コーヒーと星のランプ
見上げた空が綺麗で、温かい一杯が美味しくて。
それだけで僕は十分すぎるほどに幸せだとおもうのです。
木漏れ日がゆらゆらきらめく森をゆっくりと男と子どもは旅していました。どこまでこの森が続くのかは分かりませんでしたが、澄んだ川で顔を洗い、持っているパンや木になっている果物を食べながら彼らは森を歩いてゆきます。
手持ちの食べ物には限りがありましたが、森のいたる所に新鮮な果物があるため、彼らは別段食料の心配をする必要はありませんでした。
森に入って三度目の夕暮れに、それは突然彼らを襲いました。
いつもはきこえる鳥の声がきこえなくなり、暗くかげる空を見上げると、木々の隙間から、ちかりと光が瞬きます。
渦巻く雲の流れは速く、やがてごうごう、と空を覆う雲の隙間から唸る声が遠くからきこえてきました。
「もうすぐ、嵐がくる。」
空をみあげて子どもは呟くように言いました。どこか雨風から身を守れる場所を探さなくちゃ、そう男に言うので、二人は森をかけてゆきます。光は厚い雲に隠されて、穏やかだった森は風にざわりざわりと小さな悲鳴をあげはじめました。木々の影が落ちる森は夜とは違う這いよるような恐ろしさを所々に隠しながら、二人の背を追いかけます。
遠くできこえていた唸り声がいつの間にか近づいてきて、彼らをとらえようと光る手を伸ばしました。ぽつり、と一粒の冷たい雫が男の手に触れます。弾け、砕けた雨粒を追いかけるように、息つくひまもなく降り始めた雨は鋭い勢いをもって森に降り注ぎました。
髪の毛から滴る雨雫を振り払う間もなく、ぬかるむ地面に足を取られながらも走り続ける二人は、雲の隙間からきこえる唸り声が怒鳴り声にかわる頃、大きな岩のいくつかが重なる間に小さな洞窟の入り口を見つけたのでした。
「雷すごいね。」
「あぁ、洞窟を見つけられて良かった。」
後ろを振り返る子どもと一緒に空を見上げながら、早く嵐が去ってくれるといいのだが、と男はこたえます。洞窟の入り口は小さく、男は腰をかがめながら、雨が吹き込まない場所まで子どもと入って外を振り返りました。岩陰から覗く空には森へと手を伸ばす稲妻が見えます。時々きこえるだけだった雲間から降る雷鳴はひっきりなしに遠くの木々を震わせていました。
ぐるる、ごろ、ぴかり。ごうごう、きらり。
絶え間ないそれをぱたぱたと髪から指から雫を滴らせながら二人がぼう、と見ていると、不意に自分たちの影が長く目の前をのびてゆきました。
「嵐が……。」
少しくぐもるように高い声が岩を反響します。ゆらめく影を視界の端に振り返ると、そこには男の隣の子どもよりも背丈の低い小さな少年が立っていました。
外から吹き込む風に少年のランタンが揺れれば、きぃ、とかすかにきしんで、ランタンの中の光も揺らめきます。男たちと目が合った少年は丸い目をさらに大きくしました。
「大変だ、ずぶ濡れじゃないですか。どうぞついてきて、奥は暖かいので休んでいってください。」
男と子どもが濡れているのに気がついた少年は慌てたようにそう言って、持っているランタンを洞窟の奥の方へぐ、と突き出しました。
雨でぬれた服に吹き付ける嵐の風は冷たく体温を奪っていきます。二人は少年に礼を言いながら、彼のランタンのあかりを追いかけるのでした。
入り口の狭かった洞窟は奥に進むほど広くなっていきます。
触れた岩壁はひやりと冷たく、手のひらの温度を奪っていくようでした。
やがて男がまっすぐ立っても余りあるほど天井が高くなったころ、一本道だった暗い洞窟の奥がほんの少しの明るんでいるのが見えました。光は少年のランタンと同じようにゆらゆらと不規則に揺らめいています。
「雷の音と稲妻の間がすごく近かったから、多分今が過ぎれば嵐も弱まるとおもいます。」
風邪をひいていないといいのですが、と時々男と子どもを確かめるように振り返りながら歩いていく少年の声音には心配の色が滲んでいました。
「突然嵐にみまわれてね、本当に助かったよありがとう。」
「心配もありがとう、少しだけお世話になるね。」
思ってもみなかった助けに感謝する男と子どもに、そんな僕なんかで役にたてれば、と少年は年に見合わないような謙遜をしています。ランタンに照らされた頬は少しだけ先ほどよりもあかく染まっているようにみえました。
「あ、つきましたよ、ここは僕一人のおうちなので遠慮せずにゆっくりしていってください。」
まずは着ているもの脱いじゃってくださいね、風邪ひいちゃいます、と少年はいいながら壁近くに丁寧に積み上げられた白いふわふわのタオルを二枚持ってきて男と子どもに手渡します。
丸くぽっかりとひらけた洞窟の最奥は、真ん中に焚火が揺らめき、所々を模様のあるカラフルな布が彩っていました。少年では手が届かないような高さに長いひもが壁と壁をつないでかけられており、少年はそれを指さして、濡れた服は絞ってからそこにかけてください、と言っています。
お言葉に甘えて、と男と子どもが濡れた服を脱いで互いに背中を向けながら体をタオルで拭いているうちに、少年は小さなチェストをごそごそとかき回しています。
「お兄さんはだいぶ大きいからなぁ、服はないかも……。何か代わりになりそうなものなかったっけ……。」
小声でぶつぶつと呟いていた少年は小さな台をどこからか引っ張り出してきて一番上の引き出しをかき回している最中に、あった、と嬉しそうに言いました。よほど嬉しくなったのか一段大きくなった声は洞窟にわわん、とこだましてゆっくり消えていきます。
顔をあかくしながら、大きい声ですみません、と両の手いっぱいの布を持って少年は二人のところへやってきました。タオルを体に巻き付けて濡れた服をひもに丁度すべてかけおえた二人が、少年から布をうけとりますと、それはお互いのサイズにぴったりの柔らかなコートでした。
「お兄さん、お姉さん、それで大きさ大丈夫ですか?」
二人が答えるよりも早く、あ、ちゃんと川で洗濯してからしまってるから綺麗ですからね、と慌てたように両の手を顔の前で振る少年に二人はくすりと笑います。
「大丈夫、ほらぴったり。」
「ふかふかでいい香りだしね、ありがとう。」
コートを体に重ねて笑う男と、すぅ、とコートに顔をうずめて笑顔を見せる子どもに少年もほっと息を吐いて良かったぁと笑顔になりました。
二人がそれぞれ着てみると、色カタチは違いますがどちらのコートも本当にふかふかと柔らかく、足首まで覆う布地に包まれてぽかぽかと体はあたたまっていきます。
「寒かったですよね、コーヒーでもどうですか?」
といってもここにはコーヒーしかないのです、と苦笑いした少年に、それではぜひありがたく、と答えると少年は、ぱ、と表情を輝かせて、やかんに部屋の隅の樽から水をついで焚火で温め始めました。
そこで火にあたって待っててくださいね、と二人を焚火のすぐ前にある大きな丸太に座らせて少年はうんしょうんしょと小さく呟きながらコーヒーの豆をひいています。何か手伝うと声をかけても、少年は、いいえおもてなしさせてくださいの一点張りです。二人はおとなしく体をあたためてコーヒーができるのを待つことにしました。
しゅんしゅん、と音を立て始めたやかんを火からおろして、ひきたてのコーヒーに熱いお湯を注げば、たちまち洞窟はこうばしいコーヒーの香りでいっぱいになりました。真剣な目つきで少年は丁寧にゆっくりコーヒーをつくります。
ぱちぱち、と洞窟に響く焚火の音と、いっぱいに広がるコーヒーの香り、遠く外の雨音や雷の音もかすかにきこえてきます。瞳を閉じてゆったりとした時間の流れに身を任せていると、お待ちどおさまです、と少年の声がきこえて、ふうわりコーヒーの香りが一層強く鼻をくすぐりました。
「ありがとう、温かくてとてもいい香りだ……。」
マグカップを包むように両の手で持てばその温度がじんわりと伝わってきます。すぅ、と香りを感じようと湯気を鼻いっぱいにすうと、鼻の先が冷たく、じんわりと奥が痛むように感じられました。おもいのほか、雨風で体は冷え切っていたのだと、男はやっと気がつきました。少年の心遣いに感謝しながらコーヒーに息を吹きかけてからそろりと一口飲めば、口いっぱいにこうばしい香りと苦みが広がります。こくり、と飲み込めば苦みの中に甘さがほんのりと残りました。
「おいしい。」
ほぅとあたたまった息を吐きながら零れるようにでた言葉に少年が良かったです、と微笑みます。そういってから、ふうふうと冷ましつつ少年も自分のコーヒーを飲み始めました。
白い湯気を泳がせながら、三人は言葉もなく静かにコーヒーを味わって飲むのでした。
「そっか、お兄さんたちは旅をしているのですね。」
なんでこんな森の中にいたの、ときかれた男たちが旅をしていたのだと告げれば、少年は瞳をきらきらと輝かせました。
「なんでお兄さんたちは旅に出たのですか?」
少年の問いかけに、少しだけ考えた男は、私は自分を知るために、この子は世界を見るためにかな、と答えました。そっか、とその答えに少年も少しだけ考えて、また質問を投げかけます。
「それで、その旅の目標は達成できましたか?」
これには、いいや、まだまだだよ、と男はすぐに返事をしました。わからないことだらけ、と少しだけ笑って。少年の問いに答えると彼はそっかぁ、と微笑み、再び口を開きました。
「僕はずっとここにいるんです。」
そう言って笑う少年は、お兄さんたちは目に見えないもの信じますか、ともう一度質問を男たちに投げかけます。
「あぁ、信じているよ。私が今知っているのは魔法だけだけれどね。」
きっとこれから他の、目に見えないものってやつを知っても同じように信じるとおもうよ、と男は穏やかに続け、隣に座る子どももこくりと頷きました。
「そうだよね、だからここにこれたんだものね。」
小さくそう呟いた少年の言葉の真意がわからずに男は、え、とききかえします。
「大丈夫、もう少ししたらきっとわかります。」
にこ、と笑った少年は、疲れているでしょうし少し眠りましょう、と立ち上がりました。洞窟の端っこに丸まっていた布のひもをほどけばくるくると長い布団がカラフルな布地の上を転がって開きます。だんだんと弱まっていた焚火に小さな麻袋に入っていた土をかぶせれば炎はす、と消え洞窟にはカンテラの光が小さく揺らめくばかりになりました。
少年に寝ましょ寝ましょ、と促されるに流されて布団に横になった男と子どもは、カンテラが映し出す岩壁の光の揺らめきを見つめるうち知らず知らずのうちに、静かな寝息を立てていました。
布団とふわふわのコートに包まれ、水に濡れて走った疲れも手伝ってか、深く深く眠ります。夢も見ることなく眠った男が目覚めると、少年はすでに起きて、焚火に薪を足しているところでした。隣で眠っていた子どもも男が動いたのに気がついてか、ゆっくりと目をあけてぼんやり焚火の火を見つめました。
「おはようございます。よく眠れました?」
笑ってそう言った少年に、おはよう、おかげでよく眠れたよと返せばそれは良かった、と少年は笑みを深くして、やかんに水を汲み火にかけました。
子どももゆっくり体をおこし、くわりと一つ小さなあくびをします。
少し音出しますね、と言いながら少年はコーヒー豆をすりはじめましたが、昨夜よりもその音は控えめで、寝起きの二人のためにあまり大きな音をたてぬようゆっくりコーヒー豆をひいているのだとわかりました。
それを証明する様に昨日はやかんがなるよりも早く出来上がっていたコーヒーの粉が今日はやかんがなってもまだ出来ておらず、一度やかんを火から外して豆を挽き終えてから少年はまたやかんを火にかけています。一度沸騰して時間もたっていなかったためすぐに音を立てたやかんのお湯をコーヒーに丁寧にゆっくり注いでいきます。立ち昇るコーヒーの香りが目覚めたばかりの鼻をくすぐりました。
浅い夢をたゆたうように時間は流れていきます。
「お姉さんもおはようございます。」
湯気のたつマグカップを両の手に一つずつ持った少年が二人へ差し出しながら言います。それにおはようと返しながらマグカップを子どもが受け取りました。男も自分の方へ差し出されたマグカップを受け取ります。
一度コーヒーを入れていた場所へ戻った少年は自分のマグカップを片手に、もう一方の手にカンテラを持ち、男と子どものもとへとまた戻ってきました。
「嵐は行ってしまいましたよ。どうですか、外でコーヒー、飲みませんか?」
少年の提案に、男と子どもは顔を見合わせてから、もちろん、とこたえてコーヒーをこぼさないようゆっくり立ち上がりました。
ずぶ濡れではなく嵐も去った中歩む洞窟は少しだけひんやりとしていて、とても静かです。三人分の足音を幾重にも反響させて洞窟はゆっくり外にむかい狭くなっていきます。
「もうすぐで外です。」
少年が掲げたカンテラがゆらりと光ります。子どももほんの少しかがまないと出られない洞窟の入り口を三人が抜けるとそこは一面開けた野原で、男と子どもがいたはずの森は遠く野原の向こう側でした。
見上げた空に浮かぶのは眩いばかりの太陽の光ではなく、零れ落ちてきそうなほどに輝く満天の星でした。息をのむほどに美しく輝く星々はそれぞれ少しずつ違う色、違う強さの光でまたたいています。
言葉で言い尽くせないほどの景色に、誰も口を開くことはなく静かに空を見上げていました。一瞬のような永遠のような瞬間の連なり。
それをはじめに破ったのは少年でした。
「美しいでしょう、ここの星空は。」
その言葉でやっと地上へと心を戻した男と子どもをみて、少年は一口コーヒーを飲みました。
「昨日、言いましたよね。だからここにこられたんだね、って。」
静かに、微笑んで少年は言葉を繋ぎます。
「目に見えないものを信じていて、自身を探しているお兄さんたちだったから、ここにこられたのだとおもいます。」
ここは、本当は、誰もこられないのだから。そう、少年は言いました。何のことかわからない男は質問をすることさえできずに、少年の言葉を待ちます。
「僕の名前は、孤独。ここは永遠の夜を紡いでいく、僕だけの、僕しかいない草原です。」
かわっていくのは星ぐらいのものです。雲も出ない、そういう場所だったのですが、と少年は一度言葉を切りました。
「嵐が来て、お兄さんたちが現れました。それは、ながい時を生きる僕にとっては初めてのことだったのですよ。」
そりゃあ驚きました、心臓が止まるかと思うほどにね、と少年は楽しそうに笑ってから、コーヒーの入ったマグカップを軽く傾けこくり、と飲み込みます。
「ならば孤独、君はずっとこの洞窟と星空の中を一人でいたのか。」
言葉を選ぶようにゆっくりと、男は少年に問いかけます。少年はこくりと頷き、でも、とこたえます。
「でも、寂しいとはあまり思いませんでした。僕と同じようなひとりぽっちがたくさんここにはいて、話せなくても美しい彼らと一緒でしたから。」
それに彼らばかりではなく、見えるもの以外にもたくさんの友がいるのです、光がみえなくても彼らは確かにいるのです、と空を仰ぐ少年の瞳にはたくさんの光が映り、彼の瞳の中をまたたいています。
「見上げた空が綺麗で、温かい一杯が美味しくて。それだけで僕は十分すぎるほどに幸せだとおもうのです。」
いつかいなくなってしまうまで、きっとこうして一人星空に抱かれ続けること、僕はけっこう気に入っているのですよ、と空から少しだけ視線をおとし、男と子どもを見つめた少年は微笑みました。
少年の生きていく道を彼自身が愛する、それにかける言葉なんて一つもなくて、男と子どもは少年につられて夜空を仰ぎます。
マグカップのコーヒーにはきらめく星といつもより少し遠く見える黄色い月が浮かんでいました。揺らめく水面に光を散りばめながら、空を見上げて飲んだコーヒーは少しだけぬるく、洞窟で飲んでいた時よりも苦く感じました。
さぁ、もう冷えてしまうから洞窟に一度戻りましょう、と少年が男と子どもをうながします。飲み干したコーヒーのマグカップには星も月ももう映ることはなく、ただ彼らの頭上にまたたくばかりでした。
暗い洞窟の中に戻って三人は、ひいたままだった布団に座って、焚火の炎を見つめています。
「旅した世界の話を、してもらえませんか?」
僕はあの夜しか知らないから、とじっと焚火をみつめたまま少年がいいます。
男と子どもはかわるがわる今までにみたものについて話しました。
どこまでも遠く広がる海のこと、打ち寄せる波音の穏やかだったこと。かがやく朝に舞った白い光のこと、夜明けの空を彩るたくさんの色のこと。色もかたちもそれぞれ違う草花の話、小さな白い花のことや朝と夜をまとった花のこと、甘い果実や木々の木漏れ日。たくさんの今までに見た景色を少年に話しました。誰とも話すことなく、会うことなく暮らしてきていた少年に、他の人々のことを語っていいものか悩んだ二人は、どちらもそのことを口の端にのせられないまま話し続けています。
知っている限りの話をして、二人の言葉が尽きれば静けさが彼らを包みました。ぱちぱちと響く焚火の音を縫って、少年がどうもありがとう、と二人に言います。それともう一つだけ、と男をみる少年の瞳は深く穏やかな夜空の色をしていました。
「みんな、幸せに生きていますか?」
触れていなかったそれぞれに生きている人々のことをきかれ、一瞬だけためらった後、男は、あぁみんな、精一杯に生きているよとこたえました。
「そっかぁ。」
ふふ、と笑って、それならいいんだと少年は小さく小さく呟きました。
「たくさん話してくれてどうもありがとうございます。僕も旅したようでとても楽しかった。」
ぺこりと頭を下げて少年は続けます。
「僕ばっかりきいているのでは割に合わないですよね。ではひとつ、とても短いけれど僕が知っている話もしましょう。」
年齢に似合わない話し方をするとは思っていましたが、きっと少年は男たちよりもずっとながい時間をたった一人生きてきたのでしょう。無邪気に笑う少年はちょっと待っていてくださいね、と部屋の入り口の方へ行ってしまいました。
戻ってきた少年の手にはカンテラが揺れています。
ストンと座ってカンテラを自分の目線までく、とあげます。
「このカンテラは、灯心の代わりに、星心とでもいえばいいのかな。自分の命を灯火に光をはなつ星たちの欠片を、炎の代わりとしていれているのです。だから光は消えずにずっと燃え続けています。僕のこのカンテラは、星のランプなのです。」
少年の顔に体に、洞窟の壁に天井にあたたかな光が揺れています。その光を瞳に映しながら、男は小声で星のランプ、と繰り返しました。
「これは僕が唯一全部をみることができない星の欠片なのです。」
僕はぜんぶはみえないけれど、でも唯一感じられる熱なのです、少年の言葉をききながらはじめてじっとみつめた光は確かに炎よりもしっかりとしたかたちを持っていて、時々赤い光が列をなし飛び跳ねています。
「これで僕の話はおしまい。」
ふっと笑ってカンテラを持ったまま少年は立ちました。
目の前から消えてもなお、何よりも強い光を放っていた星のランプが、目蓋の裏を照らしています。気がつくまではただのカンテラだったのに、気がついてしまえばそれはとても力強くこの洞窟を照らしていたのでした。
「服も乾いたみたいですね。もうそろそろお兄さんとお姉さんは、帰らなきゃ。」
カンテラが前後に揺れるたび、小さくきぃと音を立てます。
少年が言うとおり、あんなに濡れそぼっていた服はもう乾いたようで、炎の風にあおられて軽くなったその身を揺らしました。
ありがとう、と礼を述べて貸してもらったコートを少年に返し、二人は自分の服を身に着けました。
洞窟を抜ければそこはやはり美しく変わらない星空が広がっています。
「あっちに森があるでしょう?あそこに向かっていけばきっと帰れます。」
少年が指さした先には、嵐の日、自分たちが抜けてきた森が遠くにみえました。星と月の光でぼんやりと足元はみえています。カンテラのあかりがなくなっても、歩いて行けそうでした。
「あそこにある、オリオン座がわかりますか?」
オリオンを指さしながら言う少年にあぁ、とこたえます。
「オリオンから西へすこし、オレンジ色に輝くアルデバランがあります。それをもう少し西にいったあのたくさんの小さな星が集まる場所、あのスバルヘむかってまっすぐ歩けば大丈夫です。」
少年が指で辿っていく先に輝くスバルを見つけた男と子どもは、何から何まで本当にありがとうと少年に頭を下げました。
僕こそ楽しい時間をありがとうございました、とぺこりと頭をさげます。
「どうかお気をつけて、さようなら。」
そう言って手を振る少年に背を向けて二人は歩き始めました。スバルを目印に、暗くなっていく草原を踏みしめて、森へ向かって歩いてゆきます。振り返ると少年がもつカンテラが夜を照らして光っているのがみえました。光はみえても、それを持つ少年の姿はもう夜の闇にとけてみえませんでしたが、その光が少年がまだ見送っているのだと男たちに教えました。
まっすぐ歩いていればだんだんと森は近づいて、あともう少しというところで不意に男たちの影がのびました。
振り返ると一面の草原の向こうには岩もランタンの光もなくなって、白んだ空に太陽が昇っていきます。夜露に濡れた草原を照らし、まばゆい光が夜明けを告げていました。
夜の闇に溶けるように消えていった男と子どものその姿が見えなくなってしまうまで手を振り続けていた少年は、確かに二人がいなくなったのを見届けて、その手を下げました。
知ってしまうと、少しだけさみしいものだなぁ。そう呟いて少年は星空を見上げます。
それでも、その思い出は胸にじんわりと温かく輝いていつまでも消えないのだと少年は知っています。数えるほどしかない大切なものを抱いて、少年は今日もどこまでも美しく澄み渡った星空を見上げるのです。
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