとおり、透明度には確かに少しずつ差があるようです。
「精霊って言っていたけれど、体の透明度が違うということは彼らは人ではないのか?」
男が疑問を口にすれば、それはみんな生まれた頃は体があって透明じゃなかったからだよ、と何でもないことのように男性はこたえます。
「実体からの距離、あとは透明になってからの時間、実際の距離と時間の距離が体の透明度を決めるんだ。」
男性の説明に、そうか、と答えて、男はもう一つの質問を投げかけました。
「あの音楽は、一体なんだったんだ?音楽が止まってから、涙も止まったんだ、理由をあなたは知っているんだろう?」
じきにわかる、と言われてそのまま歩いてきましたが、やはり音楽がきっかけで涙が出ていたのだと思ったので男はそれも尋ねます。
一度まばたきをした男性は、あぁ、そうだったなぁ、と思い出したように、口を開きました。
「なんて言えばいいんだろうな、それを話そうとすると、結構色々な手順が必要になるんだよなぁ。それに関しては、これから順を追って話すから少し待ってくれるか?他の疑問があるのなら先にそっちに答えよう。」
少し言いよどみながらも男性はそう男に説明します。
じゃあ、とそれを黙ってきいていた子どもが口を開きました。
「さっき体から僕たちは離れてるって言ってたけど、それって大丈夫なの?」
大丈夫か、という言葉に含められた様々な意味を汲み取りながら男性は、頷きます。
「離れても、一定時間内なら絶対に自分に戻れる。その時間制限が来るまでに絶対俺が戻してやるからそこは心配しなくていい。初対面で信じろというのも難しいだろうが、そこはどうか信じてほしい。それと体の方は今時間が止まっている状態だ。さっき言った時間制限っていうのはこのことだ。体の時間だけじゃなく周りの時間も丸ごと止まってるからな、外からの危険もない。時間制限内は時が止まったままだけど、それを過ぎると時間が動き始めるから、それまでに体に戻らないといけないんだ。」
そう言って、男性は、どうだろうか、と子どもを少しだけ困ったように見つめます。男性をじっと見つめ返していた子どもは、やがて、わかった、信じるよ、と返事をしました。
君はどう、と男も子どもにきかれますが、男も、信じよう、と短くこたえました。その返事にふ、と息をなでおろした男性は、ほかに質問はあるか、と男と子どもをみます。
一度視線を合わせた男と子どもは、男性の方をみてふるふると頭を振りました。
「よし、じゃあさっきの音楽についてだな。」
男性はそう言って、楽器をその手にこちらを少し遠くからじっと見つめていた精霊たちを手招きして呼び寄せました。
「ここからは、彼らも必要だからな。」
男が少しだけ笑いながらまぁ座ろう、と腰を下ろしながら男たちに言いました。
近づいてきた精霊たちも三人が座るのをみて草の上にそっと座ります。
「まず、俺が記憶っていうところまで話したんだよな。」
確認するように男と子どもを見る男性に、そうだ、と二人はこたえます。
「それでこいつらは、精霊たちっていうのも言ったな?」
どうだ、とまた尋ねるように視線をおくる男性に、そうだ、と二人は同じようにこたえます。
「じゃあここからがまだ話していなかったことだな。俺が記憶で、こいつらは、記憶そのものをつなげる精霊たちなんだ。」
精霊たちを見まわしながら、男性は言葉を続けます。
「簡単に言えば、君たちが音楽をきいて涙が流れたのは、こいつらが奏でる音楽が、記憶を呼び覚ますものだから、て話になる。」
そこで男性は一度話を切りました。男性は、男と子どもが今の説明がわかったかどうかをうかがっているようでした。
「なんとなく、わかったよ、続けて。」
子どもの言葉に男もこくりと頷きます。それをきいて男性は一人うん、と頷いて続きを話し始めました。
「こいつらの音楽が、人と記憶を繋げる架け橋になる。ただその記憶は、全部が全部今おもいだせるものではないんだ。例えば遠い昔の魂の記憶。例えばもっと未来の時間の記憶。自分がわからないこと、自分自身ではおぼえていないような記憶も繋いで、こいつらの音楽は呼び覚ます。」
音楽を聴いた瞬間に、何が思い浮かんだか、と男性が問いかけます。
涙が出ていた時を考えてみると、その瞬間には言い表せないほどのたくさんの感情が渦巻くばかりで、記憶という記憶は何も浮かんでいなかったようにおもいます。
それを素直に伝えれば、男性はそういうことだ、と静かに返しました。
「かたちのない記憶をこいつらの音楽は繋げる。そしてここに迷い込むのは、かたちのない記憶が多い者だ。」
何かしらおもいだしてかたちになる記憶があるやつには音楽がその記憶に残らないんだよ、と男は言います。
「君たち、おもいだせる記憶という記憶、思い出が数えるほどしかないんじゃないか?」
男性の言葉はまっすぐ男そのものをさす、言葉でした。
「ああ。私には記憶がない。思い出も、同じ、数えるほどのものだ。」
「だろう?だから君たちには音楽がきこえて、音楽に呼ばれたんだ。俺はそれを、案内するのが役目だ。」
男性は自分のことを指して、男にそうこたえます。
「記憶っていうのはさ、それが必要じゃない時もあるんだよ。忘れないと生きていけないことも時にある。」
それを忘れてしまったという記憶さえも忘れてな、と男は横に座っていた精霊のハープをぽろりと鳴らしました。
「本当に、知らないうちにな。」
そう言葉を紡ぐ男の顔は少し哀しそうにみえました。
「だからこいつらの音楽で心に浮かぶ感情っていうのは、時間や時代はわからないけど、どこかで自分が体験した、あるいは体験する記憶なのさ。」
とりあえずこんな感じだ、もう一度音楽きいてみようか、と言う男性の言葉に、少しだけ悩んで二人はこくりと頷きました。
紡がれる音楽にやはりどうしようもなく、瞳からは涙が次々へ零れていきます。
見えない景色やおぼろげに表情もわからない誰かの顔がほんの一瞬通り過ぎた気がしましたが、掴もうとしてもそれは手をすり抜けていくばかりでした。
かたちのない記憶に見えるのはただ湧き上がり渦巻いていく感情ばかりです。
きこえる音楽は美しいのに、そこに浮かぶ感情は美しさだけではなくて、止まらない涙がそれを押し流そうとしているようにも感じられるのでした。
感情の渦の中、遠くで誰かの声がきこえます。
「涙は、我慢しなくていい。泣いたっていいんだ。」
遠く遠く、響く声はまるで今にも泣きそうな哀しい響きで。
男はまた一粒、新たな涙を零すのでした。
瞳をあけると、音楽は鳴りやんで涙も止まっています。
ですが周りには子どもも、男性も、精霊の姿も見えません。森のぽっかりと開けた広場にいたはずが、男は何もないどこまでも続く草原の真ん中に立っているのでした。
「君が、きっとここの音楽に呼ばれたんだな。」
静かな声にぱっと振り向けば、さっきまで誰もいなかったはずの場所には男性が立っていました。
「忘れたことがあるんだ。でも、いつか忘れたことさえ忘れていく。そうやって、きっと傷は癒えていくんだとおもうよ。長い時間の中で、ゆっくりゆっくり。」
なんのことかわからない言葉を、男性は男に紡ぎます。
「俺は忘れてしまったけれど、君はこれから忘れなければ大丈夫。辛い時は涙を流していいんだ。じゃなければきっと忘れてしまう。」
「どういうことなんだ、私にはその意味が全然わからないよ。」
もっとわかりやすく話してくれ、という男に男性はゆるゆると頭を振ります。
「忘れても癒えるけれど、それじゃ駄目なんだ。俺はそれを探さなくちゃいけない。」
男性は真剣な顔で男を見つめて話し続けます。
「君は、たとえなにがあってもそれを忘れてはいけないんだ。それが君の真実につながる。」
そう言って、最後にほんの少しだけ男性は微笑みました。でもそれは、男には泣いているようにしか、みえない笑みでした。
「さようなら。」
待って、と伸ばした手は届くことなく空を切り。
男は、一人で立っているのでした。
「大丈夫?どうしたの?」
子どもの声で目を覚ました男の瞳から一粒ころりと涙が零れ落ちました。
「なんだか、哀しい夢を見ていた気がする。でもおもいだせないな。」
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